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紙の本
繊細なことばにそなわった「緩やかさ」
2001/09/26 22:15
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投稿者:赤塚若樹 - この投稿者のレビュー一覧を見る
本にはそれぞれ適した読み方というものがあって、ときはにそれを学ばないといけないこともある。このように書いたからといって、ここでもっともらしい読書論を展開しようとも、またそれができるとも思っていない。なにしろ、ふだん読書といえば、ページをめくって、1語ずつ、1行ずつ目でたどっていくだけで、そのしかるべき方法などについて考えたことすらないのだから。たいていの場合はそんな読み方でも充分対応できるし、これといった不都合も感じないが、しかしそうはいっても作家や作品によっては、読み通すことはできてもそれ以上先に進めず、とくにものを書いたりしなければならないときなど、少々困ることがあるのは認めなければならないだろう。
わたしにとってパスカル・キニャールは、どちらかといえば、そういったカテゴリーに入る作家のようだ。これは決して好き嫌いの問題ではないし(というのも、嫌いなものなら読み通しはしないから)、波長が合うあわないというのとも、かならずしも一致しないような気がする。むしろ、決して勤勉な読者ではないものの、この作家の作品については、翻訳書をとおしてそれなりに読んできたとも思っている。さしあたっていまは『ローマのテラス』だけに話をかぎるが、この中編小説にしても、興味深く読みはじめたはいいが、自分なりにそのよさを表現する手だてとなると、なかなかみつけられそうになかった。それはいったいどうしてなのだろう、と、今回は読み進めながらいつの間にか考えていた。
現代小説の内容をひとことで表現するなどどだい無理な話だが、その無理を承知で物語だけを手っ取り早く説明するとすれば、17世紀のヨーロッパを放浪した版画家モームの生涯、その遍歴を描いている作品だといってよいかもしれない。21歳のときにブリュージュでナンニという女性と出逢い、恋仲になり、別れるところからはじまり、その26年後に自分を捜す(ナンニが生んだ)息子に泥棒と間違えられて、喉を切られ、それが原因で死んでいくまでの物語が、この小説の大きな枠組みをつくりだしており、そのなかで、モームが一生のうちで本当に愛したのがナンニだけだったという事実があかされ、「黒の技法」によって生み出される作品の特色、その作風、その魅力が語られ、ヨーロッパ諸国を経巡る旅の模様がたどられていく。
もの静かな装いのなかに、ときおり不気味な異様さや荒々しさが不意に宿ることもあるキニャールの筆の運び。とくに「春画トランプ」と呼ばれるカードの「扇情的な絵」、あるいは「大方の人が野卑だと見なしているものをこのうえなく洗練された手法で描いた」作品の描写がもたらす暗い色調が、ナンニへの愛の純粋さや一途さと不可思議なコントラストをつくりだしながらも、小説という空間のなかで、一時もぶれることなくぴったりと重なり合っていくさまは、そこにこそ、この作品の生命があるのではないかと感じられることだろう。
このような小説が、断片とはいえないものの、それでも決して長くはなく、ときに微妙に語り方がかわる47の章をとおして「ゆっくりと」進行していく。こうした語り口とそこに生まれる文章の流れをこそ形式と呼ぶのだろうが、もしそうであるなら、その形式が読み手の側に要請しているのは、いわば「遅さの共有」とでもいうべき事態であろうことはまちがいない。『ローマのテラス』という場にあって問われるのは、まさにその間合いの取り方であって、まずは自分なりに小説の「遅さ」を測ることからはじめなければならないのではないだろうか。味わうとか、かみしめるという方法ともちがう、繊細なことばにそなわった「緩やかさ」。その緩やかさがみいだせたときに、この小説ははじめてそのもっとも美しい相貌をあらわす作品となるのだ。 (bk1ブックナビゲーター:赤塚若樹/翻訳・著述業 2001.21.22)
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