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多文化時代の市民権 マイノリティの権利と自由主義 みんなのレビュー
- ウィル・キムリッカ (著), 角田 猛之 (ほか監訳)
- 税込価格:5,830円(53pt)
- 出版社:晃洋書房
- 発行年月:1998.12
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紙の本
「多文化時代」の重要文献
2006/04/06 07:02
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:半久 - この投稿者のレビュー一覧を見る
例えば囲碁は立派な文化だ。興味がある者は大いにやればいいし、興味のない者には強制されない。もしも、誰もが興味を示さなくなれば囲碁文化は消滅するのみである。これに限らず「滅びゆく文化」があるとすれば、それは不人気故なのであって、歴史から退場するのは当然の流れとなる。「反社会的」なものでなければ、個々人が多様な文化を維持・創出し、自由にアクセスでき、何時でも離脱できる権利さえ確保しておけばよい・・・。
大ざっぱだが、以上が個人の自律を最優先とし、どの文化も同列に置いて、その帰趨を自由市場に委ねようとする今日の「自由主義者」達の主流的見解であった(それは自由主義の伝統ではないと著者は言う)。彼らは「好意的無視」の名の下に、「滅びゆく文化」には冷たい。
政治哲学者のキムリッカ教授は、「自由主義者」でもあるが、それに立ち向かう。彼らは多くの点で誤っていて、混乱していると言うのである。
どの文化も、ひとしなみに扱うことは間違いなのだ。
まず、《ほとんどすべての自由・民主主義国家は多民族国家と多数エスニック国家のいずれかであるか、あるいはその両方の要素をあわせ持っている》ことを踏まえる必要がある。
その上で、以下のような事実を真摯に受け止めなければならない。
《現代社会は、自らのアイデンティティの承認と自らの文化的差異の包容とを求めるマイノリティ集団に直面することがますます多くなっている。これは「多文化主義」の挑戦としばしば言われている。しかし、「多文化」という言葉は、多様な形態の文化的多元性を含んでおり、その各々が独自の挑戦を行っている。》
著者は文化の多様性の中から、2つのパターンに焦点を当てる。それが「民族的マイノリティ」と「エスニック集団」である。固有の「社会構成的文化」を保有しているかどうかで、両者を分かつことができる。保有している方が「民族的マイノリティ」だ。
そして、両集団には特別な「集団別市民権」を認めることが必要だと説く。主なものとして「民族的マイノリティ」には「自治権」(権限の委譲)を、「エスニック集団」には「エスニック文化権」(特定のエスニック集団等と結びついた、一定の活動への財政援助や法的保護)を、両者に共通して「特別代表権」(国家の中央機関における議席の保証)である。
ここで多くの「自由主義者」達は、こう問うてくる。何でそんな「特権」を与えねばならないのかと。個人の「自由と平等」という、伝統的な人権原理に反するのではないかと。
それに対する著者の反論が、読みどころの一つだ。例えば《ある文化が生き残るかどうかを決定する最も重要な要因の1つ》が言語であるが、多民族国家の主流派は、自分達の言語が政府(公教育、裁判所、議会、福祉機関、公共医療サービス等)で使われるようにする決定権という特権を、握っているではないか。
《政府は公教育の言語を決定する時、社会構成的文化が必要とする支援のうちでおそらく最も重要な形式であるものを提供しているのである。というのは、政府は、その言語とそれに結びついた伝統や約束事を次世代に伝えることを保証することになるからである。》
これでは平等とは言えない。
ただし著者は、マイノリティ集団と自由主義社会が共存するためには、彼らの主張を、容易には線引きできないが、「対内的制約」(改宗の禁止など)と「対外的防除」に分け、承認に値するのは主に後者だとする。
西洋民主主義国の諸例が中心だが、論じられている事項は多い。だが、その理論は概念規定がしっかりしているため明晰であり、翻訳もこなれていて理解しやすい。
その理論をもってしても掬い取れない、振り分けの難しい事例もある。日本ではどの程度通用するのかという問題もある。
それでも「多文化時代」を考えるためには、必読の文献の一つだと思う。
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