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めも)
・哲学者から
スピノザ、ベルクソン、ニーチェ、プルースト
(差異 運動 力 シーニュ)
永劫回帰
・『差異と反復』
概念の差異ではなく、差異そのものの概念
反復はちがうものの反復
・『アンチ・オイディプス』『千のプラトー』
分裂症 包含的離接
資本主義
「器官なき身体」:アルトー→ドゥルーズ/ガタリ
プラトー (性行為) *頂点
・『フーコー』
ギリシャ人の主体化 外(=力)
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非実在論的プラグマティズムで哲学を民主化する。潜在性の哲学。差異と反復。強度。器官なき身体。欲望の肯定(欠如ではなく)。生産、登録、消費。リゾーム。遊牧性(ノマディズム)。
哲学の民主化とは、哲学の非民衆的要素、つまり人間的現実を固定された実体に閉じ込め、また生の現実的過程から切り離すような傾向に対抗することにほかならない。そのような非民衆的思考を解体するような公共性と伝達可能性に向けて思考を広げ、鍛えていくことにほかならない。
スピノザ、ニーチェ、ベルクソン、カント、ヒューム、プルースト。
思想は理解より使用が大事。再現、模写、正確さは避けるべきこと。
過去は過ぎ去った知覚ではない。現在と過去は同時的で、相互浸透している。
ロックの性悪説。情念を導く肯定的エチカ。
「民衆」は「庶民」とも「大衆」とも異なる。たえず潜在性として持続する。たえず自己の同一性の外にでていこうとする。
触発と情動。道徳と倫理は相入れない。道徳の本質は禁止、否定、処罰、罪責、脅しである。スピノザの倫理は反道徳的で肯定的。
現在は、持続する時間の先端であると同時に、無数の過去の反復である。
同一性による配分とは異なるノマド的な配分。境界のない空間に、囲われることなく配分される。フランス語「ノマド」の語源はギリシャ語「ノモス」。
厳密に同一の反復はない。世界は一つであり、かつ無限の差異である。
第一の反復:習慣(現在)
第二の反復:記憶、エロス(過去)
第三の反復 :差異の反復、ひび割れた自我、ナルシス的自我(→偉大な健忘症)、タナトス、「純粋で空虚な形式」としての時間(未来)
「純粋で空虚な形式」が思考を決定している。
理念→差異の理念的総合、個体以前の差異
強度→感覚されうるものの非対称的総合、質・量以前の即自的差異
出来事の二つの次元
・理念、潜在性、問題
・実在、現動性、解凍
身体の深層、言語の表層。言語は非身体の次元。
強度という根源的な差異は、質と量という、二つの異なる差異として反復される。
欲望は非主体的、非人称的、「器官なき身体」の振動、流れ、緊張、拡大の過程。「無意識とは機械である」。欲望は「器官なき身体」のあいだに様々な連結を作り出す。有機体は機械である。どの部分や断片をとっても機械である(モナド)。
近親相姦の図式にすべてを還元(オイディプス化)しようとする精神分析は、分裂症を分析するよりも、分裂症の存在自体を認めまいとするかのよう。
世界史の
第一段階:原始土地機械
第二段階:野蛮なる専制君主機械
第三段階:文明資本主義機械
欲望の革命、性の革命。
分裂症は欲望の外部性が内部に向けて押しつぶされるときに現れる「病」。分裂症は欲望の外部性のしるし。
資本主義の公理系。スキゾ分析。リビドー経済学。
開かれた全体→無限
喜びは悲しみよりも非主体的である。
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ドゥルーズの思想の解説書。
著者はまず、ドゥルーズによる哲学史的探求の特色について、興味深い考察をおこなっている。ドゥルーズは、過去の哲学者たちに背後から忍び寄り、いつの間にか彼らのあずかり知らない子どもを作ってしまう。ベルクソン、スピノザ、ヒューム、ニーチェ、プルーストといった哲学者や作家についてのドゥルーズの研究は、彼らが気づかないうちに「怪物じみた」子どもを作ってやるような意表を突く作業だった。
ついで著者は、『差異と反復』『アンチ・オイディプス』『千のプラトー』を取り上げて、ドゥルーズの思想の解説をおこなっている。ドゥルーズは、「反復とは差異を反復することであり、差異とは反復される差異である」と述べて、「同じもの」を前提とする思考を批判する。彼の主張する「ノマドロジー」とは、境界のない砂漠を遊牧しつつ移動する人びとの軌跡が、「同じもの」を媒介する種や類に従って事物を区分するのではなく、それぞれ無限の際を含んだ個物として配分されることを意味する。
こうした差異のあり方に基づいて、ドゥルーズは「自我」の捉えなおそうとする。彼は、能動的な自我の背後に無数の小さな受動的な自我が隠れていることを見て取る。時間の中で「ひび割れた自我」は、精神分析の観点から「ナルシス的自我」と言いかえられる。しかしドゥルーズは、こうした「ナルシス的自我」に迫ったフロイトが、タナトスをあくまで物質への回帰とみなして、否定的なニュアンスで理解していたことを批判する。
こうした批判は、ガタリとの共著である『アンチ・オイディプス』にも引き継がれる。ドゥルーズ=ガタリは、無意識が、身体、自然、言語、記号、商品、貨幣といった他のさまざまな「機械」との連結を作り出し、たえず何かを生産し続けると考える。だが精神分析は、こうした「器官なき身体」の働きを、オイディプス神話に従って決定的に閉じられたものにしてしまった。これに対してドゥルーズらは、無意識の場を「分裂症化」することによって、至るところに欲望する生産の力を見いだそうとしている。
このほか、『シネマ1』『シネマ2』の映画論や、もう一つのガタリとの共著である『哲学とは何か』についても解説がなされている。
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なんかこのあたりの哲学カッコつけることに終始しているように見えてよくわかんない。難しいことをわざと難しく書いているみたいだよ。
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昔読んでいたドゥルーズに、複雑系科学やシステム理論、後期ウィトゲンシュタイン、社会構成主義を経由して、もう一度たどり着く。で、再入門に向け入門書を読んでみる。クレア・コールブルックについで、2冊目の入門書。
コールブルックの「ジル・ドゥルーズ」がテーマごとの章立てなのに対して、こちらは主な著書に沿って話が進む。こちらのほうが分かりやすいかな。
先行する哲学者との関係などがクリアに分かるのも良いところ。
では、次は、いよいよドゥルーズに挑むことにする。