紙の本
考古学は、想像の学問なんですね。出土した武器から、想像の羽を広げて行きます。
2001/09/13 01:13
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:torikata - この投稿者のレビュー一覧を見る
ひとつ不思議なのは、古墳の成立年代の特定です。そんなに狭く(正確に)特定できるもんなんですか? 「○世紀後半」とか。わたしはそこらへん素人ですが、著者は玄人ですから、そういった時代特定から、「古墳の分布」や「副葬品として出土した武器の分布」を年代ごとにまとめてみて、その頃の、クニとか勢力分布とか、当時の戦いの様子を想像しまくるわけですね。もちろん一部は、中国の古い書物の当時の日本に関する記述を手がかりにしたりして。しかし、考古学者さんって、想像しまくるものなんですね。「え〜、ホントにそうかな?」と思うような指摘とか、推測もありますが、たいがいは「まあ、そうだったんだろうな」ってお話です。
先進国唐の軍隊と白村江で戦った倭軍はどんなだったんだろう。「あの日本書記」も完敗を認めざるを得なかったという。しかし、日本は島国で助かりました。そのせいで日本では戦国時代まであまり「城」が発達しなかったんだそうです。なるほどね。内容は、「想像」ですから、理屈の集積で、繰り返し的な部分も多いような気がしますが、軍事オタクとしては、読んでよかったでした。できれば、想像するんだったら、「戦の想像図」的挿絵も欲しかったです。
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単位の埋め合わせに受講したものの、授業が面白く、テキストまで購入してしまった、松本先生の著作です。「戦争とは弥生時代に入ってきた、先進文化だった」との先生の自説が非常に興味深い一冊。
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考古遺物から、日本列島の戦争の起源を探り、戦争という事象から当時の社会を考える本
冒頭、アインシュタインとフロイトの往復書簡から始まり
戦争はなくせるかというテーマを基本に書かれているので、思想の好き嫌いによって持つイメージは変わるのではないだろうか。
しかしながら、何を持って戦争の証とするか? 弥生以降「戦争の形態」がどう変わったか?古墳埋葬者の身分とは?副葬品の意味とは?
これらの問題に考察を加えるのは面白いと思う。
詳しく当時の戦争(のシステム等)に触れているのは流石だっちゃ。
社会形成のプロセスとして戦争という事象を捉えると面白い。
日本人の戦争特性なんかも考察を加えていて参考になった。
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縄文時代にはなかった戦争が、弥生時代、「先進文化」として到来した。食糧をめぐるムラ同士の争いは、いかに組織化され、強大な「軍事力」となるのか。傷ついた人骨・副葬武器・巨大古墳など、膨大な発掘資料をもとに列島の戦いのあとを読み解き、戦争発展のメカニズムに迫る。
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図書館でこの本を見つけて、かなり面白く読み始めたのだが、途中で既視感。念のためにアマゾンで調べてみるとありました。15年前に私が興奮して感想を書いている。
投稿者くま2001年7月29日
この本のテーマは私の考古学のテーマにそっくり重なっており、まさに「よくぞ出てきました」という思いです。まずは「闘争本能と戦争は関係があるのか」という古くて新しい問題に答えながら、弥生時代以降の倭国の軍事戦略、軍事思想を明らかにし、その特質を述べる。曰く、日本は島国の特性もあり、征服戦争をすることは無かったし、外敵もいなかった。曰く、その軍事合理性よりも、精神性を尊び、合理的な施設や体制を作るよりも人的資源の投入を重視する気風が生まれた。それは保守主義につながり、仮想敵を作るという政策にもつながる。これらを考古学的資料より説得力もって描き出しているという点で素晴らしい。我々はこれらの「歴史的教訓」を活かしながら次ぎの世界にどう戦争のない世界をバトンタッチするのか、考えていかなければならないだろう。
こういう感想を書いているとは知らずに、私はわたしなりに、この15年間の蓄積を活かして、各論を書き始めていました。というか、まだ一章しか進んでいないのですが、日本人最初の戦死者はいかにして生まれたかを推理してみたのでした。もしかしたら、ほかの章も書くかもしれません。
25pより。
戦争による犠牲者と断定するには、いろんな要素を鑑みなければならない(殺人用の武器、守りの施設、遺骸、武器を備えた墓、武器崇拝、戦いを表した芸術作品)。それらを考慮して、最初の戦争犠牲者と言われているのが、福島県志摩町新町遺跡の大腿骨に突き刺さった磨製石鏃である。弥生時代初め頃、木棺墓の熟年男性左足付け根の石鏃である。背後から矢を射られ、致命傷になったかは分からないが、治癒反応がないので、傷を受けるのと同時に絶命している。
推理小説ならば、「わかったぞ小林くん」パートがあるのだが、いかんせん考古学は迷宮入り事件だらけだ。データも不足しているし、第一ここには数ページ足らずの記述しかない。でも日本の最初の戦死者と言われている害者である。推理する楽しさはある。
簡単なデータのみ調べた。
糸島市志摩の新町地区にある「新町遺跡展示館」は、国内で稲作が始まった時期の初めての人骨出土として注目されている「新町遺跡」の様子を余すところなく見学できる施設。昭和61年に初めて発掘調査が行われ、弥生時代早期(紀元前300年頃)の支石墓(巨大な天井石とそれを支える石で構成されたお墓)とカメ棺墓が57基も発見されました。平成4年に町指定の史跡となり、その歴史的に貴重な遺構を保護するために遺跡全体を覆う形で歴史館が作られたとか(見学できる遺跡は埋め戻された現物の上に復元されたもの)。ここから見つかった石の鏃が刺さったままの人骨は、現在、日本最古の戦死者と言われています!(志摩町ホームページより)
これにより、どうやら木棺墓は支石墓の下にあったようだと分かる。非常に濃く朝鮮半島の影響を受けているだろう。紀元前300年は不明。年代法論��結果によっては、BC8-10年の可能性もあるだろう。
敵は渡来系弥生人で間違いはない(磨製石鏃)。時期的には渡って来た本人たちかもしれない。害者も渡来系なのは間違いないだろう。縄文時代には戦争はなかった(多くの根拠はある)。弥生時代に入って直ぐに戦争が始まった。つまり彼らの多くは朝鮮半島での戦争経験者かその直接の子供たちだったのだ。戦争で死んだリーダーを丁寧に埋葬する習慣を彼らは獲得していた。英雄として死んだのかは分からないが、粗末に扱ってはいない。彼らは勝ったか負けたかは分からないが、墓がきちんと残っているのは、負けていないことだろう。それなのに背後から矢を射られた?大きな戦争ではなかっただろうから、リーダーも最前線で戦ったのだろう。熟年男性なので、戦士ではなかった。何かを守るために戦死したと見る方が正しいのかもしれない。
興味深いのは、この棺の下に小穴があって、その中から別の人物の歯が見つかった。少年または青年の頭部だという。松木武彦氏は「墓の主は奮戦してこの若者の「首級」をとったものの、その戦いの傷がもとで死んだのだろうか。それとも、墓の主の戦死に対する敵討ちとして、同じ集落の者が「首級」をとって供えたものだろうか。」と書いている。首級が敵か味方か、が先ず分からないが、味方とすると、理由が見つからない。敵だろう。では、前者か後者か。前者だとすると、言うまでもなく「英雄」としてこの墓が作られたのである。乱戦ならば首級が味方に渡ったままになるだろうか。組織戦ならば、熟年男性が決定的な場面に居たのがよくわからない。後者ならば、首級は矢を射た者の可能性が高い。そうだとすると、戦争に個人的な恨みがかなり残っていることになる。そもそも首級を同時埋葬する文化とは何かなのか。台湾には近代まで敵の首を「狩る」ことで、敵の生命エネルギーを取り込む文化があった。ところが、この熟年男性は縄文人の体つきをしていたという。渡来系と縄文人の混合がかなり進んだあとの人物ということになる。そうなると、新しい社会の中で自分なりのアイデンティティを立てようとして戦乱の中で頑張ったのだという推論も立つ。
一定の推論を立てようと思ったけど、立たなかった。
ひとつわかったのは、最初のころの日本での戦闘は、かなり血生臭かったということである。
2016年4月読了
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最初はかなり流し読みだったけれど途中からかなり面白くなってきてそのまま勢いで読了してしまった。武器が緩やかに発展していったのは(急激に発展しなかったのは)、日本の地理的要因がかなり大きかったということ、当時の日本からみた異教徒のような外敵がいなかったこと、古墳時代辺りまでには大和を中心とする緩やかな連合政権が成立し、日本全土を巻き込むような大戦乱が起こらなかったことなど様々な要因が関わっていることが本を読んで理解することができた。個人的には筆者が蝦夷討伐において中央が柵の強化ではなくて人的資源の供給を強化していたことを指摘している記述をみて言われてみれば確かにな~と思ってしまった。