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紙の本
聞くことと見ること
2007/04/14 19:20
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:仙道秀雄 - この投稿者のレビュー一覧を見る
NHKの日曜ドラマをずっと見てきた。NHKの戦国時代好きにつきあってもう40年。信長、秀吉、家康、、、の物語を見聞きしてきた。自動的にその時代に親しくなってくる。前田利家の幼名が犬千代で信長とは衆道の関係にあったらしいとか。そんなこともだんだん知るようになってきた。
それと同じで能は平家物語に詳しくならないとダメなようだ。景清、敦盛、清経、重衡、頼政、、、と聞いてすぐに人物の背景がピンときてはじめて余計なことはそぎおとす傾向の強い舞いや、語りが見えてくる。
中でも世阿弥は修羅物といって平家の公達をシテとする作品を多く書いているので、世阿弥を知りたければ当然平家物語に親しまねばならない。
その世阿弥だが、「芸能こそ寿福増長の基」という考えを根本中の根本としていると聞いて嬉しくなった。わたしも日頃から芸能はヒトをハッピーにしてこそ、だと思っていたからだ。ハッピーといってもハリウッド的なハッピーエンドだけではない。鎮魂や魂の安らぎなども含む幅広い意味をわたしはハッピーという言葉に含蓄していた。
そんな世阿弥の寿福増長の考えを一番代表するのが、大原御幸;建礼門院を後白河法皇が見舞う話だと言っている。この本のなかで一番良い文章だ。ところが、彼女はこんなことも言っている。
「女院にとって、そういう所で晩年をすごすのは、辛いことであったに違いない。が、案外仕合わせな暮らしをされていたかも知れない。現実というのはいつも興ざめなものだが、どこかでバランスがとれているのがふつうである。」(300ページ)と非常に醒めたことを書いている。能に一生懸命になり、「この一番は凄い」などとおおいに感動しながらも、それはそれ、現実は現実、資金繰りをしなければならぬ、そんな興ざめなもの、という考え方や生き方はわたしも好きである。
だから白洲正子がこんな風に言うのを聞くと嬉しくなる。「序之舞は長くて、静かで、眠くなるような舞であるが、眠くなったら居眠りをすればいい。ふと目をあけると、白い姿をしたものが未だ悠然と舞っている。ああいう気持は何ともいえない。まったく夢現の境にいるという感じで、お能のほんとうの姿を垣間見る思いがする。」35ページ
眠くなるような舞にたびたび出くわしたことのある身としては救われた気になる。
「仏の舞も一歩踏み出す以前に、真の姿がある。−ここでシテは、拍子を踏む時のように、左足をあげ、その姿勢のままでしばらくじっとしているが、千万言の説明をついやすより、その不安定で動じない姿の方がどれ程多くのことを語るかわからない。『一歩挙げざる先』というのは、おそらく作者自身の体験から
出た言葉で、・・・『狂言綺語は讃仏乗の因(きょうげんきごはさんぶつじょうのいん)(たわむれの言葉も、仏を礼賛する機縁となる—白楽天)という思想は、室町時代の芸人が信じていた言葉で、役者としての生甲斐も、信念も、そこに見出していた。一芸に秀でた達人の矜持というべきか。彼らにとっては、経典の言
葉の方が借り物で、彼らが創造したお能の幽霊は、借り物ではない。長年の作曲と舞台の経験から生まれた、正真正銘の思想の形であった。世阿弥はしきりに、舞わぬひまに心をつなぐとか、用心しろと注意しているが、何もしないでいる時、動作に移る以前にすべてがかかっている、そういうことを『一歩挙げざる先』と
いう謡で表現し、『一歩挙げた形』で演じてみせたのである。聞くことと、見るものの違いはそこにあるといえよう。」(37ページ)
こんなことなかなか言えるものではない。もう少し能経験を積んでから味読したい本である。
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