紙の本
惑溺(わくでき)からの解放
2016/01/26 00:09
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投稿者:ホンの無視 - この投稿者のレビュー一覧を見る
恥ずかしい事に、自分は本書を読むまで「惑溺(わくでき)」という言葉を知らなかった。
凝り固まって変わることができない状況と言うのはある意味、今の日本にとっても、変わらず存在している問題であり、
本書に書かれている福沢の言葉からは「日本的な閉塞感からの脱出願望」、「独立への強い渇望」が見て取れるのだが、
今でさえ、それらを訴える声が日本社会の随所から聞こえてきそうな気がしてならない。
福沢の言う独立に必要なのは「現実はこんなもんだから」と現状に甘んじたりしない姿勢という事だろうか。
余談だが、本書では「惑溺をどのように英語に訳せばいいか分からない」という1文があったが、
個人的には「Indulgence」が当てはまるのではないかと考えている。
紙の本
敗戦直後の日本に甦った明治初期啓蒙思想の精華
2001/08/14 15:15
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:佐々木力 - この投稿者のレビュー一覧を見る
一万円札の肖像に使用されている人物に「哲学」などあったのか、といぶかる人もいるかもしれない。さにあらず、幕末明治初期の人物の書いた物には読ませる文章が少なくない。その代表的人物が福沢諭吉であり、彼の最も輝いている著作が『学問のすゝめ』であり、『文明論之概略』なのである。そして、敗戦直後の日本にあって、啓蒙主義期の福沢の思想に光をあてて、蘇生せしめたのが丸山眞男なのであった。
本書に収められている論文は、「福沢諭吉の儒教批判」が発表された戦中の1942年から、中国語論集の「『福沢諭吉と日本の近代化』序」が公刊された1991年まで、ほぼ半世紀にわたって書かれたものである。しかしながら、その中枢部分をなしているのは、日本が戦争で敗北を喫した直後の時期に出された「福沢に於ける「実学」の転回」および「福沢諭吉の哲学」であると言ってよいだろう。これらの論文執筆の意図を、「国破れて山河あり」といった時代相にあっても、日本人が最も輝いていた明治初期の思想に光をあてて、その精華を蘇生させようとしたのだと見て、それほど間違ってはいないだろう。
本書中の論文の最高傑作は、おそらく1947年の「福沢に於ける「実学」の転回」であろう。丸山はそこで、福沢における「実学」は単なる「実用の学」ではなかったと説く。数学という言語で武装され、批判的な精神で捉え直された近代自然科学こそが、「実学」の本意であったと言う。儒教という伝統思想を意図的に棄却し、近代西欧科学を学ぼうとした福沢の精神の根本は近代的な批判的精神であった、と丸山は言いたいのである。
まさしく福沢諭吉は日本のみならず、東アジアで最初の西欧的精神の観点からの儒教批判者であった。同じことだが、「惑溺」を排し、懐疑的精神=批判的精神を謳い上げた、最初の近代思想家であった。その意味での開明思想家であった。
このような丸山の提示する福沢像に対して、二つの方向から批判が投げかけられている。ひとつは、いま流行の「ポストモダン的」な科学批判の方向からで、近代科学技術を称揚するような論者は許容できないという意見である。そして、もうひとつは、福沢の思想が、アジア近隣の諸国侵略を正当化するのに役立ったという指弾である。いずれもが根拠がないわけではない。しかしながら、福沢の啓蒙主義時代のラディカルな批判的精神を軽視する点で、両者とも間違っている。福沢の思想が全面的に誤謬を免れていた、と言いたいのではない。福沢思想の開明性をも葬り去ってはならない、と主張したいのである。
現代日本はシニカルな気分で満ちている。この気分は払拭されねばならない。確かに、丸山の「福沢惚れ」は尋常ではない。が、福沢と丸山の開明性に免じて、この行き過ぎは許してあげようではないか。そんな気持ちにさせてしまうほどの迫力が本書にはある。 (bk1ブックナビゲーター:佐々木力/東京大学教授 2001.08.08)
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碩学丸山 眞男による福沢論。もっと難しいかなぁと思ったが、すんなりと入ってきた。特に重要なのが、『福沢に於ける「実学」の転回』と「福沢諭吉の哲学」。福沢の新発見、再発見の連続だった。義塾歴7年の私が、いかに今まで怠惰であったか!(笑)ということが露呈してしまう。。。さらに驚くべきは、端的に言って、ポストモダンの極致、シミュラークルの到来を、この時期すでに福沢が指摘していたところ。これは本当にとんでもない。こういう福沢の「妖しい」魅力を、とりわけ10代の人たちにおもしろく伝えるには、うまい「翻訳」が必要なんだが、それについてはまだまだ私の修行が足りません。精進します。それにしても、150年前の先生の教えがずっと伝わっている(と肌で感じる)塾ってそりゃすごいことだよな。
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儒教批判、支那批判から、近代アジア・世界史がつながって見えてくるのが面白い。思想、惑溺は少々奥が深すぎるが・・・
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福沢諭吉についての論文を7つ。これまで福沢諭吉に関する論文は、ほぼ読んでこなかったため、いい勉強になった。
通常の歴史だと福沢諭吉は「学問のすすめ」や「脱亜論」で語られることが多いが、丸山が明らかにした福沢はそれ以上に先行した啓蒙思想家であったことがよくわかる。
「惑溺」の考察は非常に興味深いものがあるし、「脱亜論」に関してもミスリードされて使用されていることがわかる。(「脱亜論」に関しては、「福沢諭吉の「脱亜論」とその周辺」に詳しい)
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過去に成功したビジネスモデル、終身雇用などの雇用慣習といったものをなかなか変えることができずにいる。環境が激変しても、ゼロリスクの空気が蔓延し、不安になればなるほどそれらにすがってしまう。都合のよい前提条件だけを採用し、対処しきれない問題が私たちのまえに残された。固定化されてしまった価値観にすがって、想像力を欠き、環境変化に対応できず、未来への展望を描けない状況が続き、社会の活力を失わせている。
福沢諭吉の哲学は「現実」と安易に妥協しない。日常生活のルーティンに固執する態度とは反対に、そうした日常性を克服して、未来を開いて行くところの想像力によって、たえず培われるべきとのことである。
福沢諭吉によれば、物事の善悪、真偽、美醜、軽重とかいう価値判断はそれ自体孤立して絶対的に下しうるものではなく、必ずほかの物事との関連において比較的にのみ決定されるという。価値判断の相対性の立場をとり、それは価値を固定したものと考えずに、具体的状況に応じて絶えず流動化し相対化するということは強靭な主体的精神にしてはじめて可能になる。
これに対して主体性の乏しい精神は特殊な展望にとらわれ「場」の制約された価値基準を抽象的に絶対化してしまい、当初の環境が変化し、あるいはその価値基準の実践的前提が意味を失った後もこれを絶対の拠りどころとし墨守する。ここに福沢諭吉のいう「惑溺」という現象が生まれる。あらかじめ与えられた価値基準を万能薬としてそれにすがる。これは人間精神の惰性を意味する。
精神が社会的価値観や自己の展望を相対化する余裕と能力を持てば持つほど社会関係はますますダイナミックとなり、精神の惑溺の程度が甚だしいほど、社会関係は停滞的となる。
価値判断の絶対主義が伴わなければ、価値観の独占が破れ、価値決定の源泉が多元的となり、そこに必ず「自由」が発生する。
福沢諭吉は人びとにいかなる絶対価値も押し付けることなく、人びとを常に多元的な価値の前に立たせて自らを思考しつつ、選択させ、自由への道を自主的に歩ませることに生涯を捧げた。
今、私たちに必要なのは価値観を勇気を持って相対化し、固定化された前提条件を見直し続けていく、試行錯誤による不断の前進ではないだろうか。
どんな価値観も絶えず新陳代謝を繰り返し、時代の変化の中でブラッシュアップしていかなければならない。
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思想家のイメージがある福澤を哲学者として捉え、その方法論を探究。結果としてはそのプラグマティズム性を解き明かしているようである。丸山の福澤研究ってそういう事だったのか!という驚きと共に、この解釈は世間で受け入れられているのか?という疑問もある。それだけ福澤の思想的なインパクトが大きいという事なのかもしれない。
ただし、プラグマティズムって魔法のツールなので、福澤と対照的に評されている内村鑑三にだってプラグマティズム性(状況倫理)はあるし、深読みすればどんな思想家からもプラグマティズム性を引き出す事は可能にも思える。それだけ、人間が思想的に首尾一貫して生きる事は難しく、結局は底流にある思惟的方法論の有無の問題という事に帰着してしまうのかもしれない。なら思想研究は人物から乖離すべきだし、その時々の時代状況に伴う言説を追いかけるしかないという事になってしまうのだが。それがよいか悪いかは別として。
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評者は『日本政治思想史研究』『現代政治の思想と行動』『日本の思想』といった丸山の主著がいずれも名著であることを認めるに吝かでないが、これらは良くも悪くも「近代的政治主体の形成」という丸山の強烈な課題意識に導かれたもので、必ずしも歴史的対象を総体として把握することを目指したものではない。よって学問的には恣意的ないし一面的であるという批判に晒されてきた。
そうした丸山のスタイルは、学問や知識とは状況に規定された課題に対処するための道具であるという、ある種のプラグマティズムに根ざすものだ。学的な認識自体はあくまで手段に過ぎず、重要なことはそれが絶対的な真理か否かではなく、目的たる課題に対して「相対的に」有用かどうかである。西洋合理主義も独立自尊という近代日本の国家命題に寄与する限りにおいて意義がある。目的と切り離してそれ自体を信奉するのは愚かなことだ。福沢に即しつつ、こうした丸山自身の方法意識を体系的に述べたのが表題論文の「福沢諭吉の哲学」である。これは文句なしに丸山の最高傑作である。並の保守論客では容易に論破できない説得力を持っている。一方この論文と対をなす「福沢に於ける「実学」の転回」は『日本政治思想史研究』以来の「作為の論理」の延長線上にあるもので、丸山の読者にはそれほど目新しくはない。
全体を通じて一つ問題提起するとすれば、丸山(=福沢)は固定的な価値規準への「惑溺」を「作為の論理」の観点から批判するが、自覚的な「惑溺」というものをどう評価するだろうか。ハイエクが最も洗練されたかたちで理論化したように、慣習や伝統の限界を知りつつも、それが歴史の風雪に耐えてきたというただ一点を拠り所に、複雑極まる人間社会を導くものとしては、愚かで不完全な人間の「作為」よりはるかに信頼に足るとする態度だ。もっとも、この問いにどう答えるかは究極的には論証を超えた生き方の問題であるだろう。その答がどうあれ本書の価値は不変である。