投稿元:
レビューを見る
本当に表紙だけがカラーででているだけの一冊だが、これの価値が分かる人は分かる人だけが分かるというマニアなところなんだろうなあ。時代で旬のアイドルが分かるんですよ。漢字ロゴだった時代がいいねぇ。今はアルファベットか、だめだなあ。『平凡』『近代映画』にもまた出会いたいものだ。アイドル、グラビア雑誌の歴史って今こそ価値があるかも…。
投稿元:
レビューを見る
[ 内容 ]
月刊「明星」が一九五二年に生まれ、二〇〇二年十月号で創刊50周年を迎えた。
その表紙601枚を集大成したのが本書である。
この国で「明星」を一度も目にしなかった人は、ほとんどいないだろう。
各世代のスターの笑顔はそれぞれの心の思い出であり、「明星」は青春そのものである。
そして、これらは戦後日本の貴重な社会資料ともいえる。
表紙から見える時代背景を作家・橋本治が解説。
あなたの心のアイドルが今、蘇る。
[ 目次 ]
第1章 一九五〇年代―「赤い聖画」の女優達
第2章 一九六〇年代―吉永小百合のいた「変動の時代」
第3章 一九七〇年代―篠山紀信の創ったもの
第4章 一九八〇年代―山口百恵が去った後
第5章 一九九〇年代―女のスターがいなくなってしまう
第6章 二〇〇〇年代―スターとは作られるものである
「夢と希望の娯楽雑誌」考
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
投稿元:
レビューを見る
「『明星』の図像から読み解くアイドルと社会の変遷」
「『明星』だけは読むな」
個人的な体験から始めたい。評者は少年時代(ほぼ1980年代)に、母親からこのように言われて育った。男性週刊誌や少年漫画の性表現や暴力描写の方がはるかに有害だと思われていそうだが、それ以上に芸能文化に対する親の忌避は強かった。
この場合、「『明星』だけは」というのは、「明星」をあげつらいながら他の雑誌も含めた芸能(特にアイドル)文化全般を指している。それくらい、「明星」は芸能文化の代名詞的存在だったのだ。しかし、妹がそのようなことを言われた場面を見た記憶がない。つまり、「女はいいが、男がアイドルなどにうつつをぬかすな」という、ジェンダーに基づく二重の規範が適用されていたのである。
評者の経験が必ずしも同世代を代表するものでないことは留意する必要があるにせよ、1980年代、アイドルファンというものは、多くの場合、揶揄を込めた否定的な意味合いで「ミーハー」と呼ばれていたし、「明星」のようなファン雑誌(ファンジン)にもそのようなまなざしが強かったように思う。
本書は、1952年10月号から2002年10月号までの601枚の表紙をカラーで採録しており、実に壮観である。それは同時に資料的価値の高いものでもある。巻末には表紙登場人物の索引も収録されている。作家の橋本治による解題を追いつつ、これらの図像から浮かび上がるものを考えてみたい。
なぜ、創刊号が映画スターの津島惠子だったのか。正直なところ、評者は津島をよく知らない。なぜ美空ひばりや原節子ではなくて、津島なのか。橋本によれば、原や高峰秀子が戦前の記憶をひきずったスターだったのに対して、津島は戦後デビューであったこと、「自分の生き方を探す女性スター」のはしりと位置づけられること、この2点が大きい。そのような津島の生き方が「夢と希望の娯楽雑誌」を謳う「明星」のコンセプトと合致したのである。
同時代を知らない世代にとって「戦後のスター」といえば、美空や原、笠置シズ子であるが、これらは定番の映像が繰り返し用いられることで、われわれの集合的な記憶として編制されているという側面を少なからず含んでいる。歴史を振り返るテレビ番組で「戦後」が語られる際、必ずモノクロの焦土の映像に「リンゴの唄」が被せられるように。しかし、「明星」が津島を起用したことが物語っているのは、そのような集合的記憶の背後に、いまだ掬い取られていない様々な事象が埋もれているということだろう。
1950年代=映画スターの時代というように。アイドルの歴史が、その時代に影響力のあるメディアと関連付けて論じられることが多い。本書もそのような構成となっている。
1950年代には、ほとんど男性が登場しない。男性は鶴田浩二と佐田啓二だけである。そのほとんどは、香川京子、若尾文子、南田洋子、山本富士子・・・といったように女性であり、それも歌手ではなく映画女優なのである。
「しかしどういうわけか、その表紙の印象はみな似通っています。赤いバックの中で動きを止めて微笑んでいる女優たち――1950年代の「明星の表紙は聖画(イコン���のようです」」(20ページ)
というように、まさにそれは憧れの対象であった。皆一様に赤い背景の中で白い歯を見せて微笑んでいるのである。当時の技術から、写真ではなく絵画であることも「聖画」であり、遠い憧れの存在であることを際立たせている。
1960年代には、吉永小百合、小柳ルミ子、いしだあゆみ、西郷輝彦、舟木一夫などが登場している。ここで橋本が、『明星』の表紙は世相を反映などしてないと断言しているのが興味深い。評論であれ、社会史研究であれ、安易に図像と世相=社会とを接続しがちであるからだ。60年代後半からは全国に広がった若者による社会への抵抗があったし、グループサウンズといううねりもあったにもかかわらず、ここにはそれらは反映されていない。「明星」にとって焦点だったのは「アイドルが健在かどうか」だけだったのである。
さて、70年代は写真家、篠山紀信の時代と言っていい。71年9月号から81年9月号までは彼が表紙写真を担当している。それにより、それまでの見合い写真のようなものから、多様なシチュエーションやアイテムによって装飾された写真へと大きく変化している。水着やスキーウェアなどのコスプレ的なものや、凝ったカメラアングルやレイアウトが登場する。メディア論的には、テレビの時代であり、スターという呼称からアイドルへの移行期でもある。なお、この時期は「明星の黄金時代」と位置づけられているが、同時に高度経済成長期という時代を反映してか、スキーやジャンボジェット機、スポーツカーなど、モノの輝き、モノへの欲望が見いだせる。
1980年代はスターの時代から完全にアイドルの時代へと転換した時代とされる。女性では松田聖子、河合奈保子、中森明菜、伊藤つかさ、男性では、沖田浩之、たのきんトリオ、シブがき隊など多数のアイドルが登場するが、50年代や60年代にあったスター性や写真家 の個性は消失し、どの表紙を見ても完全に同質的なものとなっている。田原俊彦の笑顔など、どの写真を見ても表情といい角度といい、ほぼ同じように演出されている。サザンオールスターズやラッツ&スター、聖鬼魔Ⅱなど、アイドルとは呼びがたいグループがときおり登場していたのも特徴だった。
「男だけの明星」と評されているように、1990年代以降 少年アイドル誌へと変貌を遂げた。牧瀬理穂や一色紗英、内田有紀、広末涼子なども散見されるとはいえ、少年アイドル、それもほぼジャニーズの寡占状態と言っていい。この時期を橋本は「苦闘する明星」と評している。
だが評者はここで二つの特徴を挙げておきたい。ひとつの特徴は「メイル・ヌードの時代」である。度々、少年アイドルの上半身のヌードが掲載されている。それらヌードは筋肉も体毛もない、まさに少年のものである。96年7月号のタイトルは「ジュニアの素肌にタッチ」であった。これが示唆しているのは、男性の裸を鑑賞するような見方が定着しているということである。男性の裸はかつての「明星」では加山雄三やにしきのあきらにのみ与えられた特権だったのが、広く一般化している。
もうひとつは、スタジオ空間から出て海や公園、都市空間といった屋外で撮影されることが多くなったということと、ファッションやアイテムへのヒップホップやス���リート文化の流入である。『明星』は一貫して「ミーハー」路線であったが、それは決して「ヤンキー」「不良」的ではなかった。しかし、90年代後半から大きな地位を得ることになったストリート文化をいとも簡単に受け入れてしまったのである。しかも、それを薄めて飼いならしてしまっているといえる。
最後に、本書のような資料から表象と社会との関係を読み解くことはどういうことなのか考えてみたい。これまで見てきたように、いくつかの局面でアイドルや社会の変容が大きな変化を捉えることは可能だろう。だが、橋本が指摘したように、そこには必ずしも社会的現実が反映されているわけではない。また、圧倒的な資料の厚みは、単純な図式化を戒めている。変化したものと変化しないもの、社会やメディアの変容と接続が可能なものと不可能なものを見極める必要があると言えよう。
アイドルの変容に限定しても、例えば50年代~80年代はアイドルシーンをある程度反映しているといえるが、90年代以降についていえは、アイドル誌やティーンを対象にした雑誌が多数発行され、インターネットによるファンサイトなども存在する。そのなかで、『明星』のみからアイドルの変容を読み解くことはいまや困難である。とすれば、他誌や多メディアとの関係のなかで捉えていく視点が求められている。
投稿元:
レビューを見る
面白いです。1952年10月創刊号からは映画女優が表紙でしたが、男女カップル、男女グループ、ジャニーズ…とどんどん変化し、今や明星の表紙を担うアイドル養成はジャニーズ事務所の仕事のようです。本書は2002年10月号の表紙までの掲載なので、集英社のホームページで2013年11月号と12月号のMyojoの表紙を確認したところ、写真ではなくイラストでした。かわらずジャニーズの面々が表紙のようです(ようですというのは、誰だか良くわからなかったので、自信がなく…)いつからイラストになったのでしょうか。2002年10月号以降の続きを読みたい気がします。
投稿元:
レビューを見る
新年一発目の本ですね。
一気に読んでしまいました。
面白かったです。
本書で70年代の明星の表紙スチールを撮り続けた
篠山紀信のまえがきと、時代ごとの解題を担当した橋本治、最高のタッグでした。
今、時代のアイコンと呼ばれる人は、
ぱっと上げられないですね。
みんなで歌える歌謡曲も、
ほとんど出てこなくなりました。
それだけ個人、個人の趣味志向が、
バラけているんでしょうね。
またインターネットの攻勢も、
自分が好きなモノを、
どんどんカスタマイズ化してますね。
必然好きなモノでコミュニケーションできる機会は、減っていますよね。
毎年500人のタレント、アイドルが生まれて、
メディアで翌年も取り上げられるのは、
わすが数人。
数年単位でテレビに出続けられるのは、
極々一握り。厳しい世界だと思います。
それはスター作家がいた時代とも重なりますね。
私の友人にわりかし有名なライターがいるんですが、著書10冊以上出していて、ネットに連載も持っていて年収は200万円いっていないそうです。
なので平日はアルバイトしながら執筆してますね。
好きじゃないと続けられないでしょうね。
タレント、アイドルも、今だとユーチューバーも、
経済的には、似たような
もんだと思いますね。
自己表現しやすくなった反面、それで食っていける時代は終わったんでしょうね。逆じゃないかと思うかもしれませんが、私なんかは、そう考えますね。食えないけど、好きだから続けて、
宝くじを引く確率ぐらいで、食っていける人が、
まぁ、一応生まれる。ただ、以前と比べたら、
圧倒的少数なんでしょうね。
昔は明星のキャッチコピーであった夢と希望が少なくない国民にあったが、今はないのかもしれないですね。それだけシビアになったんでしょうね。
自己承認の問題をどう扱うか、
そのヒントにと、本書を取ってみました。