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シベリア抑留された人たちの話です。
いろんな意味で人の強さが見えます。
劇団四季「異国の丘」の原作らしい。
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同僚から薦められた1冊。収容所での生活が淡々と綴られる。文字とか言葉、文学っていうのは心の支えになるのだと改めて思った。先の見えない生活、強制労働、そして空腹…。それらに耐えうるだけの力は広い意味での「故郷」なのだ、と。何か別の本を読んだ際、人々が記憶にある話(物語だったか、古典的なものだったかは忘れたが)を順に話していく、というのがあった。遺書を記憶するのもそうだが、人の脳は無限の可能性を秘めているのだと感じさせられた。
8月。もうすぐ広島、長崎に原爆が落とされた日、そして終戦を迎えた日がやってくる。
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もともと浅草キッドの水道橋博士の影響で買って積ん読状態に。
たまたま観に行くことになったトム・プロジェクトプロデュース「ダモイ~収容所(ラーゲリ)から来た遺書~」観劇(8/1)を機に原作本として読みました。
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是非、映画にして後世に伝えたい1冊。但し黒澤なき後ではハリウッドメイドで製作お願いしたい。人道、人命、が紙屑の様に扱われる現実の世界。映画「ブラッドダイヤモンド」や「ナイロビの蜂」も同様。ラストは涙無しには読めない、日本人なら必読の書。拉致事件は何十年経ったら解決するのか。
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おそらく現代日本では無名なのだろうけど
山本幡男という人の生き様に感動!
どんな悲惨な状況でも、希望を失わない。
文に書くと簡単だが、いかにそれが大変なことか。
それが出来た稀有な方だったのだろう。
誰か映画にでもしてくれませんか?
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戦後、シベリアの収容所で強制労働をさせられていた人たちの話。書き方が非常にマイルドなため、恐らく凄惨を極めたであろう状況をやわらかく伝えているような気がする。与えられる食べ物も少なく、寒さ、重労働、いつまで続けなくてはならないのか分からないといった状況の中で、希望を失わずに、また文化的な生活を送ろうと努力する中心人物がいる。あのような状況で信念を持ち続けた事を考えると非常に強い人だったのだと思う。
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10代の終わりに読んで、非常に感銘を受けた本です。生きること、真摯に生きること、とことん生きること・・・。感動で本当に体が打ち震えることってあるもんなんだなと、読み終えたときの衝撃は今でも忘れません。
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(2005.11.14読了)(2005.09.28購入)
「戦場から届いた遺書」NHK人間講座、の第8回『「記憶」で届けられた遺志』で取り上げられていた山本幡男さんの話です。日本の敗戦直前に満州に攻め込んできたソ連軍により多くの日本人(約60万人)が、シベリアに連行され、強制労働(ソ連側では矯正労働というのだそうです)に従事させられました。山本さんもその一人ですが、満鉄調査部のソ連担当であったこと、日本の敗戦の半年前にハルビン特務機関にいたことが、ソ連の国内法第58条6項の「ソ連に対する謀略諜報行為」に当たるとされ、スパイ罪で裁かれ、重労働25年の刑を受けました。日本へ帰るという希望を失うと、生きる気力をなくし死亡してしまう(死亡すると白樺の根元に埋められるので、これを白樺派というのだそうです)。山本さんは合法・非合法の俳句会を開いたりして仲間を励まし、自分も帰るつもりだったのですが、喉頭癌性肉腫のため1954年8月25日に死亡した。死亡する前に4通の遺書を書き仲間に託した。日本に帰る時は、書いたものはすべて没収されることが分かっているので、遺書を仲間で手分けして覚えて帰ることにし、必死で覚えた。彼らが帰ることのできたのは、1956年12月末である。日本に帰りついた仲間たちは、自分の担当した分を、紙に書き付けて山本の妻のもとへ次々と届けた。自分で届けに行ったものもあり、郵送した人もいる。一番早い人は、1957年1月に届けている。最後に届けられたのは、1987年の夏であった。
この本は、山本さんに出会った人たちに取材し、その内容を年代順に構成し、シベリアにおける山本さんの様子を再現したものです。実に丁寧に描かれていて、日本へ帰るための船のタラップに足をかける場面では、思わず涙がこぼれてきました。(朝の通勤電車の中だったけど。)
「極光のかげに シベリア俘虜記」岩波文庫、の高杉一郎さんの場合は、4年で日本に帰国できたのですが、長い人は12年近くも収容所生活を送ったということです。国家というのは、なんとも理不尽なことをやるものだと思います。
●「日本新聞」(33頁)
「日本新聞」が創刊された1945年9月15日は、敗戦後一ヶ月目に当たり、ソ連が公式に占領終結とみなす9月9日から数えて一週間もたっていない。ソ連が早い時期から対日参戦を考え、日本人俘虜を抑留してシベリアでの労働に従事させることを決定していたと見ることができる。終刊が1949年11月27日であったのは、戦犯とされた人々を除く大多数の一般俘虜たちの帰国が、この年の内にほぼ終了したからだ。
●軍事俘虜送還(77頁)
日本人の軍事俘虜送還に関するソ連政府の公式発表が、1950年4月22日付の「プラウダ」紙に載った。「第二次世界大戦における日本人俘虜の送還が完了し、残っているのは戦犯またはその容疑者のみである」「ソ連邦から送還された日本人俘虜は、1945年に戦闘地域から開放された7万810名を別とし、51万409名である」と報じられた。
また、送還されない者たちについては、「戦犯行為により処刑されたものと審理中のもの1487名、病後静養中の者9名、中国人民に対する重大な犯罪のため中華人民共和国に引き渡される971名の軍事俘虜である」と書かれていた。
●スターリンの死(169頁)
ソ連側が月に一度���俘虜郵便」として支給した往復はがきの発信人住所には、必ず「CCCP」と書かせた。「ソビエト社会主義共和国連邦」の略称である。しかし、それを書くたびに日本人抑留者達は、「スメルチ・スタリーナ・スパスチ・ロシーユ(スターリンの死はロシアを救う)」と読み代えて溜飲を下げていた。そのスターリンが、1953年3月5日に死んだ。
●日本政府の対応(178頁)
日本政府が吉田外相の書簡を国連総会議長宛に送り、ソビエトが俘虜に対する国際協約に違反しているとの批判を行ったのは、1951年が初めてだった。
●山本さんの「日本文化研究会」(193頁)
「かつて、日本に『枕草子』『源氏物語』『徒然草』が現れた頃、イギリスはまだバイキングの時代だった。古く美しい文化を有する日本が、戦争に敗けて世界の劣等国と見做されている。古代の文化に限らず、彫刻にせよ、絵画や建築にせよ、私たちはもう一度、祖先の偉業に立ち返ってみる必要があるのです・・・」
●「幻兵団」(246頁)
シベリアから特殊な任務を帯びて帰国してくる日本人俘虜の一部を名付けて、「幻」或いは「幻兵団」という言葉で呼ばれたことがある。この人びとの特殊な任務は、ソ連に抑留中と、日本へ帰還した後との二種類に分けられた。抑留中の場合は、元憲兵や情報機関等の「前職者」の摘発や反ソ的な行為をする者たちを探らせ、密告させるスパイ任務で、スパイの数はおよそ8千名といわれた。また、後者は帰還後に日本政府や米軍に関する情報を入手し、思想的、政治的な諜報工作を行うようにと指令されたもので、5百余名いたという。
著者 辺見 じゅん
1939年 富山県生まれ
早稲田大学文学部卒業
1975年 「呪われたシルク・ロード」で作家デビュー
1984年 「男たちの大和」で第3回新田次郎文学賞受賞
1988年 「闇の祝祭」で第12回現代短歌女流賞受賞
1989年 「収容所から来た遺書」で第11回講談社ノンフィクション賞受賞
1990年 「収容所から来た遺書」で第21回大宅壮一ノンフィクション賞受賞
☆関連図書(既読)
「長崎の鐘」永井隆著、中央出版社、1976.06.20
「五十年目の日章旗」中野孝次著、文春文庫、1999.08.10
「極光のかげに」高杉一郎著、岩波文庫、1991.05.16
「戦場から届いた遺書」辺見じゅん著、NHK人間講座、2002.12.01
「パール判事の日本無罪論」田中正明著、小学館文庫、2001.11.01
「命こそ宝」阿波根昌鴻著、岩波新書、1992.10.20
(「BOOK」データベースより)amazon
敗戦から12年目に遺族が手にした6通の遺書。ソ連軍に捕われ、極寒と飢餓と重労働のシベリア抑留中に死んだ男のその遺書は、彼を欽慕する仲間達の驚くべき方法により厳しいソ連監視網をかい潜ったものだった。悪名高き強制収容所に屈しなかった男達のしたたかな知性と人間性を発掘して大宅賞受賞の感動の傑作。
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昭和31年、経済白書は「もはや戦後ではない」と明記したが、シベリア抑留者たちの戦後は終わっていない。
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第11回講談社ノンフィクション賞、第21回大宅壮一ノンフィクション賞、ダブル受賞。
終戦時にソ連の捕虜になった人たちの話。中心人物・山本幡男(はたお)は、周りのみんなに帰国の希望を抱かせる行動・発言をし、句会をするなどその知的で純粋な性格から、一目置かれる存在だ。
しかし喉頭ガンにかかり死亡。残された者たちは彼の遺書を日本に何としても持ち帰るべく、衣服に縫い付けたり暗記したりする。文書の類いは、収容所ではすぐ没収されるためだ。
もちろん本書も、文献が残っているわけではなく、体験談を編集して書かれたもの。どんな気持ちで捕虜生活を送っていたかが分かる、臨場感あふれる小説。
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永遠の0に続いて第二次世界大戦もの。
こちらも、現代人は知っておくべき歴史だと感じた。
まさに生き地獄収容所のなかにあっても希望を捨てず、さらにまわりの人間に笑顔を提供した山本さんにただ脱帽だが、なぜそんな彼が死ななければならなかったのか。人の運命の不条理さか身に染みる。
彼の遺書は号泣もの。
とくに息子へあてた遺書には現代人全員へむけたメッセージに感じる。
終始重いが読後感はすっきりしていた。
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文春文庫ノンフィクションフェアで見つけて購入。
シベリア抑留の中で必死に生きた山本幡男氏とその仲間が遺族に手紙を届けた話。
後半は涙しながら読みました。
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第二次世界大戦終結後、ソ連の収容所(ラーゲリ)に抑留された元兵士を描いた、ノンフィクション。 とあるラーゲリでの、精神的・文化的な中心人物であった山本氏の遺書を、共に生活を過ごした男たちが「持ち帰って」来るまでを捉える。 その顛末も驚くべきものがあるが、山本氏の「指」という誌が胸を打つ。 詳しくは(ないけど)、ブログにて。
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いちばん涙を流した本 追悼・辺見じゅん
作家の辺見じゅんさんが一昨日亡くなった。享年72歳。
彼女の作品を読んだのは「収容所から来た遺書」たった一冊だけである。
たった一冊だけだが、この本は私が今までの読書暦のなかでいちばん涙を流した本である。
読んだ後しばらく本当にワーワー泣いた。ツーンとかジーンではなく、滂沱の涙を流した。
そんな読書経験は初めてであった。
読んだのは20年近く前、出張途中で泊まった山形、肘折温泉のひなびた温泉宿の一室でひとりだけ。泊り客もほとんどおらず川の流れる音だけが大きく聞こえていた、秋だった。
太平洋戦争後ソ連軍によってシベリアに連行された日本人は約60万人、極寒の異郷で飢えと重労働の日々、望郷の思いを抱いたまま果てた人びとは一割を超える約7万人。そのなかのひとり、無名で偉大なる凡人山本幡男。彼を中心にした収容所生活のノンフィクションである。
極寒、重労働、飢えのなかで皆考えることは唯ひとつ望郷。「日本へ帰りたい!家族に会いたい!」その願いは容易には実現せず、最後のシベリアからの帰還船が舞鶴へ帰ったのは何と戦後12年目(「もはや戦後ではない」と言われ、当時私は小学校4年生で平和に暮らしていた。そんな時代にまだシベリアで地獄の日々を送る人たちがいたとは!)のことである。
最初は抱いた帰国の夢も薄らぎ寒さ、重労働、空腹の絶望的な日々のなかで、山本幡男は文集や句会で周囲の人びとを励まし生きる力を与えていく。彼自身は結局帰国することなく昭和29年(戦後9年も経っている!)病死するが、彼の生き方考え方に支えられ救われた多くの戦友たちが彼の奥さんや子供たちへの遺書を一言一句暗記する(収容所では文を書いたり持ち出すのは厳禁で句会も地面に棒で書いていた)。そして無事帰国できた戦友たちは、彼の遺言を句読点に至るまで一言一句、奥さんと子供たちに伝えた。
彼の遺書を一言一句暗記して家族に伝えた話は感動的であるが、それ以上にこの本で感じるのは、「今」を生きる人間の強さである。過酷な状況に置かれてもなお人間らしく生きるとは「今を生きる」ということである。投げやりにならず今を生きる、今を楽しむ。簡単なことではないが、どんな状況でも今を生きること!
子供たちへの遺書(抜粋)
「君達はどんなに辛い日があろうとも、人類の文化創造に参加し、人類の幸福を増進するという進歩的な思想を忘れてはならぬ。偏頗で矯激な思想に迷ってはならぬ。どこまでも真面目な、人道に基づく自由、博愛、幸福、正義の道を進んで呉れ」
辺見じゅんさん、素晴らしい本をありがとうございました。 合掌
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遺書すら持ち帰ることが困難だった時代において故人の遺書を慕う人々が記憶して日本に帰国したという事実に深い感銘を受けた。人の想いの深さや生きることさえ希望を失う収容所生活から生還した人々の生き様を垣間見ることができた。著者はよく取材しており、すばらしい作品だと思う。