紙の本
俺の阿呆
2022/03/26 10:29
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ペンギン - この投稿者のレビュー一覧を見る
今まで読んだシェイクスピア作品の中で一番好きだ。特に、リアの最後のセリフ「俺の阿呆が絞め殺された」はぜひとも心に留めておきたい言葉の一つになった。訳者の解釈とは違うのだが、私は文字通りリアの中の阿呆が死んで、正気になったという意味だと思う。狂気に逃避できなくなったとも言えるかもしれない。そう解釈した方が、リアが真っ当な人間になるために、彼女は死ななければならなかった、という感じが強調されるじゃない?リアは実際、玉座にいるころから、阿呆だったし、嵐の荒野に放り出されても、阿呆は治らなかった。人の阿呆を治すには、命を懸けなければならないんだね。
投稿元:
レビューを見る
権力を行使してきた者が、権力を行使される側に回った時の悲劇。物を与えられなくなった権力者は、その時になって初めて心から仕えるということを知る。現代においても学ぶところが多い作品。
投稿元:
レビューを見る
全てを失い
雷鳴の中に放り出され
丸裸になった二本足の動物が
絶命の間際に得たものは、
束の間の「喜び」だった。
仕合わせ者。
生まれたばかりの赤ん坊が
どうして泣くのか
アナタは知っていますか?
投稿元:
レビューを見る
私が初めて読んだシェークスピア。悲劇とはこういうものかと衝撃を受けた(ちょっと大げさだが)いい人もみんな死んでしまう救われなさが古いのに私には新しい経験だった。中に登場する道化のユーモアもすごく気の効いたセリフで面白い。
投稿元:
レビューを見る
福田恒存訳で読んだが、松岡訳で再読した。20世紀になってシェイクスピア最大の悲劇と評価されてきた「リア王」はクォート版・フォリオ版など版本の異同がはげしい。ゴネリルとリーガンの娘も悪人だが、リアも頑固爺で、娘としてやっていられない面もあったのかもしれない。韓非ではないが、王という虎も、賞罰の権を失えば、猫となる。娘たちの愛情を計量するということで、悲劇がはじまり、二人の娘に閉め出され、嵐の夜にリアは発狂する。エドガーとエドマンド、そしてグロスター伯の関係がリア親娘と写し絵の関係にあるのであるが、こうした孝行とか、親子の情とか、ケント伯の忠義とか、案外、東洋的中世的な情感があふれている。忠孝の崩壊という悲劇は悲劇なのだが、悪人達はみなある意味合理的である。コーデリアの愛を再認識するところは倒錯があり、解説にもあるように母性の不在も問題だ。徹底的に救いのない詩的正義の破られた作品であるが、徹底的な悲しみのなかに、愛が垣間見えるところも魅力あふれる作品なのである。
投稿元:
レビューを見る
話は短い、魔女は登場しない。そんなわけで、シェイクスピア悲劇の中ではかなり読みやすい部類に入るかと。エドガーが男前。松岡さんの訳文はなめらかだな、と思いつつ、安西訳も気になる
投稿元:
レビューを見る
遺産分配の際に自分への愛を上手く伝えられないコーデリアを相続から外すリア王。フランス王と共にフランスに旅立つコーデリア。遺産分配後に2人の娘ゴネリス、リーガンに冷たくあしらわれるリア王。グロスター伯爵の元に身を寄せるが・・・。グロスター伯爵の庶子エドマンドの陰謀。陰謀により追放されたエドガー。ゴリネルの扱いに気がふれるリア王。リア王に追放されながらも忠誠を貫くケント伯爵。エドマンドにより追放されるグロスター伯爵。伯爵のために復讐を行うエドガー。上陸したフランス軍を率いるコーデリア。
投稿元:
レビューを見る
四大悲劇だけあり、悲劇的結末で人もたくさん死ぬが、当時は人の命など儚いものだったのだろう。陰謀、親への不義、不貞、裏切りなど時代を越えても通じる要素ばかり。さすが偉大なシェイクスピア!
投稿元:
レビューを見る
リア王のことをみんなが「お爺ちゃん」扱いして無下にする。見ていて心が痛かった。医者としてケントって人が出てくるけど、おれはケントが一番好きだ。コーディリアも好きだけど、彼女の真意を汲み取り、一人の友人としてリアに進言し、それによって追放されようとも、リアへの忠義を尽くす姿勢に、心射たれた。
投稿元:
レビューを見る
福田恆存、小田島雄志の訳では読んでいたが、今回初めて松岡和子訳を読んだ。少し中だるみがあるし、変装すれば親兄弟でも分からなくなるのかといった突っ込みどころも多々あるが、やはりシェイクスピアの最高傑作はこの『リア王』で間違い無いだろう。途中経過がどうであれ、全ての希望が崩壊し、底なしの暗黒が世界を覆い尽くすかのごとき終盤のドラマチックさは、他の作品の比ではない。
あらためて胸を打たれるのは、グロスター伯爵の死がエドガーの口から伝えられるところ。その前にエドガーの作戦でグロスターが生きる意欲をわずかながらに取り戻し、親子が再び手を取り合う兆しを見せていただけに、死の場面すら描かれず、突然二度と会えない人になってしまった不条理さに胸が突き刺される。その不条理は、さらに壮大な形でリアとコーディリアのもとにも訪れる。本作の悲劇性は、登場人物がどん底から這い上がり、自らの過ちを認め、分厚い雲の隙間から光を見いだした瞬間に、その光が容赦なく叩きつぶされる点にある。『ハムレット』にせよ『ロミオとジュリエット』にせよ、ここまで用周到な残酷さは無い。
松岡和子の訳は相変わらずこなれていて実演向きなのだが、他の作品の訳に比べると微妙な体温の低さも感じる。あとがきで『リア王』に流れる女性嫌悪について書いていて、なるほどと納得したのだが、やはり彼女は根本的な部分で『リア王』という作品に共感しきれなかったのではなかろうか。また、この点を踏まえて黒澤明の映画『乱』を思い出すと、オリジナルに存在しない楓の方というキャラクターは、本作に流れる女性嫌悪のモチーフをより分かりやすい形で描いた、非常に優れた脚色だったのかもしれないとも思う。
投稿元:
レビューを見る
どうせなら救いようのない話を、ということで選んだ。
罵倒語のバリエーションがこれでもかと言うほど豊富。
原文の洒落を、翻訳でも試みているのは尊敬に値するのではなかろうか。
投稿元:
レビューを見る
シェイクスピアによる「4大悲劇」に含まれていることは予備智識として知っていたが、じっさいに読んでみるとなるほどたしかにこれは悲劇である。しかも、これ以上ないくらいの。何しろタイトルになっている「リア王」はもちろん、その娘たち3人とも最終的には亡くなってしまう。これではあまりにも救いようがない。せめてコーディリアだけでも生き延びてほしいというのが、多くの読者の願いではないだろうか。しかし、この悲劇は元はといえば、リア王が理不尽にコーディリアを勘当したところから始まる。そう考えると、この悲劇は誰にも止める術がなく、はじめからこのような結末を迎えるしかない運命だったのであろう。「邪知暴虐の王」は、かならず除かれなければならない。だから読んでいて、ゴネリルとリーガンの謀略もそれほど酷いとは思わなかった。断罪されるべき人間が「正しく」断罪される物語である。そのため、作中の人物にとっては間違いなく「悲劇」なのであろうが、今日の感覚でいえば、自己中心的な「悪人」たちがバタバタと倒れてゆくことに対して快哉を叫ぶような、「喜劇」としての側面もあるかもしれない。
投稿元:
レビューを見る
シェイクスピア全集 (5) リア王
(和書)2009年04月10日 18:52
1997 筑摩書房 シェイクスピア, 松岡 和子
リア王は荒野のシーンが好きなのです。黒澤明「乱」の荒野を彷徨うシーンも賛否はあると思うが印象的だと思う。
投稿元:
レビューを見る
父である王に、
自分のことをどれだけ好きか?と問われ
二人の姉は、お砂糖のように好きだと言い
末娘は、お塩のように好きだと答えた。
王様は怒って、末娘を城から追い出した...
うろ覚えだが、子どもの頃読んだ童話。
長いこと、それは何の話だったのかと
疑問に思っていたのだが
リア王だったのだと分かった。
翻訳本はあまり読まないが
松岡和子氏が、
シェイクスピアを全巻翻訳完結された、と聞いて
何か1冊読んでみようと思い、手にしたのがこれ。
投稿元:
レビューを見る
国語の教科書にでもあったのか。なんとなく文章に触れた記憶がある。テレビなどでも取り上げられることは多いから、あらすじはだいたい知っていた。それにしても、ひとりひとりの性格・行動がみな極端すぎる。芝居だからこれくらいの感じで行くのが当然なのだろうか。そして、空間的にも時間的にも距離感がつかめない。何時間あるいは何日もかけて移動するような場合でも、ふと次の場面に現れる。まあ、それも2時間そこそこでおさめる芝居なわけだから仕方ないのか。それにしても、長女と次女の父に対する仕打ち、これまた極端すぎる。それに対して心の強いコーディリア、なぜ最後に死ななければならないのか。いや本当に死んだのか。ジュリエットのように息を吹き返すのではないのか。それとも、単に悲劇にするために死なせたのか。そんな気がする。最も印象深いシーンは、エドガーが息子であることを隠したまま付き添い、目が見えなくなった父が崖から飛び降りようとする場面。「じゃあ、旦那、さようなら。」「ありがとう、達者でな。」舞台で観てみたい。シェイクスピア全集も5冊目になったので、もうだいぶこのテンポには慣れてきたはずだけれど、でもまだなかなかしっくりこない。今回初めてではないか、グロスター家のようなサイドストーリーが出てくるのは。そこは少し新鮮であった。それと、別人のふりをしてずっと一緒に過ごしているケントとエドガー。まあ、お約束として気付かないことにしておくということだろうが、舞台の上ではどんな感じがするのか。さらに、訳者あとがきによると道化とコーディリアが一人二役ではないかという。これまた、不思議な味わいだろうなあ。もう、客席では頭の中がぐるぐるしてしまいそう。