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この本。1998年に第1版が出て、2006年の段階でまだ第1版。何でそんなに売れないかというと、要するに何が言いたいのかよく分からないから。特に、第1章「恋愛の自己責任」ここが意味不明。散歩譲って、まだ住専問題はわかるが、それにしたって2000年代にコレを読む価値があるかというと…
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[ 内容 ]
無責任システムを放置したあげく、突如わき起こった「自己責任論」の大合唱。
結局、誰が「責任」をとるのか!?
―「公」と「私」、「責任」の東西比較、戦後体制の本質。
この国の病根を深く洞察した警世の書。
[ 目次 ]
1 「恋愛」の自己責任とは?
2 「責任」とは何だろうか
3 「公」と「私」について
4 「無責任の体系」は日本的現象なのか
5 日本は特殊な国なのか
6 戦後体制はどのように生まれたのか
7 住専問題から日本の明日を考える
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
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[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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空虚な中心としての「天皇」は、「空気」と呼び名を変えて、この社会に生き延びている。「空気を読む」とは、天皇制的心性による「御前」会議ごっこだ。「個人は全体のために」という口実で、"全体"を僭称する一部支配層の私益の為に個人を隷属させる全体主義は、最悪の欺瞞的即物主義だ。ロマン主義は政治を含むあらゆる即物主義を拒否する――政治否定の政治的現れであるところの全体主義をこそ、拒否する。
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現代の日本で声高に論じられる「自己責任」という概念を、歴史的・社会的な観点から批判・検討している本です。
「自己責任」というと、イラク人質事件直後に沸き起こった議論を思い起こしますが、その批判的検討が本書の企図ではありません。日本における無責任の体系を批判し、個人に根ざした責任を重視する西洋の社会を理想化した丸山真男や、日本の集団的な権力構造を批判してジャパン・バッシングの旗振役を演じたウォルフレンの議論が、あまりにも図式的だということに重点が置かれています。やや時代遅れの議論を相手にしているという印象を持ってしまいましたが、1998年に刊行された本ですし、また歴史的な視野を広げて「自己責任」の概念を見なおすという著者の基本的なスタンスにも賛同できます。
とはいえ、すべてを自己の内に取り込もうとする資本主義のシステムからのアジールとして家族を守らなければいけないという主張など、著者自身の主張が説明抜きにいきなり語られる箇所もあり、その一方で瑣末的なところに議論が入り込んでいるところもあって、全体としてのバランスの悪さが目に付きます。
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◆一般に「自己責任」の文言から受けるイメージは、➀自由ないし自由意思を是とした際、これに伴う不利益は自ら甘受すべし、②が、抑々自由意思は、情報の非対称が所与の前提である以上、仮想・非現実でしかない、③また、自由意思を国家が妨害しない(消極的自由)だけでなく、国家がどこまで実現を援助すべきか(積極的自由。自ら飛び込んだ紛争地域内での拉致被拐取者の保護の要否)を吟味するもの。◆が、本書は表題と違い、かかる議論は殆ど無い。これとは位相を異にする「責任」の内実や多義性を、東西・史的な差異を踏まえ解読する書なのだ。
つまり、本書は、自己責任の「自己」でなく「責任」に焦点を合わせた書と評しうる。その意味で「自己」に寄った1、6章は全体との関連性が希薄に感じた。加え、責任の多義性のみならず、無責任、又は無答責(特に国家や官僚)まで論を広げて展開するので、かなり雑駁な印象は拭い去れない。ただ、責任の内実検討の前提として議論される「公」「私」の区別につき、日本の特殊性として、重層・複層的構造(幕府との関係では藩内や家内の問題は「私」等)と見る点は興味深い。1998年刊。著者は東京経済大学コミュニケーション学部教授。
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一貫性がない記述もあるが、アメリカが「公」という戦後の自由民主党の認識の一貫性は言いえてると感じた。安倍首相では特にそうである。これだけでも読んだ価値があった。「住専」問題など具体的な記述もまたいい。