投稿元:
レビューを見る
304号室に住む男は、女と情交を重ね、部屋中にタイルを貼っていく。男と女の生と性を大胆に描いて、人間の深淵に迫る野心作!純文学なのにホラー。狂気、殺意、ストーカー、監禁…現代日本の日常にひそむ恐怖を描いた茶川賞受賞第一作。
投稿元:
レビューを見る
恐くて暗くてグロくてそしてすごい痛い。でもそれらを感じることは生きていることに繋がるのだから、助けてくれているのかもしれない本。
投稿元:
レビューを見る
なんというか。怖いといえば、怖い話でした。
ただ酷い虚無感というか、喪失感というか…とっても陰気な気持ちになりました。途中で投げ出そうかと思いましたが、まさかああいう展開で持っていくとは思わず、結局読みきってしまいました。
まさか彼女を殺すとは…。
読む人を選ぶ本です。
投稿元:
レビューを見る
とても面白かったです。
ミステリー、なんでしょうか。どちらかと言えばグロテスクな方に入るのかな。
少し読む人を選ぶ本かもしれません。
しかしラストの展開には舌を巻くものがありました。伏線の回収が見事としか言いようが無い。
また描写も一級品で、物理的な描写も、精神面での描写も人間の本質的な物が見え隠れするような。そんな生々しさを感じました。
…余りにも生々しく、途中で読むのを中断してしまいそうになる程でした。
投稿元:
レビューを見る
この人にはどことなく狂気の薫りがするのではないかと疑っていたのだが、想像通りの狂気に満ちた本だった。柳美里の作品を読むのは初めてである。彼女が未婚の母になってから出版した作品を一度読んでみたいと思ったことがあったのだが、母となる前の彼女に感じた、その狂気を確かめておきたいとも思っていたのだった。
自分にとっての端正な顔だちの女流作家というのが居て、やはり惹かれるものがある。それは黒の似合う体温の低そうな女性であることが多く、著者近影など眺めているうちに間違いなく魅入られたようになってしまう。うかつに手を出すと、ぴしりと手の甲を叩かれそうな女性に弱いのである。もちろん、それは比喩で言っているのだが、こちらが何か言うと、それはどういう意味なのか、と追求されそうな雰囲気がする女性には、知らない内に好感を覚えているのだ。
ところで、人の声というのは、顔や体つきなどから何となく想像できることが多いが、それでもなかなか想像していた声と、ぴったり、という人はいない。しかし中には、声質だけではなく、その息の継ぎ方、子音を発音する唇や舌の力の入り具合など、想像通りである人も希にいる。そんな数少ない、ぴったり、の例の内に、柳美里は数えられる。抑揚も区切りもなく並べられる言葉、柳美里の顔だちから想像していたイメージ通り彼女は話した。そして柳美里の話し方は、彼女の書く文章というものを十分に想像させるものだった。
川上弘美も容姿、声、文章のイメージが想像と一致した希有な例の一人であるが、彼女の場合確認の順番が逆で、最初に読んだ本から想像していた容姿と著者の姿が、まずきれいに重なって、さらに、写真から想像していた声や話し方が恐いくらい実像とぴったりだった、という順番である。作家自らの存在が醸し出す雰囲気と、その作品の持つイメージが一致するのは、あるいは、当たり前過ぎるくらい当たり前のことかもしれないが、虚構を描いていても、人となり、というようなものはどこか隠し切れないもの、ということなのだろうか。無意識の内に歌に人間性が出てしまう、ということに通じるものかも知れない。
そういう訳で、柳美里についてはそもそも作品を読んだことはなかったのだがある程度のイメージは既に出来上がっていた。そのイメージ通りの文章がこの本にはある。その容姿から立ちのぼる雰囲気が、作品の色と、とても強い相関があることを認識することができる。少なくとも、この本を読んでも柳美里に対して抱いていた印象は驚くほど変わらなかった。文章も想像通り句読点の少ない抑揚の極端に抑えられたものだった。
この本には、男二人女二人の主たる登場人物がいる。性別、年齢などが、きれいに振り分けられていて、そんなところに柳美里のこだわりの一端をみてしまう。それは、差別、ということをたちまち連想させるものだ。主人公が出入りをするマンションには、さり気なく在日韓国人も忍び込ませてある。そんな柳美里のこだわっているもの、それは、他人からの視線のねばついた感触と、それを狂気という仮面で振り切る人格。それが、主に中年の男性のアングルと、時々割り込むその他の主人公たちのアングルで描かれていく。狂気を���って狂気を描く、という紋切り型の言葉が、つい心に浮かぶ。
本の帯には「純文学なのにホラー」という宣伝文句が書き込まれている。違う。決してホラーではない。もちろん、ある意味でこの本は恐い。心理的に逃げ場を失っていく感じが読んでいる内にふつふつと沸いてくる。しかし、ホラーではない。恐怖ではなく、狂気、「サイコ」なのだ。そしてその狂気というものが、小さな波としてなら誰でも持っている狂気であり、その狂気を目にした人たちの対応が、また余りにも日常的に自分たちの取り得る対応であることから、何か後ろ指をさされたように落ち着きを失ってしまうのだ。
狂気は、初め小さな怒りから発生する。しかし、その怒りは理性や環境などによって無理やり抑えこまれるものだ。内圧が理性によって抑えきれなくなるほど高くなるまでは。そして、怒りが発端であればこそ、理性的にその狂気を言い包めることができないのを本能的に感じ取っているので、通常、狂気に対する態度というのは無関心であるしかない。つまり、無関心による防御であり、そういう態度を取ることによって台風が過ぎるのを待つように対処することが、自らに狂気が及ぶのを防ぐ手だてなのだ。しかし、この本に登場する人々は、その狂気に自らの狂気を持って対応するのである。自らの狂気は相手に突き刺さり、その瞬間だけ受け取る狂気は鈍くなるが、矛を収める間もなく更に大きな狂気が突き返される。当然、行き着く先は「死」である。自らが、過ぎ去ることによってしか、この狂気は無くならないのだから。
狂気を葬り去るための「死」は、現実の死である必要なない。死は象徴的なものでありさえすればよいのだと思う。例えば、大切にしていたものの喪失。継続していたものの終結。その象徴的な出来事によって、吹っ切れたように狂気は消滅されるべきものだ。そのようなものに、自らの狂気を押し込めて埋葬してしまうことが、まっとうな精神の正常な活動である筈だ。この本の中にもそのような象徴的な死は多数登場する。しかし、主人公たちの狂気はその死によってますます加速されてしまうのだ。自らの狂気に恐怖するところまで。
本の終盤、主人公の一人が恐怖を克服してしまうところが描かれるが、狂気の加速という意味で、このシーンがこの本のクライマックスであるとも言える。その後、急に減速し始める狂気を描くシーンは余りにも理性が勝っていて、ある意味で陳腐ですらある。しかし、柳美里の恐いところは、実は狂気が失われていないことを改めて描き直してみせるところだ。つまり、そのクライマックスで一人の主人公の狂気は葬り去られるのだが、他の主人公の狂気までは連れ去らないのだ。もちろん、連れ去られない方が、この本の狂気の描き方からすると、しっくり、はする。することはするのだが、その柳美里の容赦の無さに、思わず身震いがすることも、また、事実なのである。
投稿元:
レビューを見る
ん~相性が悪い。
文章が好きになれない。
狂気、不気味さは伝わるけど、文章がすんなり
入ってこないから読み終わっても「だから何?」と
しらけてしまった。
投稿元:
レビューを見る
この人の作品、精神的に痛いっていう印象なんだけど、これは肉体的にも。タイルっていう小道具が、次第に怖くなっていく。浮いた感じというか、実態の薄さも、不気味さをさらに強めている。
投稿元:
レビューを見る
一貫して狂っていた。
私には共感しきれなかった。
どの人たちも、いまいちリアリティを感じられず、気持ち悪さだけが残った。