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紙の本
前代未聞の途方もない試み
2005/09/20 13:29
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る
前著『生成する生命 生命理論Ⅰ』で著者と対談していた檜垣立哉氏の『ドゥルーズ』に目を通してから本書を読むと、まるで嘘のように見通しがよくなる(錯覚かもしれないけれど)。
たとえば著者は、「個物」とは「ことば」であり「クオリア」(主観的質感)であり「トークン」であると言う。ここで「トークン」(対象・痕跡・事例・外延・図)は「タイプ」(型・性格・内包・地、またクオリア=トークンに対する内観)と対になる概念であって、本書では、普遍的特性に対する個物化過程といったニュアンスでその叙述の基調をなしているのだが、それはともかく、個物の生成=存在をめぐって、個物(トークン)と個物の作動領域(タイプ)の共立がはらむ潜在性に焦点をあて、死を潜在させた個物の存在様態を論じる著者の方法論=存在論は、まさしくドゥルーズの「個物の哲学」や「潜在性の存在論」とぴったりと重なりあっている。
まあ、そんなことは私が指摘しなくても、著者自身がもっと正確に書いているのだから、言わずもがなだ。著者は、哲学は世界や現象を記述し分析する装置ではなく、「むしろ世界を立ち上げ、世界と共に生きる装置である」と言う。その世界は生命に満ちている。生命は生と死、つまり平板な論理の上で表現するとXとXの否定の共在というパラドクスのうちにある。しかし生命は、Xの否定をXの潜在性として構成するしなやかさをもっている。私はいずれ死ぬだろう。だが、「私はわたしで生きている。ふざけんじゃない」。
また、世界は意識とともにあるが、「意識は、脳という計算機の機能なのではない」。「わたし」は遍在している。それは決して統合されることなく、その都度選択されるだけだ。《ゆえに一人の意識とは、その一個人に限定的に由来する固有のものではない。意識もまた、遍在するわたしが「わたし」を認識するのであって、統一した全体=一者としてのわたしは実在しない。》《超越論的主体の、或る局在、或る生成が、わたしである。したがってむしろ、問題は統合ではなく、局在化である。そして局在化は、常に或る局在化としての計算に潜在する形で発見=構成される。》
このいかにも哲学者然とした物言いの背後、というより本書ではむしろ前景化されているのだが、そこで議論されている事柄を要約することなど私にはできない。ただ、前代未聞の途方もない試みがひっそりと進行しているのではないかという、戦慄めいた思いだけが残る。郡司ペギオ‐幸夫の議論を、まるで絵本を読むようにしてたどることができる人間の割合が一定の値を超えたとき、きっと何かが「俯瞰」される。
──ところで、本書の通奏低音、隠し味ともいうべき『天使の記号論』(本書第Ⅰ章の注にその名が出てくる)で、山内志朗氏が、ドゥンス・スコトゥスの個体化の原理について「スコトゥスは、個体化とは濃度・「赤さ」のようなものだと考える」と書いているのは、本書の議論との関係で実に興味深い。
これは余談だが、『天使の記号論』に揃い踏みでその名が出てくるドゥルーズ、パース、ベンヤミンは、本書でつねにそれらの接合面が問題とされる三つの分野、すなわち哲学(思惟)・科学(認識)・芸術(感覚)に対応している。ついでに書いておくと、ネグリ/ハートの『〈帝国〉』で、ヨーロッパ近代のはじまりを告げる出来事がスコトゥスの「あらゆる存在体は特異な本質を有する」という言葉に託して描かれている。《その出来事とは、この世界にみなぎる力を肯定すること、言いかえれば、内在性の平面を発見することであった。》
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