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楠木先生の戦略読書日記の記事「映画はやくざなり」の中で、破滅の美学と並んで、本書もお薦めとのことで、読んでみた。笠原氏の本は本書で3冊目だが、読み進めるうちに、どうしても氏の作品が見たくなり、今さらだが、はじめて「仁義なき戦い」を観た。まだ見ていないが、日本侠客伝も借りた。
破滅の美学は映画のアトセツだったが、本書は、私的な回想録である。戦争体験は我々には想像もつかない過酷な経験だが、そのような体験をしていても、日々氏が考えていたことには共感を覚えた。
「思えば、いちが全身全霊で演じた『修羅』の相は、否応なく私たちに引き継がれ、その子供たちの『修羅』によって、いち自身が滅んでいった。そして私は、その『修羅』を学力にかわる唯一の財として劇作の道を選び、まがりなりにも今日の小成を得た。」
「戦後教育はヘンに抽象的な民主主義を学童に鼓吹したものだから、すぐ『ありのままの自分を認めてほしい』と言う。神様でない限り、『ありのまま』の他人など理解出来るわけがない。民主主義とは『認める』ことではなくて『相争う』ことである。『争う権利』が平等にある、というだけだ。一票でも多く賛成者を得た者が勝ち、負けた者は認められないまま我慢してるか、余所の土地に去らなければならない。…
本来、民主主義も自由も、アメリカのように空間的にも物質的にもプレンティ(豊富)であることを大前提に成り立つ制度であり、狭い日本列島にそんなものを持ち込むから、逃げ場がなくなって虐めや学童の自殺が起きたりする。この悲劇を解消するには、尻尾を振って味方を増やすしかないのだが、先生も親も『よく話し合えばわかるはず』と称して、尻尾の振り方を教えてくれない。話し合ったって嫌いなやつが好きになれるわけはないのだ。
民主主義が入ってくる以前(戦前)の日本は、ひと皮もふた皮もかぶった連中のお愛想、おべんちゃら、お追従、ヨイショが身辺に渦巻いていて、寄席で落語を聴けばこれまたのべつまくなしの上げたり下げたりのお笑いだから、尻尾の振り方が日常茶飯のこととして知らず知らずのうちに身についた。それもただ尻尾を振りぁいいというもんじゃない。周囲の目に立たないように、相手にそれとなく伝わり、自分のプライドもチラチラと覗かせておく、という技術が必要だ。」