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女子学院初代学長である矢嶋楫子の伝記です。
ほとんど校則がないという女子学院に興味を持ち、読み始めました。
40歳まで一主婦として夫の暴力に耐えるという辛い体験をしながらも、その後教師となり、女子学院の学長・日本キリスト教婦人僑風会の会頭として活躍しました。
89歳になっても渡米し(船で、ですよ!)、活動を行う楫子に心から感服します。
また、ミッションスクールの意義についても考えるきっかけとなった一冊です。
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この頃と今。
時代は随分と進んだんだなあと感じる。
今があるのは先人達が世の中を変えようとしてくれたおかげ。食べ物や洋服が最低限得られる事。教育。離婚の自由。信仰の自由。
百年後には、いやそう遠くない未来には同性婚も"当たり前"になっているかもしれないなあ。
けれどもこんなに変わっている事もあれば、DVやアル中とか、今もよく聞くような話も伺えて人間の弱さって変わらないんだなと思った。
矢嶋楫子さんの事は初めて知った。
前半は壮絶で心痛むけれど、素晴らしい人生だな。まるで一緒に生きているかのような錯覚に陥る文。
のめり込んで読みました。
こんな風に生を全うしたい。
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女子学院の初代院長であり、日本キリスト教婦人矯風会(一夫一妻制、禁酒禁煙などを推進)の初代会頭の矢嶋楫子の話である。矢嶋が気付かせてくれるのは、教育者とは単に子供がかわいいとか、子供が好きだというだけではダメで、人間とは何かを捉えることのできない教育者であってはならないという。教師や母親は、いわゆる優しければよい、というぐらいのことでは、人間を育てることはできないのだ。愛は意志である、という言葉がある。矢嶋楫子こそは、その意志的な愛を持った闊達な教育者であった。
矢嶋は、あなたがたには聖書がある、自分で自分を治めよ、と学校の生徒たちに言いきった。人間としての自覚を促されたのだ。矢嶋は規則のない学校を作った。生徒達を勝手気ままにさせておいて良いということではない。自分で自分を治めよと、生徒への人格尊重の思いがあれば、規則などを多く作り上げる必要はないのだ。
巻頭に楫子の写真がある。70歳代の写真だが、厳しそうにみえて、優しく受け入れてくれそうにみえる。自分を治めよ、と今にも言い出しそうだ。
楫子の祖父は、郷里が岩国で、洪水のたびに流される橋に心を痛め、錦帯橋を作り、楫子の姉つせ子は横井小楠と結婚したし、他の姉久子は徳富蘇峰の母であるなど、いずれも女性史上に名をなす人物といってよかった。横井小楠は、キリスト教布教の嫌疑で暗殺されたのだ。
罪ある者には人を罰する資格はない。また、罪を冒さずに生き得る人間もない。行いの違いはあれ、心の中は、情欲と放縦に満ちている。欺瞞と傲慢、怠惰と不従順に満ちている。人を裁き得るのは実に神のみなのだ。
私たち人間は、規則があるから人を殺さないのではなく、法律があるから泥棒をしないのではない。他に律せられれば罪を犯さないというのでは、人間として上等な生き方だとは言えない。たとえ法律になんと書かれていようが、もし人間としてしてはならぬことであればしてはならない。つまり善悪の判断は法律がするのではなく、私達の良心が判断するべきなのだ。神の愛に感じて、してはならないことはしない、また、すべきことは断固としてする。そのように楫子は教育したいと思い、校則を取り払ったのだ。一人で物事の判断ができない人間になってもらっては困るのだ。
楫子もそうだが、先に読んだ榎本保郎も、人を信じきった人だったと言える。保郎は人を信じるというか、神を信じることで、結果として人を信じたことになったし、楫子は校則を作らず、聖書の力を信じることで生徒を信じたといえよう。楫子は、試験の際、監視官を置かないことを提案した。人の目があるから悪いことはしない、そんな人間にすることを恐れていたのだ。だが、人間は弱いものだ。だから、神に生徒を信頼して祈ったのだ。それに対して生徒は自分たちが信頼されていることへの喜びと、その喜びの上に立った自覚によって、人を恐れるよりは神を恐れる聖書の精神を身につけることができた。
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これまでキリスト教の精神ってよくわからなかったけど、この本を読んで、救いを求める気持ちが想像できた。神以外を崇拝しない、自分の基準で他人を裁かない。自分の弱さを認めるところから全てが始まる。揖子の人生すごい。
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母校の初代院長、矢嶋楫子伝。
在学中は全く興味がなかったのだが、今回この本を読み、
もう少し興味を持っていたらもっと誇りをもって6年間を過ごせたのではないか?もっとのびのび個性を尊重できる人生になっていたのではないか?と思った。
もともとは、明治初期、新島八重子さんや津田梅子さんなどキリスト教に傾倒し、教育の場を作り出した方たちに興味を持ったのがきっかけで、この本を読もうと思った。
同じ時代に、それぞれ違った道のりで学校設立へと向かっている。
それぞれ伝記や記録はあれど、何だか遠い存在に感じられるところがあった。
あの時代、幼くして留学とか銃を持って戦うとか、想像をはるかに超えていたから。
矢嶋先生は、かなり人間臭い描かれ方だった。
今でいうDVに離婚に、不倫…。煙草もスパスパ。
しかし、時代を考えながら読むと今と比較にならないほど容易でない中での決断も多い。
その力はどこにあったのだろう?
その勇気はどこから来るのだろう?
それが神を信じるということなのだろうか?
色々考え、時に涙し読むことができた。
彼女の周りに何を言われようと…という姿が
とても好きになった
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まとまらないので備忘メモ。
・三浦綾子の語り口が良い。「われ弱ければ」このタイトルも良い。さぞかしご立派な方の説教くさい伝記なのであろうというこちらの警戒心をふるふると解く、それでいて気品のある、近寄り易さと神々しさとが同居する不思議な本だった。
・人を裁くことのできるのは神様だけ。「汝らのうち、罪なき者まず石を投げ打て」。
・『長煙管』の章が好きだ。ミセス・ツルーが揖子を新栄女学校の校長とすることを決めた時、揖子はクリスチャンではなかった。しかもスパスパ煙草を吸う。奮ってる。