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紙の本
「ゲルマン風のユーモア」と「ディテールにあくまでこだわる偏執的な目」
2000/09/20 21:15
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投稿者:服部滋 - この投稿者のレビュー一覧を見る
大西巨人先生の新著を書評するに際し、大西先生の旧著への書評の引用から始めるというのは芸のない話にちがいあるまい。いったいに、ある本を評するにあたって、他者の手になる書評を自説補強・他者依存的に引用するのは、他人の褌で相撲を取るという俚諺に等しい軟弱な精神の発露でなければならない。
——といった下手な文体模写はこのへんでやめるけれど、でもやっぱり、ある書評から話を始めてみたい。
件の書評とは、大西先生の第一批評集『戦争と性と革命』(三省堂・1969年刊)へのもので、筆者は五木寛之先生。「図書新聞」1970年1月17日号に掲載。のちに五木先生の著書『五木寛之の本』(KKベストセラーズ・70年刊)に収録せられ、五木寛之作品集第24巻(文藝春秋・74年刊)に再録せられた。
五木先生は、大西先生の文章の特長を「ゲルマン風のユーモア」——「フランス風のウィットでもなければ、アングロサクソン風のユーモアでもない」——「いかめしいユーモア」であるとし、以下のように書いている。
「たとえば、<経産婦か否かの触覚による確認は常に可能か>といった文章を読んで、そこに展開される、性交直後の女性が人間的反省を全く失うという安易な描写に対する仮借のない批判を目の前にするとき、おそらくは、批判されている当の作家でさえも思わず苦笑せずにはいられないだろうという気がするのだ。」
「大西巨人の姿勢は、たとえば夫婦間の配偶者臨時交換ペッティングについて考察するときも、同性愛または一穴主義について言及するときも、またハンセン氏病問題に関する報告にも、全く同じように生真面目であり、ディテールにあくまでこだわる偏執的な目を持続しつづけている。」
五木先生のこの指摘に、ぼくは全面的に同感するし、その後30年「大西巨人の姿勢」は一貫して変わることがない。ぼくが30年に亙って大西先生の作物を愛読しているのも、この「ゲルマン風のユーモア」と「ディテールにあくまでこだわる偏執的な目」ゆえである。(私事を記せば、30年に及ぶオッカケは五木先生のこの書評が契機だった。だから敢えて引用した次第。ぼくもいつかそんな書評を書いてみたいと思う。)
さて、与えられたスペースは粗方使い果たしてしまったので急いで本書の紹介を——。
最新短篇小説集である本書には、1980年から2000年に至る20年余の作品が収録せられている。著者の分身である大津太郎もの7篇は『巨人の未来風考察』(朝日新聞社・87年刊)所収のものの再録(一部改稿)。「ある生年奇聞」は長篇小説『三位一体の神話』(光文社・92年刊)に「年齢奇譚」として(固有名詞を変更して)組み込まれたもの。「現代百鬼夜行の図」は加藤典洋先生の『敗戦後論』(講談社・97年刊)批判として(加藤先生からの「反論」もあって)文芸ジャーナリズムで些かの(?)話題になったもの。
そして「血気」は、80歳の「僕」が16、7の少女に「おじさん」と呼ばれ「おじさん—オジン—年寄り」と連想し、ショックを受けるという400字程度の掌篇。これが「老いてますますさかん」では、小説家真田修冊の作物としてまるまる引用せられている。このあたりのフィクションの構造について書いてみたかったが、スペースが尽きた。
蛇足ながら、本文章で「先生」の敬称を用いたのは、大西先生の「批評家諸先生の隠微な劣等感」(『戦争と性と革命』/『大西巨人文選2 途上』みすず書房・96年刊)に倣ったもので、他意はない。一度やってみたかったんです。
最後に、大西先生の一層の健筆を庶幾する。(bk1ブックナビゲーター:服部滋/編集者 2000.09.21)
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