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フランス・ルネッサンス期を生きた人々の群像。フランスのルネッサンス期を知るための入門書。平易な語り口で説くユマニスムの世界。
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20110107
大江健三郎氏の先生の本。
たまたま金子晴勇『宗教改革の精神』(講談社学術文庫)という本を以前に古本屋で手に入れて読んでいた。その本で扱われる中心人物としてエラスムスとルターがあり、世界史の時間にしか名前をきいたことのなかったそのエラスムスの話を友人としたときに、彼がこの本『フランス・ルネサンスの人々』を紹介してくれた。彼から著者の名前を聞いて、ああそれは大江健三郎氏の先生だ、ぜひ読みたい。読みたいなら貸してあげるよ、ということで、その日以来、少しずつ、一人一章の人物伝を読みはじめた。
この本との個人的な出会いをレビューに書いても仕方ないけれども、友人も含めたぼくの尊敬する人物のつながりのうちにこの書物を手に取ることになったことの意味は、ぼくの中で大きい。
本書中に何回も引かれる「それはキリストと何の関係があるのか」ということば。
このことばは、静かで、小さな、諭すような声。
宗教改革のダイナミックな面にだけ注目するなら、「それはキリストと何の関係があるのか」ということばは声を大にした叫びに思えるかもしれないが、著者がぼくに伝えてくれたのは、新教と旧教の過激さを増す対立の中で、また新教の内部での粛正のうちに聞こえた、そして多くは無視された忍耐強い諭しである。「それはキリストと何の関係があるのか」。
最終章で取り上げられる人物セバスチャン・カステリヨンの言葉の引用が心に沁みる。
「どこかの誰かが、これから何かを学びとり、私が真実を述べたということを認めてくれるだろうと念願いたします。そうなった場合、その人が、たとえ一人きりでありましょうとも、私が無駄骨を折らなかったということになりましょう。」
ぼくもその「どこかの誰か」かもしれない。たとえぼくのような末端の、とくに何の力も持たない者でありましょうとも。
小さい声であろうと、実をすぐには結べなかろうと、「それはキリストと何の関係があるのか」という反省を促すことばが確かに伝えられてきたことは尊いと思います。
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大江健三郎氏の本の随筆のなかに、よく登場されていた渡辺一夫氏の本。本といっても、物語ではなく、このタイトルにある時代の人々を追跡した、というもの。中世のヨーロッパのことなど、日本で習うことははとんどない。
これを読んで、宗教を持つ難しさ、エラスムスにいたく感動したのは確かです。
私は、これを書くことにした渡辺一夫氏に、さらに感動しました。
研究者なら皆同じことをしたとは思えないです。
本当は、渡辺一夫氏の本をもっと読みたかったのですが、小説家ではないため、少なく、残念です。
人柄をしみじみと感じながら読むに至り、愛読書となってしまったのです。
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フランス・ルネサンスと関わりの深い12人の略伝集。古典学者ギョーム・ビュデ、アンリ4世、カルヴァン、イグナティウス・デ・ロヨラなど有名な人々の略伝も含まれる。特にビュデは、ソルボンヌに代わる学術機関として、現在のコレージュ・ド・フランスに連なる王立教授団の設立に奔走したという点で、フランス・ユマニスムを論じる本書にとって欠かせない存在になっている。他方政治史的には、新教と旧教の分裂、ユグノー戦争によるフランスの戦乱など、宗教的理念の対立が時代の軸になっている。そこで本書では、このような宗教対立の時代に宗教一般を軽視するかのごとき思想の持ち主たちにもスポットライトが当てられ、それがサン・バルテルミーの虐殺のような悲劇を生じさせる考え方といかに違っているかが力説される。それだけに、ジュネーヴで神権政治を敷いたカルヴァンに対する著者の評価は、厳しいものがあるように思われる。
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請求記号:235-WAT
https://opac.iuhw.ac.jp/Akasaka/opac/Holding_list?rgtn=2M020274
<小畠秀吾先生コメント>
ルネサンスと言えばイタリアの華やかさを思い出す人が多いでしょうか。フランス・ルネサンスは新教と旧教の宗教対立の血なまぐさい時代でした。本書は不寛容の時代に凜々しく生き(ようとし)たさまざまな立場の人を紹介します。ルネサンスが人間性の回復だとすれば、人間性とは実に大きな痛みを伴うもの。本書にも登場するアンリ4世の「大計画(グラン・デサン)」の四百年後の果実であるEUが危機に瀕している現代の不寛容の時代にこそ読み返したい本。
<BOOKデータ>
フランス・ルネサンス(16世紀)は人間の解放と共に暗澹たる宗教戦争を経なければならなかった。激動期を苦悩しつつ生きた地位も職業も異なる十二人の生涯を辿る。本書にこめられた著者のメッセージは「常に自由検討の精神を働かせて根本の精神をたずね続ける」というに他ならない。
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古典学者ギヨーム・ビュデ
外科医アンブロワーズ・パレ
陶工ベルナール・パリッシー
宰相ミシェル・ド・ロピタル
占星術師ミシェル・ノートルダム(ノストラダムス)
出版屋エチエンヌ・ドレ
東洋学者ギヨーム・ボステル
王公アンリ4世
神学者ミシェル・セルヴェ
教祖ジャン・カルヴァン
教祖イグナチウス・デ・ロヨラ
神学者セバスチャン・カステリヨン
16世紀を生きたほぼ同時代人。
最後のカステリヨンの文末が全てを語ろう。
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岩波文庫 渡辺一夫
「 フランス ルネサンスの人々 」
ルネサンス期(16世紀)のフランス宗教戦争の渦中にいた人々を取り上げ、ユマニストの持つ人間観やユマニストが理想とする人間像を明らかにした本
人間同士が同一の神の名において殺戮しあう宗教戦争の愚劣さのなかで「それは、キリストと何の関係があるのか」という問いをユマニスム精神の根本と捉えている
序章の「自由検討の精神」についての論考は 現代における異文化理解にも通じる名文。「自由検討の精神は〜人間が心して持つべき円滑油のごとき、硬化防止剤のごときもの」
〈手〉〈理性〉〈言葉〉とは、人間の三大属性として、自然のなかで社会を結成してゆく人間生活の根本にある
ユマニスムこそ、必ず我々が知らずのうちに陥っている偏見を超克し〜一段と高いところに我々を導いてくれる
真の文明とは、人間の懈怠と無思慮にさからう人間的な意志であり、異端者とは、その間に現れる使徒である
ユマニスムは思想ではない〜人間が人間のつくった一切のもののために、ゆがめられていることを指摘し、批判し通す心である
狂信や暴力による歴史の進行と打開は人間としては楽であり、ユマニスムによる地味な前進打開は、人間全体の深い変革を求めているだけに、苦しい仕事になる
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宗教改革の嵐吹き荒れる16世紀フランス、それぞれの立場で時代と格闘した12人の生涯を辿りながら、ユマニスムという確固たる精神のかたちを浮き彫りにした名著である。著者渡辺一夫は言う。「ユマニスムとは思想ではない・・・人間が人間の作った一切のもののために、ゆがめられていることを指摘し批判し通す心にほかなりません。・・・あらゆる思想のかたわらには、ユマニスムは、後見者として常についていなければならぬ・・・」思想なしで生きられないのが人間の性ではあるが、思想の奴隷になることだけはすまい。それを見届けるべく監視するのがユマニスムである。
読者にこのユマニスムの意義を強く確信させるのは、カルヴァンと彼を取り巻く人々の波瀾に満ちた軌跡であるだろう。動脈硬化に陥ったカトリック教会に対し、「それがキリストと何の関係があるのか」と反旗を翻したのがプロテスタントであり、カルヴァンはその最も先鋭な闘士であるが、その過程において、自ら批判した相手に勝るとも劣らぬ苛酷な恐怖政治を招き入れてしまう。思想に憑かれた人間の悲劇であり、ある意味では喜劇とさえ言える。
渡辺のユマニスムの甘さをあげつらうことはやさしい。ガンディーの如き苛烈な非暴力・不服従の覚悟を伴わぬ微温的な平和主義はその一つかも知れない。また本書は渡辺が対峙した政治状況への過剰な思い入れが投影された作品であることも否定できないだろう。だが評者は上に掲げた渡辺のユマニスト宣言には満腔の賛意を惜しまない。それは徹底した懐疑に貫かれつつも、決して人間への希望を失わない強靭な精神と言える。幾多の批判にもかかわらず、永く読み継がれるべき洞察を散りばめた本書はまさしく古典の名に値する。渡辺のユマニスムをより深く理解するためにも『 狂気について―渡辺一夫評論選 (岩波文庫) 』を併せて読まれることを勧める。