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「ヒトの考え方の形式は、昔から変化していない。
変化するのは内容だけである。
科学も技術も、結局はヒトと同じモノの見方である。
コンピュータにそれができるだろうか。
できない。
なぜなら、もしそれが目の前に存在しても、
ヒトはそれに気づかないからである。
科学技術が引き起こす、予測不能な変化というのは、
論理的にはこれだけではないか。
もし変わるとすれば、人間が変わるしかない。
人間が変わるというのは、すなわち神経系が変わるということである。
神経系が変わるということは、何が起こるかという予測を超越するということである。
たとえばタバコや酒や麻薬で、ヒトは神経系に機能的変化をおこさせ、その結果を見てきた。
その程度でも世界はずいぶん違ってみえるのである。
ヒトは今、その可能性を手にしつつある。
それが実現されるとき、科学と技術は真に一体化するしかない。
モノの見方と現実が、そこでは一緒になってしまうからである。」
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人間には猫やクジラのような感覚器としてのヒゲがない。これは人間が二足歩行をし、顔面が全面に出ることがなくなり、かわりに手がヒゲの役割を兼務することになったからだという。じゃぁ、ヒゲの痕跡は全くなくなったかというとそうではなく、人間の表情筋がその名残だという。
解剖学は医学、生物学、神経科学などの領域におけるフィールド調査みたいなものだ。どういう構造になっているかを徹底的に調査する。そのために覚えることも膨大だ。普通の学問なら法則によって知識を小さく収納できるのに対し、解剖学は辞書のように一つ一つをそれ自体覚える必要がある。
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「ヒトの見方」3
著者 養老孟司
出版 筑摩書房
p314より引用
“トゲナシトゲトゲはカヤのような植物の葉を喰い、珍しく、ト
ゲトゲのくせにトゲがないので、トゲナシトゲトゲという。”
解剖学者である著者による、あちらこちらに掲載した原稿をま
とめた一冊。
書評からエッセイ風のものまで、硬軟取り混ぜた理路整然とし
た文章で書かれています。
上記の引用は、虫について書かれた項での一文。
これだけ大きく矛盾した名前をつけるにあたって、発見命名者は
どのように思われたのでしょうか。
生物学や形態学について書かれている部分と、この項のような
気楽な部分との落差があり、飽きない作りとなっているのではな
いでしょうか。
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私の好きな養老孟司による古い本で、結構長い間積ん読していたが読了した。特に解剖学的な専門知識を必要とするところは飛ばして読んだ。そんな中でも名言に出会う。
下記引用
P65「物事をとことん理解するのは、ことほどさように大変である」
P68「やる時は一所懸命やりなさい、としか言いようがない。結果がどうあれ、ものごとはそれ以外にはやりようがない」
P70「世の中にわからぬことがあるくらい癪なことはない」
P72「大学は勉強をするところであり、それには際限がない」
P116「もっぱら食う為に働くか、空いた時間を見つけてさまざまなゲームにはげむか、という問題である。あるいは、実業にはげむか、学問、芸術にはげむか、という問題である。そんなものに既製の答があるわけはない」
P203「本人が楽しんでやっている仕事の良さは、はたから見てもその仕事が楽しい、というところにある」
P301「何事にも人は慣れる。数学が判らない時に、いちばん判っていない状態では、自分は何が判らないのか、がまず判らない。これを昔から、何が何だか判らない、と言う。しばらくすると、どこが判らないのか、判らない所がはっきり判ってくる。本当に話が判るのはそのあと、である。
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帯表
人体から広がる思考の宇宙
解剖学者は躰を通して何を見ているのか-。
ヒトについての理解を深める刺激的なエッセイ集。
文庫版あとがき
解説 ヒトの味方・読書の見方 筒井康隆
本書は一九八五年六月、筑摩書房より刊行された。
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解剖学者としての著者がさまざまな機会に発表したエッセイをまとめた本です。
著者は、『唯脳論』(1998年、ちくま学芸文庫)や『バカの壁』(2003年、新潮新書)といった著作で、独創的なものの見かたを示し、多くの読者を獲得しましたが、その出発点となった思索が随所にうかがえるという点でも、興味深い本だと思います。
著者は「物の見方」について、「その叙述の内容そのもの」と、「その叙述が、ある状況で、ある人によって、どういうふうにか、なされたということ」という二つのとらえかたがあるといいます。このことが、形式と内容と言い換えられ、その後著者の独創的な思想へと展開していくことになるのですが、本書ではその考えかたが比較的解剖学に密着したところで展開されていることに特徴があります。
たとえば、マウスの洞毛から人間の表情にまでおよぶ比較解剖学的な考察をくり広げたうえで、哺乳類における形態の多様性が説明されるとともに、こうした対象のありかたを機械論的・機能論的・発生論的・進化論的に説明するという、解剖学の「物の見方」へと著者のまなざしは反転します。そのうえで、「物の見方」によって規制することのできない「物」の多様性を観察するのが解剖学のまなざしであるということが論じられ、虫を愛好する著者自身の趣味にまで説きおよびます。
著者は、みずからの議論が「哲学」の認識論と踵を接していることを認めつつ、あくまで著者自身の立場は「解剖学」であると主張し、認識論的なロジックの辺縁をたどっていくという独特の議論のスタイルを実演して見せています。こうした点で、自然科学よりもむしろ「哲学」に関心のある読者にとって、新鮮な印象をあたえる本なのではないかと思います。