紙の本
過剰は笑いを産む?
2013/09/01 09:38
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:わびすけ - この投稿者のレビュー一覧を見る
ソローキン作品は意図的に過剰だ。本作も愛と殺戮が過剰。過剰さ故なのか凄惨さよりもあまりのやり過ぎに笑いに転化してしまう。後期のバラード作品や、浜岡賢次のギャグマンガと同じ。ロシア文学だと肩肘張らずに楽しむのがいいと思う。でも疲れた。
投稿元:
レビューを見る
ドストエフスキーの『罪と罰』でラスコーリニコフとソーニャは2人が向き合った時長い沈黙が訪れる。その時訪れたものは罪→信仰であった。しかしソローキンの『ロマン』でロマンとターニャ2人に長い沈黙の後、木の鈴の音と共に訪れたのは何であろうか。淡々とフルネームで人名。斧。そして動かなくなった。人名。斧。そして動かなくなった…と繰り返すのは旧約聖書にある書式。そしてラストの行為は聖体拝領。神に愛しい物を全て捧げたのだろうか。聖なる行為とグロデスクの対比がすごい。どちらにしても前代未聞の後半だった。うぷっ。
投稿元:
レビューを見る
第2巻。
本巻でも大半は『真っ当な』ロシア文学的描写が占めるのだが、一種戯画化されたようなテンションで語られる主人公・ロマンの結婚披露宴の描写は、後の『青い脂』や『親衛隊士の日』のラストシーンに通じるものがある。
そして一気に『文学を解体』し始めてからは圧巻。実際のところ、スプラッタ的な描写ではなく、ただ淡々と主人公とその妻の行動が簡潔な文体で記されているので、生理的な嫌悪感はあまり喚起しない。逆に一種の滑稽ささえ感じる。斧つえーなおいw 普通壊れないか?ww
但し恐怖感はじわじわと増幅される。その最大の原因は、ロマンが殺戮を続ける間、随所に挟まれる『タチヤーナは鈴を振っていた』の文章だ。想像したらこんな気味の悪いもんはないw
ラストシーンはソローキンらしさ全開で、がっつり吐瀉物や排泄物が登場する。まぁ、悪趣味なシーンだが、聖性の暗喩ではなかろうか、と思わせる。
投稿元:
レビューを見る
殺戮のはじまるまで、わくわくしながら読んだ。
幸福な十九世紀ロシアの農村での哲学的対話や神学論争的なあれこれも(若干冗長であるが)楽しめた。しかしながらクリューギンの贈り物である斧、それから鈴の登場によってはじまる物語の解体作業にはやはり圧倒されてしまった。
小さい頃にのびのびした田舎でぼーっと育ったからだろうが、善と悪があって大人はちゃんとしたものであるというような素朴な幻想が、実は大きな物語なんか失墜していて、ポストモダン状況というようなカオスになっていると理解したときに壊れた、失望/衝撃みたいなものを追体験するような感傷を得られた。当たり前だがすぐれて現代的であった。
投稿元:
レビューを見る
スカトロと殺戮が様式美の域にまで高められてもう神々しい。
ソローキンの破壊衝動は毎回気分が悪くなるくらいなのだが何故か心魅かれてしまうんだよなあ。他の作品でもそうだったのだがこの本でも破壊衝動の中にリビドー的なものが感じられるので、ソローキンの中の愛みたいなものと繋がっているんだろうか。いや、もし愛だとすると最悪な愛なんだけれど…笑。