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おそらく、本当に理解は出来ていないのだろう。それでも、ワタクシの人生に影響を与えてしまったスゴイ本。
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ちょっと前、同じ養老孟司さんの『バカの壁』を読み、面白かったのだけど、食い足りなさ感、煙に巻かれた感が強かった。まあ、口述筆記のせいかなと思い本書を読んでみた。こちらはちゃんと書いたものだし、厚さもかなりある。
しかし、読んでみたらまるで同じ印象でした(笑)。また煙に巻かれたような。同時にこちらの脳味噌の出来が悪いせいでついて行けてないのか。
非常に大まかに中身を紹介すると、前半は脳の各部分の構造、中盤は言語を軸に「聴覚系-視覚系」の統合のお話、後半は思想史に脳の構造が及ぼした影響の検証となっている。
幾つか成る程と膝を打つ部分もあったが。例えば筆者曰く、「我思う故に我あり」というが、普通日本語で「我」の部分を書かない。「〜と思う」とただ言うだけである。そしてその方が論理的である、といったようなクダリだ。
その、考えてみれば訳の分からない「我」に拘りまくったのが近現代の哲学とも言えるとは思うのだが…。彼はそれは「考えているのは脳に決まっている」と両断する。身も蓋もないが、これって哲学的にも実は含蓄のある表現だと思う。
で、本書の後半では進化論者や歴代の哲学者がかなりばっさばっさと切られていて私的にはかなり戦々恐々として読みすすめた。あまりのばっさり感に胡散臭さも感じるが、ほら話では済まない何かがあるのは確かだと思う。
はっきり言って私の脳がそこら辺整理しきれないので、もう一度読んでみようと思っている。
ところで巻末の解説文を読むと、養老さんのそれとはあまりに質が違うので、改めて氏の凄さと胡散臭さが浮き彫りになって面白い。
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初めてこの本を読んだのは高校生の時。
雑誌のレビューを読んでソッコー欲しくなりお取り寄せした一品。
最近また買って、読みなおしたのですがやっぱりこの辺の養老氏が良いなぁと思いました。
日頃から思っていた疑問がさらに深くなるような本です。
例えば自分が見ている『赤』という色。それは視覚的な感じ方ではななく、自分が『青』と認識しているものが一般的には『赤』と認知されているとしても会話は成立してしまうから、それが本当はどういうものか永久に解らない。それを『赤』と社会的に認識するのはいわゆる脳の作り出す『情報から成り立つ社会』であって…みたいな感じです。
結局の所書かれている内容に明確に『コレだ!』という答えは出ない(出せない)のだけれど、その事について懇切丁寧に書かれていて、心地の良い疑問の残り方がします。
私はコレで読書感想文を書いたのですが、小説を読んで感想を書くよりも、こういう本を読んで感想を書いたほうがやりやすかったです。
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結局脳なのかな?
という気にさせられる本。
脳の能力の限界が人間の認識の限界なのかな?本当のところは全くわからないけれどね
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好きなんだなぁ〜養老孟司の本!!もともと、理系だったので高校の時に、父から紹介されてはいたものの、大学に入ってから初めて読んだという1冊。「バカの壁」を読んだ人は、こちらを読んでもう一度読みましょう!より深く養老先生の考えが分かります!
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養老さんはここから始まってます。おそらくこの本抜きで、21世紀の日本を語ることは出来ない、それほど強いインパクトを僕らに与えた、と思える本です。
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解剖学がご専門の養老孟司氏による脳のお話。「バカの壁」では物足りない方は是非こちらを。この方の主張は一貫性が強い(同じ事が違う著書でも良く語られる)のですが、その原点がこちらの著書のような気がします。
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いろいろな事を考える上での,自己を含めた「ヒト」の根本的な立ち位置について,深く考察した本.作者の博覧強記ぶりに圧倒される.
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解剖学者、養老孟司の哲学本。「循環」が取り出せるのか。一緒くたになってた機能と構造を分けてくれた本です。
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100528読了。
養老氏の著作は理系の研究者が書く本にしては、かなり歯切れが良く、読みやすい。ただ、この本を読んで、その切れ味鋭い舌鋒に「世界とは脳だ!」と巻かれてはいけない気がする。著者がそもそもこの本を書いた理由は「文系と理系の対立を脳に還元してみる」というものである。要は試みであり、思想の提言ではない。
岸田秀が「ものぐさ精神分析」において唯幻論を提唱したとき、私はその理論の明快さにはらはらした。その影響で、今でも私の中では「自殺は幻想我の保持である」とか「人間は最初不能であった」というフレーズが大きな価値観になって占めている。無論、あくまでも岸田氏は心理学者であったから、実証可能性において所詮文系の創りだした都合のいい物語にすぎない、と良い意味の読者であることを誓うこともできた。
しかし、養老氏は解剖学者である。理系の人の説く理論に私はどうも弱い。文系の人の弱さが実証性で、理系の人の弱さがレトリックや訴求力であるならば、養老氏は両方を克服しているように思える。だから、一瞬そのハイブリッドな筆致に信奉してしまいそうになるが、脳においては未解明の部分も多く、実証性は欠けること、また、たまに何を言ってるか良く分からないので信者にはなるまい。幸い本人も「脳とは順次連結していく神経細胞の集合体にすぎない」というように、脳至上主義者ではないから、その辺は一歩引いて読むべきだろう。 また、連載であるからところどころ話が飛ぶ。
「計算機という脳の進化はわれわれの脳の一部の、これからの進化なのであって、原理的に脳を代替するものではない。」という記述で、人工知能の不必要性がわかった。
睡眠は休みではなく、脳の情報整理活動であるから、無意識といえど生の一部である。
一番頷いたのは、意識の発生について。脳にとってみれば、「自分自身が成立していくために必要なこと」が意識である。だから、意識は脳にとって必然である。心の問題に関しては、意識と言い換えればよいのであり、構造と機能の問題に変わりない。
構造主義、視覚主義(永遠or一瞬)⇔機能主義、聴覚主義(流れる時間)
「わかる」とは「形をリズムにする」こと。要は、ヒトの意識による視覚系よ聴覚系の連合である。
ブローカ中枢→運動性言語中枢
ウェルニッケ中枢→聴覚性言語中枢
角回→視覚性言語中枢
ヒトの認識の普遍性について、丸山真男の論文を脳の時間意識の変奏に読み替えた部分は、素晴らしい。自然科学と人文社会学の普遍性を垣間見せてくれた。
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身体の様々な器官、
その延長として都会や文化といったものを
脳の機能とからめて説明している。
難しかった。
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高校の頃に読んだ。
今でも脳みそに刺激が欲しいときに読む本。
最近の養老先生の本よりオススメ。
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だいぶ前になるが、某ニュース番組で脳化社会への警鐘を鳴らしていた養老氏の「脳化社会」という考えをより深く理解したいと思い、読み始めた。
養老氏の現代社会に関する考え方は、この本の「はじめに:唯脳論とは何か」と「エピローグ:脳と身体」を読むだけでも十分理解できる。情報化社会とはすなわち社会全体が脳化することを意味しているし、医学的な見地から見ても脳そのものが情報器官であることからも簡単に説明がつくと説明する。
しかも情報化以前に近代化を推し進めてきた時代背景も、それよりももっと過去からの人類の歴史を顧みると、伝統や文化社会制度、言語も全て脳の産物であるから、「私たち人間は脳に従属し脳の中に閉じ込められている」という表現を養老氏は用いる。
基本的な本の構成としては解剖学者である著者が脳そのものを哲学を抜きにした形で正面から、運動器官としての身体と情報器官である脳との関係を捉えなおす上で用いられるのが、唯脳論である。くれぐれも注意しなくてはいけないのはこの言葉は養老氏の造語である点だ。
人の活動を、脳と呼ばれる器官の法則性から全般的に眺めようとする観点を唯脳論と定義づけている。確かにわたしも読み始めてすぐは、意識や意志を持つ上では脳の器官は自己定義にそもそも必要であるし、それを体現するには身体を使わなくてはいけないので、この議論がわからないところがあった。しかし、身体と脳を切り離して考えてみることで現代社会やそこに住む人間が抱える複雑な問題を解き明かすに十分な客観性を与えうることにまずもって驚いた。
他の内臓器官とことなり心を特別視する人々にとっては、「心」が脳と同一であることになじめないと指摘し、それを作用と機能という二つの枠組みを適用することで鮮やかに峻別している。他の臓器ではまずモノとしての臓器の構造を視覚を通じて理解し、そこからその臓器の機能を理解する。一方で脳についてはまず考える、意識するという機能そのものが先にたって、構造を理解するのが後に来るという逆転現象が生じる。しかもまだ人間は自分達の心である脳を完全には理解しきれていない。
心を分析して理論化された心理学に対して、物的な視点である解剖学的見地から脳の機能を解体していくと、人間が人間であるがゆえに必要な脳のある部分は簡単に理解することができるが、さらに奥深くて真理がそこに存在するのかどうかさえも分からない更なる問題に直面する。この点を理解できただけでも読む価値のあった本だった。
脳化社会に生きる人間はいつか脳の身体性に復讐されることになると養老氏は予言する。その復讐がいかなるものかは養老氏は指摘しないが、ダーウィニズムを前提に議論が展開される本書においては自然界における生態系の進化から派生した人間にそなわる「自然」が脳化社会の中で生きる自分の脳をストレスや心労などを通じた心の病気や傷といわれる形で、現実化しているのではないかと私なりに解釈している。
個人的な関心ではあるが、現代における脳化した社会と、映画「マトリックス」で描かれた人間が機会に従属し身体の運動機能を熱源として利用されて脳が何も意味をなさない時代設定を、比較してみると養老氏のいう「脳化社会」がどんなものかが少しは分かりやすくなるのかなと思ったりもする。
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唯脳論。解剖学や生理学の専門的な内容もあり、養老孟司の一般的な著作に比べるとなかなか難しい。言葉や文化、文明はすべて人の脳の枠内に包含されているというのが唯脳論の主張だと理解した。都市化や文明化は詰まるところ、脳が地球にある「自然」を脳が作る「人工物」に置き換えていくことのようだ。だから、養老さんは残された自然である虫に全面的に目を向けているのかな。
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なかなか面白い本で、89年発行時は結構斬新であったと思われる。脳研究者の「あとがき」は少し暴走ぎみであるが、本書の内容はそれを差し引いてもなかなか深く広い。循環系をいくら分解しても循環がとりだせないように、脳を分解しても心が出てこないことを示し、社会や心が脳の産物であることを示す。また、目的論と運動系の関係、聴覚と時間の関係、視覚と聴覚の連合と言語の関係などなかなか刺激的な理論にみちている。