紙の本
Whereareyougoing?
2001/09/05 16:38
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投稿者:阿Q - この投稿者のレビュー一覧を見る
著者はこれまでの作品において、自らバックパッカーとなってアジアを旅し、そこで出会った日本人の若者達を撮ったモノクローム・ポートレートと繊細かつ力強い文章で、アジアを漂う人々の心、さらには日本への思いを描写してきた。この作品では視点を変え、初めて今まで避けてきた「東京」を撮り、東京に生きる人々を取材対象としている。
しかしこのことは小林が感じていたであろう「東京」に対する疎外感、東京に生きる自分というものへのリアリティの欠如が払拭されたことを意味しているのでは決してない。なぜなら本書においてもなお、小林は自らの人間としての居場所を探し続けているからだ。
「僕はこの茫漠と広がった大地を、あえて装置と呼びたい。その名は、東京装置。」
小林は「東京」をこう言い表している。さらに本書に収められている写真はいずれも大都市の、通常「ひと」が溢れている場所を撮影したものであるにも関わらず、すべて「ひと」の存在が意図的に消されている。
本書に収録されている写真を見て、私は或る大学院に通う友人の話を思い出した。その大学院では毎日、その日のカリキュラムが定時にメールで送られてくる。SFではよくあるテーマだが、もし異星人の襲来により人類が滅亡しても、メールは毎日配信され続けるのではないか、その大学院にいるとそんな気分になる、と友人は話していた。
「東京」は「高度にどこまでも無機質に、緻密に、そしてところどころで矛盾と故障を繰り返し、それでもなお増殖している生物のような機械装置」として在り続け、高度にシステム化された大学院において、メールを受信する学生の存在がそのシステムにとって「なくてもよいもの」となっていくように、そこでは、小林が本書に収録した数々の写真で大胆にも大都市の日常の風景から「ひと」を排除してみせたように、「ひと」が自ら作り上げた(と我々が考えている)「東京」という都市にとって「ひと」が「なくてもよいもの」として疎外されていくのだろうか。
本書において表現されている、人間疎外としての都市「東京」を感じている者は決して小林だけではないはずである。本書は一写真家小林紀晴の自らの居場所を探す表現活動という枠を超えて、「東京」という都市に暮らす多くの人々に自らの暮らしている場所について再度深く考えさせ、さらには「東京」の、あらゆる大都市の、さらには我々の暮らす社会全般の未来について広く考えさせるものになるだろう。
いったい我々はどこに行くのだろうか。
紙の本
安住の地はどこにある
2001/04/19 23:23
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投稿者:nory - この投稿者のレビュー一覧を見る
自分の居場所を探している人は多いだろう。私もそのひとりだった。どこにいても喉の奥に引っ掛かった小骨のように、かすかな違和感がつきまとう。不安とまではいかないけれど、慢性ホームシックのような状態だった。
人々が集まって共通の認識の中で笑っているとき、当たり前のように習慣を押し付けられるとき、強烈な疎外感に襲われてくるりと背を向け逃げ出したくなる。自分とその場所をつなぐロープが太くなればなるほど、斧で叩き切りたくなる。この本に出てくる人たちにも、ベクトルの方向が違うとはいえ同じにおいを感じる。
東京の、しかも都心に住んでいる人たちのインタビューも、写真家である著者の転がるように住居を変えていくストーリーも、むさぼるように読んでしまった。そしてひとつの共通点を見つけた。いわゆる住宅街には住めないということである。そこでは少しでも人と違った生活をしていると奇異な目で見られてしまうのだ。その目がどれだけ人を追い詰めているかも知らないで。
だからみんなは夜は誰もいなくなるオフィス街や、住居とは思えないビルの中に自分の隠れ家を作る。わざと駅から離れた場所や誰も入り込まない裏道の先に住む。その場所の写真がまるで自分にとっての理想郷のようで、食い入るように見つめてしまった。
私がようやく見つけたのも、移り住むという方法だった。同じ場所に居続けることこそが、私の心を落ち着かなくさせていたのだ。
居場所を探してさまよっているのとはちょっと違う。慣れ合いというものに溶け込めないのだ(もちろん、それのいい面もわかるけど)。
だから、私の安住の地は流動的だ。どこにもないその場所は、自分の手で作り上げるしかないのだけれど。
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この本を買った時は上京中だったので、実家に帰った今読んでも初めて読んだ時と同じ気持ちにはならないんだろうなぁ。
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『東京』という巨大都市。
絶え間なく人々が去り、そしてまた上京してくる者たちがいる。
そして都市はまた増殖し続ける。
――そんな場所を、著者は「装置」と呼んだ。
著者の本職は写真家である。
彼の文章に添えられた写真はすべてモノクロで、まるで「装置」としてのみの都市・東京を強く印象づける。
しかし、「装置」でしかないと判っていても、あえてその中に身を投じたい者は必ずいる。
都市ではない場所から都市を見る、それは地方出身者にのみ許される芸当だ。
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【キャッチコピー】「東京は旅の途中の、トランジットルームみたいな気がする」
【レビュー】東京で暮らすことのシビアさを味わいながらも東京を離れられない。東京って「中毒」になるよな、ってこの本を読むと感じてしまう。東京の空虚さを鮮明に映した一冊。
鹿毛
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以前、仕事の関係で約3年間ほど東京に住んでいたことがある。山手線の田端駅のすぐ近くに住んでいた。やがて勤務を終えて地元に戻り、そこで再び生活するようになった半年後、出張で再び東京へ飛ぶことになった。
僕は業務の合間の短い時間を見つけて、田端の自分が住んでいた部屋を見に行った。もちろん中に入る事などできないから、アパートを近くから眺めただけだ。
僕の住んでいた部屋には煌々と明かりが灯っていた。ああ、誰だかわからないけど、あの部屋には新しい住人がいるのだ。そう実感した時、僕は自分が本当の意味で東京の住人ではなくなったのを知った。
1000万人以上の人口を抱えるこの国の首都・東京。この街にはいろいろなものがあって、様々な人が通り過ぎていく。写真家・小林紀晴はこの東京を装置のようなものだと言う。高度に、どこまでも無機質に、緻密に、そしてところどころで矛盾と故障を繰り返し、それでもなお増殖している生物のような機械装置。
『東京装置』は小林氏のエッセイと東京に暮らす人々へのインタビューが収められた本だ。エッセイでは、小林氏がこれまで過ごした東京の部屋を軸に、そこで見聞きした事を回想形式で描いている。
カメラマンという不安定な職業を持ちながら、東京をさ迷う小林氏はそこで自分の居場所を探し続ける。若い頃にアジアの都市を放浪した経験を持つ彼にとっても、東京という都市は不可解な場所に映っている。
東京という街の特徴は、場所によって全く違った顔を見せることだろう。繁華街のネオン、オフィス街のよそよそしさ、住宅街の排他性。常に流行の最前線であることが義務付けられ、その装置の中で血液のように循環してく住人たち。
本文には撮り下ろしの写真も多数おさめられており、都市の素顔を映し出している。
そして「PORTRAIT」と名付けられた章では、東京に暮らす人々へのインタビューを通じて彼らのストーリーを描き出している。10組の人々が取り上げられているが、それぞれが実に様々な想いを胸に東京で暮らしている。
「地方」という田舎を持たない者。東京にずっと住み続けたいと言う者。それぞれにとってのこの都市が持つ意味は微妙に違う。小林氏は「場所は間違いなく人に影響する」と記しているが、恐らくそれは誰もが実感する事ではないか。暮らす場所がその人のスタイルや考え方に影響を及ぼす事は容易に想像がつくだろう。
だからこそ、小林氏は東京に暮らす人々を追い続ける。彼らが何を考えどう生きるのか、それを見つめようとしている。
東京という大きな箱(装置)、そして部屋という小さな箱。二重の箱に収まりながら暮らす人々を鍵にして、物語は紐解かれていく。地方都市では決して語られることのない物語が。
僕は『東京装置』を読んでいる最中、何か違和感のようなものを感じていたのだが、途中でその正体に思い至った。それは小林氏が映す東京の写真(「装置写真」と彼は呼ぶ)に人物が一人も写っていないのだ。
もちろん、「PORTRAIT」と名付けるだけあってインタビュー部に挿入された写真には取材相手の写真が載っているのだが、それ以外のエッセイ部におさめられた写真には��っ子一人写っていない。この違和感は強烈だ。人で溢れる街から人が消え去った世界。後半で小林氏自らこの写真の意味と撮影方法を明かしているが、そこには異様な寂寞を感じる。そして最後の最後、巻末近くにおさめられた写真でようやく「人」が奇妙な形で姿を表す。そこに至って初めて、読者自身の物語が動き出すような気さえする。我々の中にある物語が駆動を始めるのだ。
僕がこの本を読んでいて最も驚いたのは、この本が執筆された時点において小林氏がまだ29歳だったという事だ。今の僕よりもずっと若い時に本書が著されているのである。こういう本を書くのは大体30代後半から40代くらいのオジサンだろうと勝手に決め付けていた。不覚である。もちろん物語を語るのに齢は関係ないのだ。
そして時を経て2011年10月。43歳の年に小林紀晴氏は六本木で写真展「ハッピーバースデイ 3.11~あの日、被災地で生まれた11人の子供たちと家族の物語~」を開催した。2011年3月11日に被災地で生まれた子供たちを捉えた写真の数々は、苦難の時代に降り立った本当の希望だった。
この時代に生きる人々に何を残せるのか。その時代に生きる人々の何を残せるのか。カメラという道具で時代と空間を切り取っていく小林氏は、これからどこにファインダーを向けていくのだろう。
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小林紀晴の写真エッセイは重くて熱の高い写真と、冷めた文章によって構成されていると思う。
筆者本人がとりつかれたように書き撮った「アジアン・ジャパニーズ」は、文章も非常に重く、会う人たちも日本以外では非常に重かったと記憶している。熱でテンションが高いのに、心は非常に冷めている。
さてこの本。東京という街を転々としながら、遠い人と会い、隣人と離れた生活をおくる彼の文章には以前の熱はもうない。ただただ冷たい。
今から15年前の東京。まだ僕は札幌にいた頃。東京に憧れはなく、遠い存在だった東京。あれから何が変わり、何が変わっていないのだろう。生活者(通うもの、住むもの、うろつくものなど)は、東京という場の上で何が変わったのだろう。「探していたものがあると思ったけどなかった」ことに気づき、もしくは作っているような体で過ごし、まだそれを自分が作りだすということに気づいていない15年前の人たち。今40歳に近い彼ら、彼女らは何か答えの欠片でも見つけることが出来たのだろうか。僕は何か見つけているのだろうか。
道を小さくそれ続けたことが、振り返るともう全く違うところにいる。同じ所に居続けることもゆるされない。他人に興味は無く、でも自分がどう思われているか気になる。周りを肯定者で囲み、それ以外を傷つけ疎外する。疎外された人たちはまたその中で仲間をつくり、また会わない人を疎外する繰り返し。そんな人たちで世界はできているのじゃないだろうか。「ない」「なくなった」「顔が見えない」「量だけはある」の繰り返し。「東京」を語る人たちの答え全てが個人に向けての答えであり、自分の考える東京ではない。脈打つ血管、吐き出される油、血である人の存在、矛盾と故障を繰り返しながらも、動き続ける東京は装置である、の答えは著者にしか無いし、バブル直後のほんの一部を切り取ったこの本は、思い出の詰まったアルバムではなく、ただただ、記録的な存在にのみなりえる。
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市図書館。
ちょうど自分が東京で暮らしていた頃に、まだ名残として残っていた「空気感」が感じられる作品。
懐かしい、と表現するにはまだ歳を取っていないし(歳を取っていないと思っている、し)、過去の事だよね、と言い切れるほど割り切ってない自分に気が付く。
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育ちは栃木だけども鎌倉、高崎、福岡、長崎、高知、郡山、山形、千葉に住んだことがある。引っ越しは合計13回。なかなかである。自分の住んだ街のありのままを読み物にできるってのはなかなか良いものだなと感じた。自分にもこういうものが書けそうだし、いずれ書いてみたいな。