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人は遅かれ早かれいづれ死ぬ。大作家だって犯罪者だっていづれ死ぬ。死について考えないで人生終えれたらどんなに楽だろうと思う。死は怖いし死んだらどうなるかなんて誰もわからない。だから人はその死の恐怖をやわらげるために宗教に頼ったりするんだろうか。
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キリスト教徒である筆者が、”死”について思うところを述べている。だからといって一つの宗教にとらわれるのではなく、語っている。その語り口は圧倒的にやさしい。
2022年8月再読。
ホスピスや延命治療等の内容を聞いていると少し時代を感じる。著者本人も最後に言っているようキリスト教談義となってしまわないようにしたとのことで、別の宗教の観点等も所々でてくる。
P.33
私小説家たちは一種の自己鍛錬というか、自己修行というか、そういうものを無意識に積んでいったんでしょうね。そういうものを一つ一つ積んでいって、円熟というところへ到達したんでしょうね。そうでないほうの、うまく年をとれない作家たちは、老いるにつれて心のみにくさが出て来る人もあるでしょう。そういう日おてゃ、あいつはいやな奴だなあと言われるでしょうか、それは死ぬ前に胃に溜まったものを吐いて死ぬ人生と、ちゃんと消化して死ぬ人の違いで、大きな神の眼から見たらそう大差はないということではないでしょうか。
P.142
「信仰というものは、九十九パーセントの疑いと、一パーセントの希望だ」と言ったのはフランスの有名なキリスト教作家ペルナノスですが、私は本当にそうだと思うんです。
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カトリック作家の遠藤は、『死』をテーマにした本を書いてくれ、という出版社の以来を再三断っていたと言う。その理由として、キリスト教談義になるのを恐れたから、とあとがきで述べているのを読んで、なるほどと思ったのは、自分がこれを読みながら持った思いが、「何でわざわざこんな宗教くさいもんをいまさら書くのか」というものだったからだ。誰もが迎える『死』というものを、誰もが理解できる平準化した視点でその「心づもり」することの大切さを、語っている。
死についてなぞ、わざわざあつらえて述べなくても時が来れば理解する、というのが私の宗教家としての立場だが、実に表面的に捉えれば、そこいらの人とも変わんない持論だということが、なるほどわかった気がする。死を迎えるのは人には変わってもらえない、自分の人生の一大イベントなのだから真剣に向き合う必要はありますね。
09/4/3
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読みやすいエッセイ。氏の持つ優しさが滲み出ているエピソードに好感を持った。タイトルから想像するような暗い内容ではなく、死を肯定的に見ている。キリスト教的な考え方が度々出てくるが、抵抗なく読めた
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・諦という字、これはあきらめで、日本では普通ギブ・アップと同じ意味だけど、仏教ではこれは悟りである。我執とかエゴとかあらゆる執着から脱却することらしい。
・日本人には、どういう死に方をしたか、それを重要に見る死に方の美学というものがあります。
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著者の遠藤氏はカトリックの視点から『沈黙』などの多くの小説を残した作家ですが、この本はそうしたキリスト教的死生観を越えた、著者の肉声が聞こえてくる内容です。例えば、次のような印象的な一節があります。
「私たちは必ずしも死の沈黙を絶対的に無の沈黙・消滅の沈黙と重ね合わせることは出来ない気がするのです。茶室に正座している人は、茶室の静寂を内容空虚な静けさとは思いません。その空間の中には、宇宙の生命に溢れる何かが含まれています。禅室の静かさや無を単なる虚無と思われる方は居ないでしょう。」
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生まれてから20年も経っていない私が読んでいると、当然ながら自分のフィルターを素通りしてしまう情報は多いと思う。しかし、メモを取りながら読み返すと、意外と心に引っかかる記述も多かった。
死に対する切迫感はいまだ味わったことがない。
彼によれば、死について考えるのを先延ばしにするのは、本心をごまかしているか怠けているだけだとか。
個人的な意見では、むしろ、迫り来るものがないうちは、自らの死について考える必要はないと思う。というか、感情が漠然としすぎてあまりにとらえどころがない。変な結論しか出ない。
自らの死については、迫り来るものとして実感できないが、近親者の死は、着実に近づいてきている。
そういった人達とのかかわり合いを通じて、死に対する考えを深めていける気がする。
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もう少しで還暦を迎える身となり、そして亡くなった友人の噂を聞くたびに自らの死を考えるようになりました。私は、死は全てを無に帰すものだと考えていますが、著者が書いているように大事な人や愛した人愛してくれた人が待ってくれている世界があるかもしれないと考えると漠然とした恐怖が少し和らいだ気がします。
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20年も前に書かれた本ではあるが、その姿勢は現代のターミナルケアに通ずる部分も多い。以下、自分の印象に残ったこと、気づき。
・最期に自分を支えるのは、やはり精神だ。先立たれた大切な人に会える、だとか苦しんでいることを理解してあげることが一番いい。
・延命処置の是非。尊厳死はどうなのか?天寿を全うしているなら、尊厳死でもいいのか?
・ACPは、死に直面したときに初めてスタートする。在宅医の先生の訪問診療について行った時の経験を思い出した。
・安楽死は可哀想だから死なせてあげるという家族のエゴが入っている。尊厳死はその人が死に方を選べる。しかし自殺はダメ。天寿を全うしてないから。
・痛みも生きている証だという考え方。
・結局考え方は人それぞれだから、万人に使える万能のターミナルケアなどない。
・「痛み」ってなんなんだ?心の痛み、神経が痛み刺激を受信している。痛みは薬剤以外でも和らげることができる。誰か共感してくれる人や元気になりたいモチベーションがあれば、痛みとも上手に付き合えるのではないか。
・宗教は意外と大切かも。
・臨死体験をした人は皆、暖かい光に包まれて、自分の身体を俯瞰してみることができたらしい。かつて愛した故人に会えた人もいたのだとか。死後の世界はあるのだと信じても良いかもしれない。禅宗的には、解脱にあたるようだ。
・生活と人生は違う。生活:他者に残すかたみ、人生:自分の素顔。老年において本当の顔をまじまじとみる時がきたのだ。
・天国と地獄。悪いことをしたら、全員地獄に行くのか?死ぬ間際に心から悪いことをしたと思えば神は天国に連れて行くのか?一方殺された人々は、あの人々をお許しくださいと言えるのか?自分の身に降りかかった理不尽を恨みはしないのか?
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キリスト教徒として、日本人として、作家として、とりとめなく死について語っている。漠然とした恐れが遠のく安らぎと慰め、そして慈愛に満ちた内容だと感じた。
自身の大病の経験から終末期医療と向き合い、心あたたかな医療を願う活動をしていたことを初めて知った。先立たれた苦しみを和らげ、死を恐れる人間の心を落ち着かせる、優しい語りかけだった。
『沈黙』や『深い河』など、なぜあのような小説が生まれたのか、その背景にあるものが分かったような気がする。
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あとがきで、「キリスト教とは関係のない形で死についてを語ろうとしました」と書いてあるが、キリスト教とめちゃめちゃ関係ある思考回路で書いてるなという印象
以下読書メモ
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・「遠藤君、君はまだ若いからそんなこと考えたことないだろうけど、若い時は若さで生きて行ける、壮年まではまだ社会が大事にしてくれる、老年になって不要になった時、どう美しく生きるかということを今から考えておかなきゃいかんよ」by東大仏文学者渡辺一夫
・私は、生活必ずしも人生ではない、と考えています。生活は私の考えでは自分の心の奥底にあるもの、自分の人生の核になっているものを無視、軽視していなければなかなか成立しないものです。生活は道徳、世間体、外づらを大事にしないと運びませんし、自分の心の奥底にかくしているものを露骨に見せるわけにはいきません。世間を乱さぬため、他人に悪口を言われぬためには、我々は心のなかに抑えこんでおかねばならぬものがたくさんあります。そういう形で成立しているのが生活です。
・苦しく、醜い物でも大事に守り続けよ、というのがキリスト教の言う「愛」の一つの考えだと私は思っている。
・人生は苦しいし、醜い。苦しいから捨てる、醜いから捨てる、というのならイエスだって十字架で何もあんなに苦しまなくてもよかったじゃないか。キリストの人生だって決して楽しいものじゃなかった。それを途中で放棄しなかった。最後まで十字架を背負って苦しんだ。我々も最後までイエスのように苦しんでも人生を捨てない、というのがカトリックが自殺を認めない根拠なのです。
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遠藤周作(1923~96年)氏は、慶大文学部卒の小説家、随筆家。12歳のときにカトリックの洗礼を受け、キリスト教を主題に多数の作品を執筆するほか、「狐狸庵」の名で軽妙なエッセイを残した。『白い人』で芥川賞(1955年)受賞。文化勲章受章。文化功労者。
本書は語り下ろしで、1987年に出版、1996年に文庫化された。
私はこれまで、E・キューブラー・ロス『死ぬ瞬間』(本書の中でも何度も引用されている)、岸本英夫『死を見つめる心』、山折哲雄『わたしが死について語るなら』、鎌田東二『日本人は死んだらどこへ行くのか』、竹倉史人『輪廻転生』、佐伯啓思『死と生』、荒俣宏(監修)『知識人99人の死に方』、岸本葉子『生と死をめぐる断想』など、「死(と生)」を様々な角度から扱った本を読んできたが、キリスト教徒の作家による本書には次のような特色があると言えるだろうか。
一つは、正宗白鳥、椎名麟三、小林秀雄、幸田露伴、国木田独歩、倉田百三ほか、多くの文壇の先輩たちの、死への向かい方や死に様(と、著者がそれをどう考えるか)が語られている点、もう一つは、キリスト教的な死生観をベースにしつつ、そこに留まらず、仏教などにも敷衍した内容となっている点(著者は、「死」をテーマとする本書の企画を出版社から持ち掛けられたときに、「キリスト教談義」になることを怖れて躊躇した、と語っているが)である。
読了して色々な示唆が得られたが、特に印象に残った点を挙げると以下である。
「うまく年をとって従容として死んで行っても、じたばたして死んで行ってもいいと今の私は思うんです。理性ではみにくい死にざまはしまいとして、それを実行しようとしても、意識下では人間はやはり死にたくないからです。神はそんな我々の心の底をみんなご存知のはずです。だから神の眼からみると同じなんです。じたばたして死ぬことを肯定してくれるものが宗教にはあると思うからです。」
「隠居という言葉が死語になりつつあって、定年とか、第二の人生とかいわれていますが、それは退却を転進といったのと似ているように思います。昔は隠居するということは次の世界を信じ、そこに向かう旅支度だったのです。隠居生活は今までの生活重点主義を捨てて人生を直視することだったのです。生活に心を集中していると、本当の人生がボヤけてしまいます。隠居することによって、人生を考える。人生を考える上で最も大事なのは死の問題ですから、死を考えるということになるのですが、生活の中にまぎれているのは、死を考えることを避けているように思えるのです。昔の人は四季の営みもきちっと守って、人生の折り目節目もちゃんと受けとめ、処理していたのではないでしょうか。死に対しても、ちゃんとした姿勢でそれを迎える習慣があったのではないでしょうか。」
まさに、著者と共に「死について考える」ことができる一冊と思う。
(2021年7月了)
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「死について考える」なんていうタイトルなので、死ぬことを哲学するような内容の本かと思うけれど、
それよりは少し肩の力の抜けた、老年を迎えた作者が死や歳を取ることについて思うことを書いたエッセイである。
カトリック信者の著者による本なのでところどころキリスト教について触れているところがあり、そうは言えども日本人でもあるわけなので、西洋と日本の死生観の違い、その辺を本人の中でどう折り合いをつけているのかなどが面白い。
どちらかと言えばキリスト教から見た死と、日本人にとっての死との共通点を見出そうとしている感じである。ただ、カトリックと日本古来の信仰とは比較的近く、仏教(主に禅)はやや離れていると言っているように感じた。
30年以上前の本だけれど、言っていることはほぼ現代にも当てはまる(「老害」という言葉が既に出ている!)。(信仰上の立ち位置等も含め)じゃあ自分はどう考えるか?を意識してこそ意味のある本。
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「死」というテーマについての短いエッセイがたくさん。「死」は誰も知らない経験。希に臨死体験者はいるが。でもすべての人に平等に訪れるもの。それについて話されることというのは、人間性というか人生観が滲み出てくる感じがする。そう、なんというか、じわじわと伝わってくる。「ああ、そうなんですね」ではない。じわじわとしたのが自分の中のなにかに触れて、ああ、こういうことかという言葉以上の受け取りが出てくるような気がする。
”じたばたして死ぬことを肯定してくれるものが宗教にはあると思うからです。”
たしかにそうなのかもしれない。死ぬことを考えないでもない。でも本当にその可能性があるときとないときでは向き合い方が絶対違うと思う。今は、「じたばたしない」と思っている自分がいる。どこかにいるじゃなくて、わりと大きな顔をして自分の中に座っている。
遠藤氏の書かれるなかで、自分があまり得意ではない「倶会一処」に似たことが、病により死を待つしかない人の慰めになると書いてあるところがあった。先に亡くなった祖父母、父母にあえるというようなことが。遠藤氏の文章から思ったのは、それは家族がいて、それにすべて安心して頼り切っていた幸せな時を思い出すことなのかなと思った。実際には会うという歓びよりも、その人と過ごしたときを今自分の体感として思い出して、なにかに身をゆだねるということなのかなと今までとは違ったことを思った。そうやって、死を迎える瞬間を乗り越えるのかと。
じわじわ感じること。彼の文章には苦しみには必ず孤独があるということが通底している。これは本当にそうだ。仏教もキリスト教も関係ないのだろう。人間の苦しみはそこにある。どんなに近くにいても、わからない。
宗教観。遠藤氏は、山に例えてどの道を通るかわからないが、宗教の行き着くところは同じかもしれないとおっしゃっていたが、ここは自分は違うような気がした。だってそれも誰も確かめようがないじゃないか。どこまでも自分が納得出来ないとだめな自分を再確認した。
とても親近感が湧くというか、近くでお話をしてもらっているような本。宗教に関係なく、一度手に取って読んでみるといいと思う。自分が避けて考えていることをまっすぐに書かれるともう聞くしかないから。
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氏は、60歳を過ぎて死について考えないのは、怠慢か、鈍感な人であって、決して褒めるべきことではありませんよ、と話したといいます。
昔であれば、60歳なんて、バタバタと死んでいく人がいたものです。
死を身近なものとして捉えるにあたり、本書はまさに適切な一冊と言えるでしょう。