投稿元:
レビューを見る
対談であるにも関わらず、難解で難読であった。人間を観念論のバークリー的に論じているあたりチンプンカンプンだ。巻末の解説で論理を理解しようとするも失敗。いずれ読み直す。
投稿元:
レビューを見る
必要なのは闇ではなく光。認識でなく力。支配でなく征服。敵対ではなく孤立。歩行ではなく舞踏。労働ではなく遊戯。結局血の出る行為主体による空間存在。一つの完全な行為からは無数の思想が生まれる。
投稿元:
レビューを見る
絶対に読め、というレベル。
三島由紀夫が抱えるのは空間なき(しかし天皇はある)時間。全共闘が目指すのは時間なき空間。
どちらも同じものを目指しているように見えるが、三島は時間を背負ってるがゆえに天皇を掲げ、全共闘はト・アペイロンを無意識のうちに押し出している。
だからずれる。
しかし、前半の討論と、後半の文章の落差が激しい。特に全共闘側は一部に中二病が現れている……。
投稿元:
レビューを見る
三島由紀夫がどのような人なのかを知りたかったから読んでみた。
内容は
現代の自分からしてみれば
ばかげた小難しい内容。
東大の人ってやっぱ頭ええねんなぁ、とも思ったし
東大でもこんな論理の道筋たてられへん人おんねや、とも思った。
投稿元:
レビューを見る
面白い本だった。
三島と東大全共闘の対談を文章化したもの。
会場が900番教室ということで、「あああの教室か…」とリアルに感じた。
リアルと言えば、日々学校に通って法文棟に行くたびに、目の前には安田講堂。私は安田講堂を見ると、すなわちほぼ毎日、授業で見た東大闘争のビデオのことを思い出す。若くして学生運動に命をささげた人々の話。
今度、授業のレポートでテーマとしてなんとなく「学生運動」を取り扱うことに決めたのには、こんな環境のせいでもあるのかもしれない。
ところでこの本を手に取ったのは、いわずもがな「美」という言葉にひかれたからなのであるが、芸術についても討論されている。
全共闘は政治的な問題だけでなく、かなり思想的な問題について議論している。もちろん政治「思想」を持った集団なのだから、当たり前なのだろうけど、思ったよりずっと哲学的。なかなかおもしろかった。
投稿元:
レビューを見る
もうあれですね、上の人たちの話合いです。映像で残っている分が好きですが、自身の存在証明において、なぜ日本人だと思えるのかの説明は天晴れ。象徴だからこそ、天皇の在り方への考えも角度を変え、できればみんなで協力して、強く元気な日本国を創っていただきたかった。
投稿元:
レビューを見る
当時二十代の学生たちがこれだけ観念的な議論をしていたのは素直に凄いと思った。
そしてその一見荒唐無稽とも思える話を真正面から受け止め、自分の思想的立場を堂々と主張する三島由紀夫の凄まじさ。
討論後に両者が寄せた文章でも明らかに三島の方が説得力がある。三島文学が論理的と言われる理由がよく分かる。全共闘側の文章は今でいう「邪気眼」のようだ。
投稿元:
レビューを見る
全共闘側の発言の意味がほぼ取れなかった。三島由紀夫さんの発言が相当にやさしく感じた。これほど意味が取れない文章の羅列に出会うのは久しぶりだ。自分の理解力が足りていないのも理由の一つなので、勉強してからまた読む。
投稿元:
レビューを見る
三島由紀夫vs東大全共闘との歴史的な討論。
歴史的とは「歴史的価値を持つ」という意味だが、ネガティブに捉えれば「歴史的価値しか持たない」ということでもある。
三島由紀夫の言説はさすがと言うより他にない。日本人が自らの政治思想を組み立て上げる際に避けて通れないのは天皇の問題であり、そこへ向かってどのようにアプローチしていけばよいのか、そこを諄々と説いている。これはまさにポジティブな意味で歴史的価値を持つ。
だが、全共闘側の理屈は……これは何だ?
借り物の言葉を縦横無尽に使っているだけで、響いてくるものがなにもない。要するに、当時の知的ファッションを着込んで仲間内にだけ通じる言葉で語っているだけ。詰る所、彼らの言説そのものが共同幻想の枠組みから一歩も出ていない。
ネガティブな意味で歴史的価値しか持たぬ議事録であって、これをありがたがるのは「あの頃は青年たちは……」云々の懐古趣味でしかない。
この感想は、巻末に置かれた全共闘の振り返りを読んで更に強いものとなる。
今の表現を用いるならば、「中二病」。
つくづく学生運動は何も生み出さなかったのだ。
投稿元:
レビューを見る
文庫で読み直す。こんな小難しい論議だったっけ?
単行本で読んだものと、違った印象を受ける。
文字ばかりになると雰囲気が伝わらず、言葉のボクシングになってしまう。
投稿元:
レビューを見る
討論の内容、特に全共闘の学生が放つ言葉の数々は観念的で理解に至ることなく最後まで読み終えてしまった。しかしその熱量は凄い。各々の思想を美として追い求めた結果に待ち受けるのは、悲劇や諦念だったとしても。
投稿元:
レビューを見る
もう、ずーっと昔、音声でこのやり取りを聞いたことがある。今回改めて、文字として読んでみた。
うーん。
くだらない。
全共闘も三島も。
読んでて恥ずかしく悲しくなる。
投稿元:
レビューを見る
『つまり、これは』
まあ、下らないと切り捨てられる人は、とても正常で健全な魂の持ち主であるだろう。この、討論にシンパシーのようなものを抱いてしまった僕は、東大教授によるとどうやら気違いらしい。ふむ。この本の価値は冒頭16ページで見極められる。ただ全共闘の人となりが低俗過ぎて萎えてしまった。
人と話す時、情熱に託けて冷静でいられない人は頭が良くても、心の使い方を理解してない馬鹿だと僕は思う。買って後悔はしていません。
投稿元:
レビューを見る
5月9日にケーブルTVで『三島由紀夫vs東大全共闘』がオンエアされた。鑑賞。かくも難しいことをさっさと構文し、とっとと発語する学生がいるのか……。三島の言わんとすることはどうにか解る。生活者としての背骨があるから(生活感は無いけれど)。学生らの言うことになると皆目わからない。
以前、あまりの難解さに投げ出した本書をひもとく。やはり解らない。
映画と本書はあい補うものだろう。赤子を抱いて三島を論駁する芥正彦(全共闘C)の様子など、テキストでは伝わらない。またこの子が、紫煙たちこめる騒がしい中、泣きもしないで場を和ませてくれる。
投稿元:
レビューを見る
学生運動たけなわの1969年、東大教養学部の講堂で、三島由紀夫と東大全共闘が討論会を行った。
その議事録と三島・東大全共闘双方からの補足説明文を収録。
まず、読んでも読んでもなにを言っているのかわからない。
”彼は決して政治的にアンガージュマンしているのではない。滑稽なのは三島の政治的エピゴーネンであり、三島が政治的エピゴーネンの群れを引き連れようともくろむ時彼はデマゴコスの地位を獲得する。”
わからないのは、私の知識不足のせいかもしれない。
でも、基本的に言葉というのは、相手に伝わって(周囲に伝わって)なんぼのものじゃないの?
難しい事柄を分かりやすい言葉で語ることでこそ、相互理解が進むのではないの?
どうしても、難しい言葉をこねくりまわしているだけの、言葉遊びをしているだけのように思えたのだけど、自分たちでもそう理解していたようです。
”知識人とは永遠に肉体を持たぬ言葉のさすらいびとなのだ。”
なるほどね。
で、体制に反発して学生運動をやっていたのだとしたら、卒業後はすっかり体制側の人間になってモーレツ社員になったことなどは、どういう理由付けをしているのかと思えば
”大学とは具体的な教授や講義ではなく、地位へのパスポートにあるいは生産関係の中に私達が呑み込まれていくための形式に過ぎないのだ。”
やっぱ、学校という名前の人生の夏休みに、好き勝手なことをしていただけじゃないのかな。
ブルジョアを目の敵にしていたようだけど、何一つ生産することなく、好き勝手なことをほざいて、暴力で物事を解決しようとして、それをする権利が自分にはあるのだと思い込むのは、ブルジョアと何が変わらないのだろう。
しかし、では、生産しない者を悪として、額に汗して働く労働者を絶対の善とするのなら、それは毛沢東の行った文化大革命と変わらないのではないかと、私自身の思考にも混乱が生じてくる。
”今日私達が暴力学生と呼ばれるのは暴力に陶酔するとか人間性の復活とかではなく、暴力によってしか自己が完結しない冷厳な時代の事実があるからだ。”
何が嫌いって、東大全共闘の人たちに他者に対する敬意が感じられないところ。
目の前に三島由紀夫本人がいるのに「三島は…」と呼び捨てにするところや、自分と意見の違う人に対する徹底的な排除。
なのに徒党を組みたがるところ。
自分の目的を達するためならば手段を問わないところ。特に暴力に訴えたがるところ。
維新の時の長州勢を彷彿とさせて、大嫌い。
”二・二六の青年将校達―磯部大尉の楽天主義と呪詛は、共同体が地上的権力として現象する構造を見ずして観念に懸想した者の悲しき運命(さだめ)である。”
これについてのみ、同感。
磯部元大尉だけどね。蜂起した時は軍属じゃなかったから。
今まで三島由紀夫の言動って、ちょっと極端じゃないの?って思っていたけれど、これを読む限りでは常識人だったね。
極論をお持ちとは言え。
逆に東大の方々は、頭でっかちのお子ちゃまと感じました。
三島由紀夫は正体を現して発言しているのに対して、東大全共闘は匿名で暴言吐き放題というのも下品だなあと思います。