投稿元:
レビューを見る
数学者の人生って、本当におもしろいなーって思う。
そんな、伝記集みたいな本。
みんな、永遠の真理を追いかけているからなのか、
猛烈にロマンチックだったりするんだよね。
この筆者・藤原さんの本は、どれもみな読みやすく、
数学に親近感を持てるようになる文なので、好き。
投稿元:
レビューを見る
(2005.07.21読了)(1998.11.06購入)
著者の藤原正彦さんは、父が作家の新田次郎(「武田信玄」「八甲田山死の彷徨」)、母は、随筆家の藤原てい(「流れる星は生きている」「旅路」)である。新田次郎は、妻の書いた「流れる星は生きている」がベストセラーになったのを見て、対抗意識を燃やし、おれだって本は書けるといって、作家になったといわれる。それまでは、気象庁に勤めていた。両親が二人とも物書きだったけど作家にはならず、数学者になったけど、物を書く才能は受け継いだようで、「若き数学者のアメリカ」で日本エッセイストクラブ賞を受賞して以来、随筆を何冊か出版してきた。数学者の伝記は、この本が始めてである。
取り上げられている数学者は、アイザック・ニュートン(1642-1727)、ウィリアム・ハミルトン(1805-1865)、シュリニヴァーサ・ラマヌジャン(1887-1920)の3人。万有引力の発見で知られるニュートン以外は、なじみのない名前です。中学、高校までで教えている数学は、18世紀ぐらいまでのものなので、当然ということになります。
この本のエッセンスは、「世にも美しい数学入門」でも取り上げられていますので、文系の方は、「世にも美しい数学入門」を読んでもっと詳しく知りたいと思ったら、この本か、「天才の栄光と挫折」(新潮選書)を読むのがいいと思います。この本には、数式は一切でてきません。
●ニュートン
・ニュートンは、「一流数学者として売り出し中のライプニッツが自分の微積分に似たものを研究中と知った時、二度にわたって自らの定理を手紙に書いて送った。それらはライプニッツにわからぬよう暗号で書かれていたのである。先取権確定のため暗号を用いるのは、ガリレイがライバルのケプラーに対してやったし、ホイヘンスが土星の環を発見した時もしたことで、特異とはいえないが、いかにニュートンがそれにこだわっていたかを示している。発見しても公表しない。公表しないのに先取権にこだわる。先取権にこだわるのに名前は出したがらない。」
・1686年「自然哲学の数学的原理」(通称プリンキピア)は完成し、王立協会に提出された。原稿を見た、ハレー彗星の発見者ハレーは、気難しいニュートンをなだめすかし、面倒な校正の一切を引き受け、刊行費用まで受け持って、翌年刊行された。
自然科学の歴史において、「プリンキピア」の出現ほど重大な事件は他にない。アリストテレス、プトレマイオス、コペルニクス、ガリレイ、ケプラー、デカルトと、人類の築き上げてきた力学、物理学、天文学が一変したからである。
・「イギリスの道は、高速道を除きほとんどが曲がりくねっている。ビートルズも「ロング・アンド・ワインディング・ロード」と歌にしたくらいである。個人の自由を尊重しすぎたせいか、ユーモアのつもりか、あるいはやはり不便に耐える自虐趣味のためかもしれない。」(車社会以前に作られた道路は、日本でも結構曲がりくねっている。僕の田舎でも最近作られた道以外は、曲がりくねっている。個人の自由尊重とはなんら関係ない。)
●ハミルトン
・アイルランド人を揶揄するイギリス人のジョーク
「イギリス人は善良である。犯罪が起きたら犯人は、アイルランド人か外国人かである」
「��イルランド人が駅へ行った。アイルランド人『往復切符をください』、駅員『どこまでですか』、アイルランド人『もちろんここまでです』」
・ハミルトン
1805年、ダブリン生まれ。父は、法律事務所を営んでいた。3歳の時、牧師をしている叔父に預けられた。5歳までに、英語、ラテン語、ギリシア語、ヘブライ語を習得。10歳までにイタリア語、フランス語、ドイツ語、アラビア語、サンスクリット語、ペルシア語が加わる。10歳でユークリッドの『原論』を読み、12歳でニュートンの『プリンキピア』を読み天文学に魅せられる。
1843年10月16日、ハミルトンは、四元数の概念に想到する。これはa×bとb×aが異なる、という点で革命的な代数系であった。四元数の基本式は、i²=j²=k²=ijk=-1というものです。マクスウェルは、四元数を電磁場理論に応用して見せた。ギブスは、ベクトル解析を編み出し、後に、物理学の各分野で使われるようになった。
・ハミルトンの恋
ハミルトンの恋物語も述べられていますが、これは、直接本をお読みください。
●ラマヌジャン
・ラマヌジャン
1887年、南インド生まれ。父親は、織物屋の店員だった。家は貧しかったが、正統派バラモンに属していたから、バラモンとしての教育がなされた。
母親は、ラマヌジャンに菜食主義を叩き込んだ。肉だけでなく、魚も卵も口にしない、と言うもっとも厳格な菜食主義であった。
10歳の時、家に下宿していた二人の大学生に、数学を少し教わったらしい。あっという間に理解した上、大学の図書館から三角法や微積分の本を借りてこさせ、これらもすぐにマスターした。12歳の時にはその大学生に教えるほどだった。十五歳の時に出会った、カーの『純粋数学要覧』が人生を変えた。この書物は、ケンブリッジ大学卒業試験受験生のための手引書である。大学初年級までに習う6千余りの公式や定理が、ほとんど証明なしに並べられている。ラマヌジャンはこれに没頭し、パズルを解くように、雑多な定理を次々に自力で証明した。方法論が何も示されていないため、彼は独自の方法を編み出して行った。そしてその過程で、関連する新しい定理を続々と発見して行ったのである。自ら挑戦することで、才能への点火がなされたのである。
16歳の時、高校時代の目覚しい成績により奨学金つきでクンバコナム州立大学に入学するが、数学以外への関心を失った彼は、片端から落第点を取る。まもなく奨学金は止められ、一年で退学する。その後も数学の研究は続け、ノートをつけていた。
21歳の時、母親の探してくれた9歳の娘と結婚する。と入っても12歳までの3年間は実家に戻っていた。
23歳の頃、パトロンが見つかった。「ベルヌイ数の諸性質」と題する処女論文が、インド数学会誌に掲載された。1912年、港湾局の経理部員として採用された。主任のナラヤナ・イーヤーは、大学で数学講師をした経験があったので、話し相手になってあげられた。
ラマヌジャンは、事務の仕事はせず、数学の研究を続けた。局長のスプリング卿と主任のイーヤーは見て見ぬふりをしてくれた。
スプリング卿は、イーヤーにラマヌジャンの才能を誰かに評価してもらうように頼まれ、マドラス在住の数学専攻のイギリス人を介して、本国の数学者に連絡をとってもらった。
手紙をもらったうちの一人が、運命の人、ハーディだった。もらった手紙には見たことのない公式が百以上も羅列してある。中にはよく知られているのも混じっているので、全くのでたらめではなさそうだった。同僚の、リトルウッドと検討してみて、このインド人は、天才と判断した。
ハーディは、「あなたの仕事の価値を正しく判断するには、証明を見なければいけない。少しでもよいから証明を、一刻も早く送ってください。」と返事した。
受け取ったラマヌジャンは、「繰り返し要求される証明について、怪訝な気持ちを隠せなかった。証明とは何か、それがなぜ必要なのかさえ、よく理解していなかった。深い洞察力に支えられた成立理由があり、幾つかの数値を実際に入れても成立しているなら、それでよいと思っていた。」彼の勉強した数学書は、厳密性を備えたものではなかったので、ある程度無理のないことである。
ハーディは、ラマヌジャンをイギリスに招こうと努力したが、インドからの返事は、本人に渡英の意志なし、ということだった。ヒンドゥー教徒にとって、外国に渡る事は身を穢すことである。カーストの掟を破る事は、カースト追放を意味する。追放されると、当時にあっては、友人や親戚を失うばかりか、妻子を失うことがあった。
渡英に反対する母親に夢でお告げがあり、息子の渡英を邪魔してはならぬといわれ、渡英が実現する。
1914年、船でイギリスに向かう。ケンブリッジについたラマヌジャンは、毎日ハーディの研究室を訪れた。靴は持っていた滅多に履かず、サンダルで通った。靴が牛皮でできているのに耐えられなかったのである。
ラマヌジャンは毎朝半ダースほどの新定理を持って現れた。藤原さんに言わせると、優秀な数学者でも、1年間に証明するほどのものを、一晩でやってしまっているということだ。
持ってきたものに、厳密な証明を与え、論文形式に完成させるのが、ハーディの役割だった。
ラマヌジャンは、宗教上の戒律により、肉料理は食べられないので、自分で調理して食べるしかなかったし、研究に没頭するたちなので、渡英3年で体を壊し、1919年帰国し、1920年32歳で世を去る。膨大なノートが残され、今も研究がつづけられている。
●文庫版
「心は孤独な数学者」藤原正彦著、新潮文庫、2000年12月
著者 藤原 正彦
1943年 旧満州新京生まれ
東京大学理学部数学科卒業
数学者 数論専攻
お茶の水女子大学理学部教授
「若き数学者のアメリカ」で日本エッセイストクラブ賞受賞
●藤原 正彦の本(既読)
「若き数学者のアメリカ」新潮社、1977.11.20
「数学者の言葉では」新潮社、1981.05.20
「父の旅 私の旅」新潮社、1987.07.05
「遥かなるケンブリッジ」新潮社、1991.10.15
「父の威厳」講談社、1994.06.27
「天才の栄光と挫折」NHK人間講座、2001.08.01
「世にも美しい数学入門」小川洋子共著、ちくまプリマー新書、2005.04.10
(「BOOK」データベースより)amazon
17世紀に万有引力の法則を発見したニュートン。19世紀に四元数を発見したハミルトン。20世紀初頭に膨大な謎の公式を残し、32歳で亡くなったラマヌジャン。天才数学者として名を馳せた偉大な三人は、背負いきれない辛い出来事に直面し���その運命に翻弄される数奇な人生を送った。彼らの悩みとはいったい何だったのか。時代や家庭環境は、彼らの業績や人生にどんな影を投げかけたのか。それぞれの母国、イギリス、アイルランド、インドを旅し、彼らの生涯に思いを馳せる長篇エッセイ。
投稿元:
レビューを見る
とりあげられているのは、ニュートン、ハミルトン、ラヌマジャンだが。
インドの奇才ラヌマジャンが好き。
ハミルトンって、誰?
投稿元:
レビューを見る
藤原正彦が、ニュートン、ハミルトン、ラマヌジャンという3人の天才数学者を取り上げ、その故郷などをおとずれ、数学者の目から見た人物像を描く。
投稿元:
レビューを見る
数学者の伝記。
そこそこおもしろかったが、もっと個人の奥深くに迫るものを読みたい。
気になった数学者のもっと詳しい伝記を読んでみようと思う。
あくまで、個人的主観だが、この’筆者の本を読んでいると、少し感傷的な部分、もしくは、日本のことになると感情的になるように思う。
もうちょっと冷徹な筆致で描いてほしい気もする。
文筆家という専門家ではないけれど。
投稿元:
レビューを見る
重力を発見したニュートン、ハミルトン関数のハミルトン、インドの数学者ラマヌジャンという3人の数学者の足跡をたどり、彼らの生家や育った場所、研究した大学などへ実際に足を運び、そこで聞いたこと、思ったことを書いた本。
半分以上が、インドのラマヌジャンのことだったが、すごい数学者がいたんだということを知ることができた。
試験のためでなく、芸術としての数学を学んでみたくなった。
投稿元:
レビューを見る
ニュートン、ハミルトン、ラマヌジャンの伝記と著者自身がゆかりの地を巡る旅行記。業績や出来事にのみ焦点を当てるだけではなくその環境の風土、時代性も含め内容に広がりを持っていた点が面白かった。
投稿元:
レビューを見る
ニュートン,ハミルトン,ラマヌジャンという三人の数学者を訪ねる紀行エッセイ.ハミルトンとラマヌジャンの部分を再読.
軽い筆致だけど,歴史背景や社会背景などもよく調べて書いてある.この三人がどんな「人間」だったか知らない人にはよい本.
投稿元:
レビューを見る
時折突如訪れる、筆者自身の旅行記の駄作、乱文のせいで、本作のリズムを壊していることをしっかりと恥じるべきで、てめぇのカースト制度に対する主張云々を読者が期待して、本を手に取ってはいないことを自覚するべきである。文化人を気取るなと言いたい。衒学的というか、知識をひけらかすというか、ユーモアがないというか、コミュニケーション力がないというか、そもそも人間性を疑うというか、全部ひっくるめて凄絶にダサいのである。読んで、フラストレーションが溜まった稀有な作品である。あなたは数学者であるのだから、数学を汲々と励むべきである。これを見たら、非常に腹を立てられると思うが、ようするに、その才能を無駄にするのは勿体無いと僕は思うのだ。それぐらい中身は素晴らしかった。点数はその一点に捧げる。
投稿元:
レビューを見る
映画『奇蹟がくれた数式』の復習にと思って読んだ。映画では、いまひとつ描き切れてない部分があったのではなかろうかと思ってのこと。
それはインド側の宗教観やカーストの部分かと思ったけど、けっこうイギリス側の舞台裏が本書でよく分かった。
映画では母親の息子への強い思いはよく描かれていたが、”溺愛”というほどの描写ではなかった点と、母親がそうとう信心深かったことは本書を読んでよく理解できた。そして一人息子としてかなり甘やかされて育ったということも。ラマヌジャンは”チーナスワミ(小さな御主人様)”呼ばれていたそうで、両親の可愛がりぶりが分かる。
後半の紀行文が多くなる箇所で、ラマヌジャン高等数学研究所を訪ね現地の教授との対話で、ラマヌジャンの独創の源泉は「チャンティング(詠唱)が独創の一因」というのを導き出すクダリも面白い。
そんなインド側の分析も時代、宗教観や家庭、人間関係と多岐にわたり興味深いが、それよりもイギリス側の事情のほうが本書を読んでよく分かったかもしれない。「イギリスは経験論の国」らしい。つまり現実的なのだそうだ。ドイツ人は柔軟性に欠け、厳密性や論理性を重んじる。フランス人はつまらぬ理屈を並べ口先だけ(笑)。当時のみならず「現在でもイギリス人の間にも根強い」と著者は記す。
その性向がイギリス外交の現実主義にも現れており、故に、宗主国、植民地という枠組みはあっても、ひとたび天才の存在を認めれば、これをいかに遇して世に知らしめかに腐心する。また英国人のフェアー精神も奏功し、植民地インドであろうと、経済困窮にあろうとも、その才能を埋没させまいと懸命に救いの手を差し伸べる。故に、ラマヌジャンは見出されて歴史に名を残せたと言うのは面白い。
「大陸諸国からは、不実のアルビオン(イギリスの古名)」と呼ばれた臨機応変な現実主義は、「一日に何度も晴れたり降ったりする、気まぐれな天候の国では、一貫した筋を通すなどという思想はなじまない」という著者の分析だ。
また映画ではジェレミー・アイアンズがハーディ教授を演じたが、ジェレミーの役者としての個性から、あまりラマヌジャンの私生活や病んだ時の精神的な支えにはならないような演技(接し方がどこか冷たい感じ)なのかと思ったが、本書の記述では、こうある。
「この精神的不調に、イギリスにおける最も近いハーディが、まったく気づいていなかった。他人のプライバシーに触れようとしない、イギリス紳士の習性が、裏目に出ていた。毎日会っているのにハーディは、プライバシーどころか、信じられぬことに、数学以外のことをラマヌジャンとほとんど何も語っていないのである。」
なるほど、そんなハーディ教授だったが故のジェレミー・アイアンズの起用かと納得した。でも、実際のラマヌジャンとハーディは十ほどの年の差で、映画のジェレミーとデヴ・パテル(ラマヌジャン役)の親子以上の差(42歳差)はなかったようだ。なのに、接し方が仕事の上だけだったとなると、年代も近いにも関わらず、その冷淡ぶりは(ハーディにはそのつもりがなかったにせよ)、ラマヌジャンにとってもキツかったのではなかろ��か。
そんな映画との違いはさておき、なにより数学者が記す偉人伝記なだけに、数学に関する記述には重み、信ぴょう性がある。
映画の中では自分の公式の証明をなかなか示したがらないラマヌジャンにハーディ教授が詰め寄るシーンが再三描かれる。証明にどれほどの価値があるのか自分は正直ピンとはこない。その公式が世の役に立つ、なにかしらの計算や演算を正確にスピーディにしてくれるならそれで願ったりかなったりじゃないかとさえ思う。 例えば、目の前に初めて電話機なるものを置かれて、これで遠くの人と話しができるからと言われて「なぜ話ができるのか?」という理屈や解説を求めやしない感じ(スマン、文化系はこんな卑近な例を出すので精一杯だ)。証明なんてそんなもんだと思ってしまうが、数学者である本書の著者も「厳密な証明こそは数学の生命である。」という。
「これ(証明)があるからこそ、一度打ち立てられた定理は、永遠に正しいのである。他の諸科学において、いったん正しいとされた理論が、後になって否定されたり修正されたりするのに、数学史上にそんな事例がないのは、まさに厳格な証明のおかげなのである。」
なるほどお、そんなものかあ。”他の諸科学”ってところで、昨今のSTAP細胞騒動なんかも想いだされる。数学史上にはあの手の論争はないとうことなのかな。なんとなく数式、定理の神聖性が高まる気分。
数学的見地からの解説、イギリス人の国民性の分析、そしてインドでの宗教観。多岐にわたる著者の逍遥から(実際にラマヌジャンの故郷にも足を運び、その足跡を訪ね歩く旅のエッセイの様相も呈している)、ラマヌジャンの実像がより多面的に、質感を伴って浮かび上がってくる。母子関係や、嫁姑の確執ももっと壮絶で、イギリスからの凱旋帰国後わずか1年での他界は、そんな家庭内のゴタゴタも影を落としたと本書は分析している。
ともかく、様々な偶然によってラマヌジャンは見出された。神の采配、ラマヌジャンの場合はきっと守護神ナーマギリ女神によるものだろう、による幸運が重なった結果だ。恐らく過去にも今の世の中にも、もっと多くの隠れた、埋もれた才能はあったのだろうなと思われる。著者も当然、そこに思い至っており、
「当時の硬直した学校組織において、ラマヌジャンの救われる道はなかった。今のインドでも、日本においてさえも、救われるか疑問である。」
と記す。
「無限大の能力者は無限小の確率でしか現れない。このような人間の出現を想定して規則は作られていない。すなわち規則破りの特例で対応するしかない。人間を扱う教育現場では、公平の原則からいったん離れ、時には特例を認める度量が必要なのだろう。」
この度量を示した当時のケンブリッジ大学の英断を「高卒のインドの事務員に過ぎぬラマヌジャンを招聘したばかりかフェローにまでしたのだから」と最大級に称えている。
※一章、二章のニュートン、ハミルトンは斜め読み~。