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「兵は凶器なり」あまりにも時代の先を行き過ぎたため周囲から理解されることのなかった山田顕義。幻の建白書は実現が叶わなかったが、彼が日本史上興した偉業のおおきさは計り知れない。陸軍から司法への大転向を遂げ、日本の法のありかたを追求した山田に与えられる称号は、「小ナポレオン」であり「法典伯」である。
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幕末から維新にかけて、あらゆる戦争に参加した生粋の軍人でありながら司法大臣として司法に心血を注いだ軍人政治家の波瀾の生涯
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思い出しついでにパラパラと捲ってみたら、止まらなくなり読み終えてしまいました。
これで三度目かな?
『五稜郭を落した男』につづき、山田顕義についての作品です。
『五稜郭~』では軍事面の能力がクローズアップされていましたが、「空斎」の号をもつ詩人でもあった顕義。
随所に漢詩が引用されていましたが、その善し悪しがわかるほどの知識はありません。それでもいいなぁと思うフレーズがありました。
こちらは松陰との出会いから、生野での最後の瞬間、そしてその後日談までが描かれていますが、最も興味を惹かれたのは冒頭の山田家の墓所発掘調査。
昭和63年に行われたその調査では様々なことが調べられていますが、著者が最も注目したのは遺体の頭蓋骨右側頭部に残された幅1センチ、長さ1.8センチの傷。
それは「外部から内部へ、外力が加わった可能性が考えられる」「ほぼ直角に向かう刃器の刺入などによって生じたものと思われる」ものであった。
明らかに致命傷と思われますが、残されている死亡時の医師所見ではこの傷には一切触れられていないそうです。
「刃器」によるものと推測されていますが、著者でなくとも「暗殺」ということは頭に浮かぶのではないでしょうか。
ただこのあたりは想像になるので小説中では「暗殺」をほのめかす程度になっています。
思い込みをできるだけ排除し、歴史を描写しようとする古川さんらしいです。
ただ、そんな古川さんの本心?とも思えたものが、明治23年の国会で山田が心血をそそいだ商法・民法を始めとする諸法典の施行を阻止しようとする野党との対決の場面。
当時首相であった山縣は予算に全力を尽くし、法典実施への努力を故意に省いて山田に援護射撃しなかったことについて、
「山縣との衝突を避け、軍部での活躍をあきらめてサーベルを捨てた顕義のためなら、せめて司法畑での彼の功業を全力で支援するだけの度量を、山縣はしめすべきだったとはいえるだろう」
と書かれています。
よほど目に余ったのでしょう。ご自身のこういった思いを書かれることはあまりなかったので新鮮でした。
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名前は聞いたことがあるけれど、何をした人なのか?
幼い頃より松下村塾に通い吉田松陰に兵学を学び、その後大村益次郎から軍事学を学んだ用兵の奇才と言われたのが、この山田顕義だ。
前に出ていくタイプではないこと、50歳を前に夭折したことなどで歴史的にはあまり有名ではないけれど、この本を読むと、とにかくすごい。
幕末の、長州が関わった戦いにはほとんど参加しているし、戊辰戦争(対長岡戦)でも、西南戦争でも、苦戦している戦いを勝利に導いたのは、彼の作戦によるところが大きい。
ただし、苦戦していたのが同郷の山県有朋だったのが不運で、器が小さくて上昇志向が人一倍強い山県有朋は、山田顕義の手柄を認めることなく、最終的には陸軍から追い出してしまうのである。
大体どの本読んでも山県有朋をよく書いている人がいないのだから、本当にこの人って…。
目の上のたんこぶとばかりに山田のことを邪魔に思っていた山県は、岩倉使節団に山田のことを送りこんで体よく厄介ばらいをし、その隙に軍の中の山田の居場所をとり上げてしまったのだ。本当にこの人って…。
欧米を視察しているうち、山田はナポレオンに心を惹かれていく。
軍人として傑物でありながら、フランスの法典を作ったナポレオン。
ナポレオンの肖像画を見ながら、こういう人間になりたいと山田は思った。
“大久保利通はヨーロッパの現実に気炎を吐く英傑ビスマルクに傾倒し、山田顕義は今も虚像となってヨーロッパ人に渇仰されるナポレオンに魅せられて、祖国へ帰っていくのである。それはヨーロッパを武力で席巻した軍人としてではなく、後世に伝える法典を生み遺した偉人としてのナポレオンであった。”
けれど、実際に山田が司法に携わるのはもっとずっと後のこと。
閑職についても実務に秀でている山田は、木戸孝允の下で視察の報告書を作り、政府に数々の提言をしている。
人の心の機微がわかり、実務にたけている山田が常に山県の陰にまわる羽目になるのは、年齢のせいだけではなくて、政治的な欲がないから。
憲法の起草にもかかわったが、山田が主として作り上げたのが民法と商法。
その先見的な家族の在り方や、公平に開かれた商取引の下地つくりは、既得権益を守る人たちから猛反対を受け、山田が準備したほう分が日の目を見たのは彼の死後、第二次大戦での敗戦後のことなのである。
長州藩に対する思い入れが強すぎるきらいがあるので、歴史小説としてはどうかと思うけれど、知らなかった歴史を知ることができたのは良かった。