投稿元:
レビューを見る
つらいとき、かなしいとき、自分がわからなくなったときは必ず読み返します。演劇の戯曲ですが、「あとがき」もかなり好き。
投稿元:
レビューを見る
好き嫌い・わかるわからないがはっきりするでしょう。鴻上は笑いに拘ってるくせに笑いに関してセンスが無い。うっとおしい笑えない素人お笑いなんかいれなきゃもっと評価も高いだろうにね
大高・小須田・京・筧・勝村のVer.が好きです
投稿元:
レビューを見る
当時新しい演劇とか言われてたっていう予備知識しかない私が、一度読みたかった戯曲。でも…
Neil Youngの“Rust never sleeps”のように、中身が本物ならば時代を経ても錆び付くことはないはず。そうでしょ?でも…
まず、この目にも眩しい表紙の蛍光色を見ただけで悪い予感(または悪寒)がした。
「そんなことない。一世風靡した鴻上作品なんだから、舞台じゃなくてもハイスピード&ハイテンションで読者をそっちの世界へ連れてってくれるはず」
鴻上作品は未読未見だったけど、あのバブル期の舞い上がった雰囲気とは全く違う高揚感に入れるのかなって思ってた。
でも何なんだろう?このこっぱずかしい感じは?
私が思うままに列挙してみる。
1 言葉や風俗の陳腐化=この本のセリフ回しって当時は同世代のアンテナにキャッチされたヴィヴィッドな言葉ばっかだったかもしれないけど…
ちょっと待て。40ページに「ざーとらしく」て出てくるよ、オイオイ。当時ですら(少なくとも大学生だった私の周りでは)ざーとらしいなんて恥ずかしい言い回し、もう使うヤツって絶滅してたはず。劇団の狭い人間関係の中で毎日過ごしてるから、言葉の新陳代謝が鈍ってたんやね…
2 スナップ写真のこっぱずかしさ=役者の面々には悪いけど、役者陣のファッション…今から見ると「それ罰ゲームで着させられてるの?」な感じ。
肩パットゴワーンのダブルのジャケットに、幅広ネクタイの柄がペイズリーみたいなハデハデしいやつ。今じゃ萬田はんしか着ないよそんな服!笑っちゃダメと言われても、劇中スナップが出てくるたびにプッて噴き出してしまう。
3 ギャグのすべり=これも役者には非常に申し訳ない。額に汗してセリフを言う役者の姿を想像すれば茶化すなんてとんでもないのはわかる。でもギャグ(のつもり?)の寒さときたら、もういかんともしがたい。本当に申し訳ないけどクスリとも笑えない。
脈絡なく急にセリフに大仁田厚やら島耕作やら出てきて、同文脈でゴドーが出てくる展開は、マカロニほうれん荘を彷彿とさせるけど、活字を追うことで、ああいう変わり身の早いギャグオンパレードを脳内で再生画像として取り出させるというのは、かなり難しい。
それとさっき出した固有名詞を見てもわかるけど、旬を過ぎてるんよやっぱり。だから当時の感覚でそのまま反応できない。
たとえば29ページにこういうやり取りがある。「このさい誰でもいいです。弟だけが幸せになって、悔しいです。」「誰だ、貴様は!?」「機動戦士ヒロノミヤ」…これって意味わかる?でも意味わかっても、「で、だから?」でしょ?
そんなこんなで読み進め、後半ページ残り少しというところで急に始まる「しりとり」、しかも延々。これはマラソン35km地点での先が見えない上り坂のようにキツイ。
そしてテーマをつかみ切れないまま、あっという間に終幕。91年の再演時にはカーテンコールがやまず、だったかもしれないけど、私は取り残されたようにポカン。
でもそれじゃあ悔しくて、なんか手がかりを得たいとネットサーフィンしてたら、第三舞台の公式ウエブサイトに行き当たって、鴻上氏の一文を見つけた。
「ある時…電車のなかで一心不乱にルービックキューブをやっている男を見ていたんです。そのうちに、その行為と僕らの物質はすべて原子からできているが、その原子がばらばらになって、気の遠くなるような時間を経た後に今と同じ分子配列が再びできあがる、というイメージが結びついた。それがこの作品の発端です。」
それで頭の中に、ルービックキューブを両手で色が揃うまで回し続ける画像が浮かび、そして(突然だけど)「!」ってひらめいた。
ルービックキューブの六面の色が揃っているのはほんの一瞬で、また色は変わって行き、そして、いつかはまた色が揃うかもしれない。
色が揃っている現象が本来というのでははもしかしたらなくて、瞬間瞬間の色配置にそれぞれ真実があり本来性がありそれが推移していく、1つの形は有していて、集合と離散をなしながら表象が変化するという映像が浮かび、「ああ、鴻上さんが言いたかったのは、もしかしてこういうこと?」と思うに至った。
そうなると、「しりとり」も「『ん』でもそのまま続くしりとり」を繰り返すことでわかるように、終わりのようでいて終わりのない現象を表現しているのかもしれず、「朝日のような夕日」も実は「朝日というはじまりは実は夕日という終わりであり、夕日という終わりは実は朝日と言うはじまりであり…」という表現であり、ゴドーが来るのか来ないのかというのも偶然性の真実性というように、1つの静止した概念が変化を繰り返して姿を変えているようでそれぞれの現象自体に真実があるという【万物流転】というキーワードに結びついた。
うーん、こんな読み方であってますか?鴻上さん。
でもそれをやるならトマス・ピンチョンのように徹底的にやってほしかったかな?正直、食べ足りなかったので星2つ。