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私は嫌なことがあって、友達に愚痴ってもなお、気が晴れないときに、ぐっとこらえてこの本を読みます。やり場のない怒りも、お釈迦様にかかればポジティブに受け取れる。
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《感想:「真理のことば」部分のみ》
結構説教くさいところがあり、読んでて退屈だったりもした。ただ現代の人生訓やら自己啓発書やらに書かれていることがさらっと書かれていたりして、なかなか含蓄はあった。
ざっくり言うとニルヴァーナ(安らぎ)に至ることを最終目的として、どうすればそれを達成できるかを説いている。
注釈が何というか学術的であり、原書(パーリ語?)を読むためのtipsが多く語られている。そればブッダの言葉の内容に興味があるであろう一般の人々にとってはあまり意味がないように思われる。アルボムッレ・スマナサーラ氏の本の方が良かったかもしれない。
正直、後半の「感興のことば」は読む気がしないので、積読に。
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やる夫シリーズのhttp://snudge.blog38.fc2.com/blog-entry-1005.htmlで紹介されていたので。仏教関係の本はあまり読んだことがない。道元の言葉とか、持っている本はあるのだが。ただ、論語・聖書と同じ書式なので読みやすそうかなあ。
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その「道の人」を対象とした教えのようなので、
一般社会、現代社会にそのまま適用することはできないが、とても身になる教えである。
ただ、社会のためよりは、己のため、悟りのためといった利己的なイメージを受ける。
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110924withTextブッダETV 央阿2001,央1984
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原始仏教の教えがまとまっている詩集。
本書はパーリ語とサンスクリット語の同じ経典を
セットにした内容らしいので、内容は被っているが、
後の時代に書かれたからか、感興のことばの方が
分かりやすくまとまっているように思う。
この世界は基本的に、
諸行無常で一切皆苦で諸法非我であり、
苦しみから逃れるには執着や欲望を
捨てて善を為す事を繰り返し説いている。
何でもかんでも救ってくださる
優しい仏様だと思って近づくと、
私のような欲望にまみれた凡夫にとっては、
ブッダの説くところはなかなか厳しい。
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はじめて理解できる形で触れた、ブッダの生の言葉。
「良い心構え・姿勢で行動すれば、良い結果が得られる」という極めて動機論的な教えで、すんなりと理解できました。子供の頃から受けてきた教育そのものです。
全ての事物への執着を捨てよ、という救済としての教えにはあまり同意できませんが、自分にとっては、努力の道・克己の道(儒教的ですが)を説いた教えとして訴えかけてきました。
きっと、読むたびに、新たな発見がある。自分を内省するよう求められる。「論語」と並んで、最高にして必要十分な自己啓発書だと思います。
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ブッダの仏教にの考えがわかりやすかったです。ブッダの考えが感情的ではなく、非常に論理的な部分に感銘を受けました。「真理のことば」は何回か読み返していきたいと思います。
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名言が多い。
仏教関係の本は宗教というくくりで見るより「心の法則が書かれている本」として見た方がいいように思う。
文章を追加中。
http://www.geocities.jp/toku2501/buddha.html
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漢訳では『法句経』、『出曜経』などと訳されている経典だそうである。基本的にはガウダマの短い言葉を集めたもので韻文らしい。成立時期は解説にも書いていないが、ガウダマ没後、経典化がされていたころのものだが、ガウダマの素朴な言葉が集められている。とはいえ、輪廻や執着からの解脱、縁起、八正道、空、出家、慈悲など仏教の基本的な観点はみられる。身体観も「病の巣」とか、形成された身体としており、後と同じである。しかし、「沈黙せる者も非難され、多く語る者も非難され、すこしく語る者も非難される。世に批判されない者はいない」「ただ誹られるだけの人、またはだた褒められるだけの人は、過去にもいなかったし、未来にもいないであろう、また現在にもいない」など、人間に対する素朴で深い認識もある。
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本著を手に取り、
精神の停滞期であるとの自覚。
物事と体験はその主体の心に疑惑と揺らぎを生じせしめ、
行動規範の転換を希求す。
それは次なる修養段階への道筋を照らす為の、
自己解体の必要と同義。
体験を客体として、昇華すること、
それを経て、心が次なる指針として要求するものは何なのかを
言語として知覚することを必要とす。
今の自分は手なづけられていない。未だもって。
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によって作り出される。もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、苦しみはその人につき従う
この世のものを不浄であると思いなして暮らし、(眼などの)感官をよく抑制し、食事の節度を知り、信念あり、勤め励む者は、悪魔にうちひしがれない
屋根をよく葺いてある家には雨の洩れ入ることが無いように、心をよく修養してあるならば、情欲の侵入することが無い。
すでに自己が自分のものではない
一つの岩の塊りが風に揺るがないように、賢者は非難と賞賛とに動じない
正しい智慧によって解脱して、やすらいに帰した人-そのような人の心は静かである。ことばも静かである。行ないも静かである。
他人に教えるとおりに、自分でも行なえ-。自分をよくととのえた人こそ、他人をととのえるであろう。自己は実に抑し難い。
たとい他人にとっていかに大事であろうとも、(自分ではない)他人の目的のために自分のつとめをすて去ってはならぬ。自分の目的を熟知して、自分のつとめに専念せよ。
道に違うたことになじみ、道に順ったことにいそしまず、目的を捨てて快いことだけを取る人は、みずからの道に沿って進む者を羨むに至るであろう
恥を知り、常に清きをもとめ、執着をはなれ、つつしみ深く、真理を見て清く暮らす者は、生活し難い。
眼について慎むのは善い。耳について慎むのは善い。鼻について慎むのは善い。舌について慎むのは善い。身について慎むのは善い。ことばについて慎むのは善い。心について慎むのは善い。あらゆることについて慎むのは善いことである。
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「「わたしには子がある。わたしには財がある」と思って愚かな者は悩む。
しかしすでに自己が自分のものではない。
ましてどうして子が自分のものであろうか。どうして財が自分のものであろうか。 」
強烈な「一転語」でした。
自分は自分のものではない。
本当に「自分のもの」と言えるものなどない。
かといって、自分を他人の思惑に流されるままにしておけばいいかというとそうでもない。
「自己こそ、心の主である。他人がどうして自分の主であろうか?
自己をよくととのえたならば、得難なき主を得る。」
「たとい、他人にとっていかに大事であろうとも、自分でない他人の目的のために自分のつとめを捨て去ってはならぬ。
自分の目的を熟知して、自分のつとめに専念せよ。」
と、「自分」をととのえ、欲を徹底的に叩きだすことを説いてもいます。
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【1回目】ざっと斜め読み。 読んでいる最中は、不思議と心が落ち着き、波風無く、淡々と時が流れる感じ。 身を慎むこと、言葉を慎むこと、心をおさめ、学び勤めること…、日々の学びと気づきの大切さを知る。
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◯他のお経と比べると、文章の一つ一つが単独で成り立っているため、文章の意味がこぼれ落ちてしまう。やはりストーリーや、ある種の流れ、論理性によって説得的になるのも、こういった経典においても同様なのだと実感した。(単純に自分の集中力の不足もあると思うが…)
◯感興のことば後段に出てくる、対比と類似の文章の流れは、是非原文の音読によって音として体感することも必要だと感じた。ただ、文字だけでは伝わらない部分があるとしても、文字の並びは壮観であった。
◯この辺は般若心経でも重要視されている音自体に意味があることにつながってくるのかと思うと、また面白い。
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「100分de名著 ブッダ真理のことば」佐々木閑さんの放送を見て購入。
古典の教科書のようで、読みにくいので、理解には程遠い状態だが、仏教界の「聖書」的な存在なので、一度購入したら、捨てられない本。
最初の
「ものごとは心にもともとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、苦しみはその人につき従う。車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように」
を 時々読むたびに
「そうだよなー」と深くうなずいてしまう。
一家に一冊の本では?
ブッダの権化のような「中村元」さんの翻訳というところも「聖書」的。
「ブッダのことば: スッタニパータ 」も読みましたが、佐々木閑さんは、初めての人には、「真理のことば」のほうがオススメということでした。