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白鯨 モービィ・ディック 下 みんなのレビュー
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高い評価の役に立ったレビュー
5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
2009/08/20 21:02
その狂気がアメリカを駆動し、書き換える。
投稿者:kc1027 - この投稿者のレビュー一覧を見る
白鯨への復讐に燃えるエイハブの全身狂気と、白鯨にまつわる全てを
語りつくすかのようなイシュメイルの博覧強記が織り成す奇跡の書物、
その狂喜の翻訳。
本書は1851年の発表以来、アメリカでは忘れ去られていたらしい。
1920年代になって『白鯨』を再発見し、再評価したのはイギリスだった
ようで、それまで悠久の歴史に根ざした偉大なる小説を持たなかった
アメリカは、その頃を期に、世界の覇権国家になっていった。
アメリカを生み出したのが独立宣言で、アメリカを形作ったのが
合衆国憲法だとしたら、アメリカを駆り立ててきたのは『白鯨』的
世界観なのではないだろうか。白鯨を追い求めるエイハブは、神も
自然も乗り越えん程の邪気を発し、その邪気はさわやかな顔をしながら
スペースシャトルの乗員にも受け継がれているのだろうし、全てを書き
尽くすかのような語り手イシュメイルの知性は、そのまんまグーグルに
まで直結している。やがて訪れるカタストロフまで、アメリカの白鯨的
疾駆は続くのだろうし、図らずも本書はあのオバマ大統領の愛読書でも
あるようなのだ。オバマにとってのモービィ・ディックは今の不況では
なく、グリーンニューディールという美名の裏の、地球環境を手なずけた
先の新たな覇権であることが、すぐにはっきり判明するのだろう。
我々はその狂気の船にすでに乗っているのだ。
時を越えて破壊的隠喩をいくつもいくつも量産するだけのグルーヴ感を
今なお維持するこの小説には、アメリカというものがこれからまた
新たに発見されることさえ感じさせる力が内蔵されていて、発見の度に、
この小説はアメリカのイコンとしての地位を更に更に高めていくのだろう。
超ロングセラーのグレートアメリカンノベルは、同時代の『嵐が丘』や
『悪の華』や『カラマーゾフ』や『資本論』とも共振しながら、過去から
未来を狂気で貫き続けるに違いない。
低い評価の役に立ったレビュー
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
2000/11/28 17:20
『白鯨』新訳がすごい!
投稿者:柴田元幸 - この投稿者のレビュー一覧を見る
千石英世による新訳『白鯨 モービィ・ディック』(講談社文芸文庫)をパラパラ見ただけで、おおっこりゃすごいと思った。
『白鯨』は、エイハブ船長が白い鯨を追いかける熱く烈しい物語を縦糸とすれば、鯨大全ともいうべき、平水夫イシュメールの雑多で香具師じみた語りが横糸である。両者がすっきり交互に、ではなく、ぐじゃぐじゃ不可分にもつれあって、できているのがこの大作。で、やったことはないから確かなことはわからないが、エイハブ船長の壮大な憤怒はある程度翻訳で再現できても、イシュメールのバナナの叩き売り的調子良さを再現するのは難しいんじゃないかと思う。事実、これまで多くの読者が、三十二章「鯨学」のような壮大なホラ話で開陳される情報を一つひとつ真面目に吸収しようとして、あえなく「難破」(訳者千石氏自身が、『群像』六月号の奥泉光氏との対談で使っている言葉)してきたのである。
だが千石訳は、そのノリのよさによって、情報の雑多さ、過剰さこそがポイントであることをよく伝えている。章のフィニッシュも決まっている——
「小さく立つものは、最初に手をつけた工匠によって最終局面まで見届けられもしよう。しかし大いなるものは、そして真なるものは、最後の仕上げの笠石(かさいし 本文はルビ)を後世に託するもの。それが常。ならば、神よ、おれが何かを完成するなどということがないように御守りください。この小説といえども同じ、これはただの下書き、いや、下書きの下書きにすぎぬ。おお、時よ、力よ、金よ! おれは耐えてみせよう」。
鯨の潮が水なのか蒸気なのか、という問題については——
「おれの仮説は、鯨の潮は蒸気にほかならぬというものである。おれがこう結論づけざるをえないと思う理由は色々だが、なかでも、抹香鯨にのみただよう凛々しさ、雄々しさによるところ大であるとはいっておこう。かれは低俗かつ浅薄な人物ではないとおれはみている。事実、かれは、浅瀬や浜沿いに姿を現すことは決してない。他の鯨はそれをしがちだ。かれは重厚にして深遠である。そして重厚にして深遠なる人物は、たとえば、プラトンやピロン、あるいは悪魔やジュピターやダンテらがそうであるように、かれらが深く思考をめぐらしているさなかにあっては、頭部からある種、見せ消ち(本文では「見せ消ち」に傍点)の蒸気がただよっているものなのだ。いつだったかおれ自身が永遠をめぐって小さな論文を草していたときのことだった。おれは、ふと好奇心に駆られて、眼前に鏡を置いてみたのだ。鏡のなかを見ると、おれの頭上の大気中に何やらゆらめき上がるような、ただよい上がるようなものが見えるではないか。おれの頭髪から絶えず蒸気が立ち上がっているではないか……」。
あまり引用ばかりだと原稿料泥棒になるのでこれくらいにするが、ところどころ原文と較べてみると、さりげない工夫や微妙な言い換え・書き足しがあって絶妙(これについては『新潮』八月号でも書いたので、ご覧いただければ幸いである)。間違いなく、今年の翻訳界最大の収穫だろう。
(「bk1文芸サイト」 連載書評第一回「『白鯨』新訳がすごい!」より/公開2000.7.10)
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紙の本
その狂気がアメリカを駆動し、書き換える。
2009/08/20 21:02
5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:kc1027 - この投稿者のレビュー一覧を見る
白鯨への復讐に燃えるエイハブの全身狂気と、白鯨にまつわる全てを
語りつくすかのようなイシュメイルの博覧強記が織り成す奇跡の書物、
その狂喜の翻訳。
本書は1851年の発表以来、アメリカでは忘れ去られていたらしい。
1920年代になって『白鯨』を再発見し、再評価したのはイギリスだった
ようで、それまで悠久の歴史に根ざした偉大なる小説を持たなかった
アメリカは、その頃を期に、世界の覇権国家になっていった。
アメリカを生み出したのが独立宣言で、アメリカを形作ったのが
合衆国憲法だとしたら、アメリカを駆り立ててきたのは『白鯨』的
世界観なのではないだろうか。白鯨を追い求めるエイハブは、神も
自然も乗り越えん程の邪気を発し、その邪気はさわやかな顔をしながら
スペースシャトルの乗員にも受け継がれているのだろうし、全てを書き
尽くすかのような語り手イシュメイルの知性は、そのまんまグーグルに
まで直結している。やがて訪れるカタストロフまで、アメリカの白鯨的
疾駆は続くのだろうし、図らずも本書はあのオバマ大統領の愛読書でも
あるようなのだ。オバマにとってのモービィ・ディックは今の不況では
なく、グリーンニューディールという美名の裏の、地球環境を手なずけた
先の新たな覇権であることが、すぐにはっきり判明するのだろう。
我々はその狂気の船にすでに乗っているのだ。
時を越えて破壊的隠喩をいくつもいくつも量産するだけのグルーヴ感を
今なお維持するこの小説には、アメリカというものがこれからまた
新たに発見されることさえ感じさせる力が内蔵されていて、発見の度に、
この小説はアメリカのイコンとしての地位を更に更に高めていくのだろう。
超ロングセラーのグレートアメリカンノベルは、同時代の『嵐が丘』や
『悪の華』や『カラマーゾフ』や『資本論』とも共振しながら、過去から
未来を狂気で貫き続けるに違いない。
紙の本
一説によればこの作品は悪の意味を問いかける象徴的な傑作とされている。日本では古来「悪」に特別な意味合いを持たせてきた。「日本的悪」を念頭において、近代文明の行き詰った危機的状況をこの作品がどう語っているか読み取っていこう。
2012/04/05 00:30
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:よっちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
とにかく鯨に関する種類、生態、分布などの分析的・分類的記載。博物誌的な話題ばかりではない。解剖学的、考古学的考証に神話伝承を加えた、まさに鯨に関する百科事典そのものといえるような叙述に眠くもなった。ただし、それらの語りは常に鯨とは自然生命界の王者であることを謳い上げる観念論で締めくくられている。その思念はさらに飛翔し、抹香鯨(マッコウクジラ)を王の中の王に位置させる。そして宇宙の始原に遡り、抹香鯨の中の「白鯨 モーヴィ・ディック」こそ時空を超越してこの世にあまねく存在する遍在者、いや宇宙そのものであるとされる。
頭部から縦に身体にいたるまで、鞭で打たれたような痕跡が残る。そして白鯨に食いとられた片足に鯨骨の義足をつけた男、エイハブ船長とはなにものか?
若き日の彼の全存在を打ち砕いた白鯨への復讐。彼は白鯨を悪魔とみなし、狂人のごとくこの戦いに固執する。そしてそうすることが運命とされた悲劇の男であることには間違いはないのだが………。
「エイハブは獰猛な白鯨と戦う神なのか?それとも神である白鯨を殺戮しようとする悪魔なのか?」
歴史的にこの議論がつきまとう運命にある作品のようだ。読了したとはいえ、ぼくにこのハイレベルな議論に関われる資格はないのだが、あえて印象的に、結論めいていえば、「白鯨的悪」に向かった「エイハブ的悪」の激突、つまり「悪」という膨大なエネルギー同士の正面衝突ではなかろうかと。
エイハブについて、千石英世氏の「解説」では「旧約聖書『列王記』に悪玉とされるアハブの英語読みである」としか説明されていない。
ところで、旧約聖書による、イスラエルの王。暴君だったアハブは異国・フェニキアの邪神・バール崇拝をイスラエルの民に押しつけた。このためにユダヤ民族の唯一神・ヤハウェの怒りにふれ、呪われた死を遂げる。
となればアハブであるエイハブは神に対する激しい怒りと憎しみをもっている男であり、神=白鯨に復讐しようと執念を燃やし、最後は預言のような悲惨な死を迎えた人物と解釈されてもおかしくはない。
が、そう単純ではない。
平凡社世界大百科事典によるアハブ。
「古代イスラエルの王。在位、前871―前852年。オムリ王朝の創始者であった父オムリの政策を継承し、首都サマリアの文化的充実とフェニキアとの婚姻、通商関係などを通してカナン文化を積極的に取り込んだので、ヤハウェ主義者の激しい批判を受けた。国力の増強の結果、アッシリアのシャルマナサル3世と対決したカルカルでの合戦(前853)では、アッシリア側の記録によれば、シリア・パレスティナ諸国家連合軍の兵力の半分をアハブが負担した。」
つまりアハブは、当時このシリア・パレスティナで最大の軍事力を誇った王であり、他国との交易、文化交流を進めた偉大な王でもあったのだ。
この史実をメルヴィルが消化していないはずはない。
ピークオッド号の乗組員は総勢30人。強烈な個性の集団である。
多様な人種、民族、宗教、文化。一般市民から野蛮人にいたる階層。捕鯨のための高度な戦闘力と設備を備えた集団。そして圧倒的な統率力をもつエイハブ船長。
かくして、これは全人類を統合する国家を象徴し、エイハブは文明人としての偉大な王である。
「かれらは一人だった。30人ではなかった。すべてを束ねて一となった船。相反するすべてを束ねてなった一であった。こちらの男の勇猛も、あちらの男の怯懦も、罪に戦くものも、罪を嗤うものも、すべての個々の差を溶接して一と化している。そうしてエイハブというかれらの指揮者であり竜骨である一なるものが目指す目標へ、あの運命へとひたぶるに突き進むのだ」
エイハブはこれほどまでに全人類を一つに束ねることのできる王者であるのだ。叡智の結晶であり、復讐のために一をもとめた狂王でもある。オーラを全身から発し、圧倒するその力は他者を心服させてやまない。霊的存在ともいえる。
しかし、エイハブもまたこの世の成り立ちからは完全に見捨てられたもの、イシュメールと同質の存在でもある。「叡智がそのまま悲しみであるということがある。悲しみがそのまま狂気であるということがある」。本来あるべき自分を見つめるということは、おのれの深いところにある心の闇を見つめることになる。夜ごと身もだえする苦痛はそこにある。おそらく社会人として素朴に生きていたエイハブであった。それが悲劇にみまわれた。原因は白鯨であったかもしれない。いやより根源的な宇宙の法則であったのだろう。だが彼はくじけなかった。ニヒリスト=超克者として彼は苦痛のままにその根源に報復せんと攻撃を開始するのである。そのパワーこそが「悪」である………とぼくには思われるのだ。
善に対する悪という、倫理基準ではなく、ぼくは「悪」を日本史で武士階級が台頭するころに生まれ、今もその意味が残っている悪と捉えている。それは善悪を超越して人に畏敬の念を抱かせるほどの荒々しく強い意志である。物理的な圧倒的力のシンボルである。人を魅了する超人的な能力の持ち主でもある。「悪」という字の「亜」とは漢語では古代の住居の土台を上から見た形で、押さえつけられたいやな感じをあらわすとされ、胸がつかえたときの不快感をもさすといわれる。制度的価値観や倫理に押しつぶされ、にもかかわらずひたぶるにこれに抗おうとする強大な力と解すればまさにエイハブその人ではないだろうか。なるほどかれはデモーニッシュな力であり魅力的な男なのだ。
ぼくは白鯨とエイハブの私闘を、自然と自然の脅威に立ち向かう人間の相克として捉えているのかもしれない。
「人を苛み、人を狂気へ陥れるもの。人生の澱を掻き立てるもの。妬みを注入された真実。神経の髄を斫断し。脳漿を凝固させるもの。生のすごし方を微妙に腐らせていく魔性のもの。」
エイハブの形而上では、それは「世界のはじめより存在し、姿かたちの捉ええぬ悪として存在をつづけてきた」と表現される宇宙の神秘である。ただ、この一文は、あの人智を超えた大津波のもたらした現在の混乱、その深層をズバリ冷酷に表現している。宇宙の神秘という抽象よりも、これこそがまさに人間の対峙する自然というものなのだ。自然の摂理。恵みをもたらす自然が一転して殺戮者となる、自然という悪の力だと思えてならないのだ。
白鯨とは
エイハブという主観にとっては「白鯨が眼前を泳ぎゆく悪の結晶になったのである」。
「狂気のエイハブの前にありうべき悪のすべてが目に見える形で出現したのだ。だから挑みかかり、つかみかかって行くことのできる体躯を具えたものとなったのである。」
白鯨は下巻652ページの584ページで姿をあらわす。
わずか68ページで濃密に語られる。「禍々しくも神々しい」、自然もそうであるが人間もそうである。「悪」同士の妖しく美しく荘厳にして華麗な戦いを堪能しよう。
悲劇ではあったが、ともかくエイハブは挑みかかりつかみかかったのだ。
いま、だれか、エイハブになれるのか?いや誰もがそうでなければならないのか?
しかし挑みかかり、つかみかかって行くことのできる体躯を具えたもの、白鯨がみえない。
紙の本
『白鯨』新訳がすごい!
2000/11/28 17:20
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:柴田元幸 - この投稿者のレビュー一覧を見る
千石英世による新訳『白鯨 モービィ・ディック』(講談社文芸文庫)をパラパラ見ただけで、おおっこりゃすごいと思った。
『白鯨』は、エイハブ船長が白い鯨を追いかける熱く烈しい物語を縦糸とすれば、鯨大全ともいうべき、平水夫イシュメールの雑多で香具師じみた語りが横糸である。両者がすっきり交互に、ではなく、ぐじゃぐじゃ不可分にもつれあって、できているのがこの大作。で、やったことはないから確かなことはわからないが、エイハブ船長の壮大な憤怒はある程度翻訳で再現できても、イシュメールのバナナの叩き売り的調子良さを再現するのは難しいんじゃないかと思う。事実、これまで多くの読者が、三十二章「鯨学」のような壮大なホラ話で開陳される情報を一つひとつ真面目に吸収しようとして、あえなく「難破」(訳者千石氏自身が、『群像』六月号の奥泉光氏との対談で使っている言葉)してきたのである。
だが千石訳は、そのノリのよさによって、情報の雑多さ、過剰さこそがポイントであることをよく伝えている。章のフィニッシュも決まっている——
「小さく立つものは、最初に手をつけた工匠によって最終局面まで見届けられもしよう。しかし大いなるものは、そして真なるものは、最後の仕上げの笠石(かさいし 本文はルビ)を後世に託するもの。それが常。ならば、神よ、おれが何かを完成するなどということがないように御守りください。この小説といえども同じ、これはただの下書き、いや、下書きの下書きにすぎぬ。おお、時よ、力よ、金よ! おれは耐えてみせよう」。
鯨の潮が水なのか蒸気なのか、という問題については——
「おれの仮説は、鯨の潮は蒸気にほかならぬというものである。おれがこう結論づけざるをえないと思う理由は色々だが、なかでも、抹香鯨にのみただよう凛々しさ、雄々しさによるところ大であるとはいっておこう。かれは低俗かつ浅薄な人物ではないとおれはみている。事実、かれは、浅瀬や浜沿いに姿を現すことは決してない。他の鯨はそれをしがちだ。かれは重厚にして深遠である。そして重厚にして深遠なる人物は、たとえば、プラトンやピロン、あるいは悪魔やジュピターやダンテらがそうであるように、かれらが深く思考をめぐらしているさなかにあっては、頭部からある種、見せ消ち(本文では「見せ消ち」に傍点)の蒸気がただよっているものなのだ。いつだったかおれ自身が永遠をめぐって小さな論文を草していたときのことだった。おれは、ふと好奇心に駆られて、眼前に鏡を置いてみたのだ。鏡のなかを見ると、おれの頭上の大気中に何やらゆらめき上がるような、ただよい上がるようなものが見えるではないか。おれの頭髪から絶えず蒸気が立ち上がっているではないか……」。
あまり引用ばかりだと原稿料泥棒になるのでこれくらいにするが、ところどころ原文と較べてみると、さりげない工夫や微妙な言い換え・書き足しがあって絶妙(これについては『新潮』八月号でも書いたので、ご覧いただければ幸いである)。間違いなく、今年の翻訳界最大の収穫だろう。
(「bk1文芸サイト」 連載書評第一回「『白鯨』新訳がすごい!」より/公開2000.7.10)
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