紙の本
答えは存在するのか
2001/12/26 18:04
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:nory - この投稿者のレビュー一覧を見る
なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いに対してどんな答えをいえるだろう。「あなたが殺されたくないと思っているなら、あなたも人を殺すべきでない」とか、「そういう質問すること自体が品位がない」とか、「どうしてだと思う?」と逆に質問するというような答えはあちこちで耳にしてきた。しかし、それで質問したものは納得できたのだろうか。「自分が殺されたくないということが、なぜ人を殺してはいけないということに結びつくのか」「自分はいつ死んでもいいと思っているから人を殺していい」という返事にはどう応じたらいいのだろうか。
永井氏は『人を殺してはいけないという規範(死刑を含む)が存在する理由が人を殺してはいけない理由である』という答えが唯一の正しい答えだとしながらも、もしその問いが哲学的な問いならば、大人は子供に教える答えなど持ってはいないという。その問いの前には自分自身もその子と同じ<子供>にすぎないのだと。
小泉氏はまず生活者としての視点からの議論を語り、次に哲学的僧侶としての考察を披露している。彼の考えは、死刑や正当防衛、肉食などのすべての殺生は罪であるというものだ。彼の考える罪の償い方というものも書いてある。そして『殺人は生きるためには無益な殺生』とし、「どうして殺してはいけないのか」という問いには、『「殺していけない」ように実践するによって答えるべきである』と締めている。
いろいろな議論や考察が書かれているが、最終的にはふたりとも問いに対して一方的に教えるということではなく、質問してきた人間とのコミュニケーションの中で答えを見つけていこうという姿勢をとっているということになるのだろうか。それがそれぞれどういう方向に展開していくのかは違ってくるだろうけれど、この問いが出てきたという時点で、もうそういうようにするしかないのだとは思う。しかし、心のどこかでは「ダメなものは、ダメだ」という答えで納得させたいとも思っている。
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一章対話、二章永井、三章小泉の三部構成。
気になって高校のときに読んでみた。
小泉氏の方がわかりやすい。でも当時の自分には難しかったデス。
小泉氏曰く、「生きるためなら何をしてもよい(本当に生きるためなら)。なぜ殺したらいけないかは『殺さなくても生きていけるから。』」
↑この言葉がもっとも印象的でした。
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これ、ブックレビュー見た時は評価が低かったけれど、僕にはそこまでひどい作品とは思えず。むしろいい対談集のように思える。とりあえず、背景知識がないと意味は分からないと思われます。分かればこれほど考え方が明白な本もない。
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噛み合っているようで、噛み合っていない二人の会話が醍醐味の一冊ではある。小泉は知性化することによって、自らの中に言葉を位置づけていくタイプだが、永井はむしろ、自分の言葉でしか理解し得ないということをまず前提としてから、それゆえに自分しか持ち得ない言葉を定義していくといったタイプであろうか?そのため、永井は「理解できない」とためらいもなく言ってしまえるし、相手が自分の言葉を「理解した」とでも言おうものならば、恐らく「誤解しているのだろう」と言い切ってしまえる。逆に小泉からすれば、その言葉を「理解できない」として投げ出してしまうのならば、そいつは思考を放棄した「馬鹿だ」ということになるのだろう。知性化によって階段を築き続けてきた小泉からすればそういった作業をしないやつらは馬鹿にしか思えないし、その作業をせずにいっぱしに哲学的な問いを発しようとしている輩は赦せないのだろう。逆に永井からすれば、自分の問いを自分の言葉で突き進めることが哲学なのだから、「大いにやってくれ」といった具合なのだろう。だから、永井が哲学を語るのならば、「自分の言葉で事足りる」のに対して、小泉は決してそれが「出来ない」。しかし、それが「出来ない」ということを小泉はむしろ、自らの知性と見て誇りにすら感じているのではないだろうか?
二人が唯一一致しているのは、「人を殺してはいけない」という理由なんて実は存在しないのだということだろう。あるとすれば、自分が殺されるのが嫌だから、という程度でしかない。それ以上の理由を見つけようとすればそこには道徳的な欺瞞=善なる嘘が含まれることになるだろう。永井はだから、その人が本当に殺すしかないのだと思って殺すのならば、それしかなかったのだろうとだけ答えるのに対して、小泉は理由がないからこそ「絶対に駄目なのだ」と主張するという答えを返している。どうして人を殺してはいけないのか?という理由を突き進めれば最終的にはどちらかになることだろう。俺は殺すしかないのならば殺すしかないのだろうとしか思えないし、けれど自分が殺されるのは困るのでその場合は抵抗しようと考えているし、それ以外に何もないとは思っている。小泉はしかし、そういう想定を立てられる時点で実は君は余裕があるのだから、それならばもう少し考えてみましょう、そうすれば、もっと見えてくるはずだと言うのだけれど、そういう意味ではこの人なんだかカントくさいところはある。かなり傲慢ではあるけれど、自らの純粋な道徳性を「絶対」と据えているし。定言命法みたいなところはある。ただ、小泉がどれだけ駄目だと言おうが、実際に人は殺されているし、人は人を殺している。だから言ってしまえば、殺すだけの覚悟があるならば殺人は肯定されるし(理由ではない)、けれど覚悟がある以上、殺した以上は自らは殺されなければならない、ということになるだろう。また、誰しもがそのことを自覚して、それゆえに自らを守らなければならなくなる、というのが個人的には結論に思えるし、それが実態でもあるだろう。個人的には、個人にとって重大な問題は、「なぜ人を殺してはいけないのか?」よりも、それを問うた本人に「殺したい人が���るのかどうか?いるのなら、リスクを背負ってまでするだけの覚悟があるのかどうか?」ということではないのかな?そうして、大体の人はそこまで考えられれば損得勘定から諦めるだろうし、そこまで考えても殺したいのなら、本当にどうしても殺さなければならないだけの何かがあるのだろう。
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恩師と飲んでいて子供に「なぜ人を殺してはいけないの?」と質問されたら、なんて答えると聞かれ、明確に答えられなかった。うーむ。なんて答えたらよいものかと手に取る。
私は明確に答え、もしくはヒントとなる言葉が欲しかったが、本書では長々といろいろ語られているものの、「哲学の領域でもあり、自分で追及、自分自身おこなう学問なのだ」と答えよとのこと。なんだそりゃ。
私の答えが見つからないという意味では残念だが、まあそうだな。簡単に答えが出るモノでもないし、自分が納得するまで考えるべき質問なのだとは思う。でも、もう少しこうヒントというか何かが欲しかったなぁ。
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永井先生は論理的に、小泉先生は信仰、宗教的な見方でご自身の意見を展開されていた。
私が好きなのは永井先生の論調だが、小泉先生のような考えも社会に必要なのはわかる。
正しいことと善は必ずしも一致しないんだなーってつくづく感じた。この2人で対談をするのは無理があったように思うが、対立する意見をぶつけ合う(対話)のが哲学だからこれはありなのかもしれないとふと思った。