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題名に惹かれて本を買うことがある。この本がまさにそれだ。この題名は、もちろん、あの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」をもじったものだ。本家の方は、ハリソン・フォードの主演した映画「ブレードランナー」の原作としても有名だ。この本家にある「湿った冷たさ」というものを期待して、「鉄腕アトムは電気羊の夢を見るか」を買ってみた。
この本で網羅されている「ジャンル」のようなものを考えると、それが余りにも広範囲に分散していることに気付く。ジャンル、というような考え方をすることがいけないのかも知れないが、それぞれで触れられているテーマには、それだけで本一冊に成り得るエピソードが詰まっている筈なのだが、この全方位型の本で著者は、少しだけこじ開けられた扉を、惜しみなくまたパタンと閉じる。二度三度と、そのパタン、が繰り返される内に、心の中がざらついてくる。
鉄腕アトムは電気羊の夢を見るか、というテーマを、はなから真剣に掘り下げるつもりはほとんどないらしいことは、本の半ば辺りでうっすらと気付かされる。アンドロイドとロボットの差などにも頓着がない(本当なら、ロボットである筈のアトムを、敢えてアンドロイドと入れ換える、ということ自体で興味深い話に発展しそうなのに)。さらにやっかいなのは、著者の興味の広がり(それは結構なことである)を、そのままパアーッと広げたような主観的な事実の描き方だ。個々の事象に明確な関連性を著者は感じているようなのだが、そのリンクの糸が見えて来ない。読み手は何度も電車の乗り換えをさせられながら、どこへも行き着かずに同じところをぐるぐる回っているような居心地の悪さを感じてしまう。
著者の熱情だけは確かに伝わってくる。しかしそれが、アトムを巡る話でなければならなかったのかという点が疑問だ。著者が日頃興味を持っているアイテムがあり、研究分野の知識があり、趣味としての鉄腕アトム、手塚治虫がいる、ということを、しゃにむに関連づけする必然性は、著者個人の精神活動にとっては有益であろうと思うが、中心にアトムを持って来なければならなかった必然性は、客観的には見いだし難い。もちろん、このグルーヴと呼べばよいのかも知れないものに「のっていける」人々は居るに違いない。違いないのだが、初めに言ったように、読む動機が「湿った冷たさ」を求めているものには、気持ちがすっと冷めてしまう熱気でもある。
それでも本を読みながら、語られているテーマについて個人的にも考えを巡らすことを強要された感じは、それ程悪くはない。科学が未来だったことに強い郷愁を覚えながら、科学者ならぬ技術者として生きている自分も、著者の主張していることに「意味もなく肯定する」気持ちが湧かない訳ではない。同年代である著者の思い込みは、同時代の刷り込みから来ていることは明らかで、その刷り込みは自分も同様に受けているからである。しかし、盲目的にノッテいって何が楽しいというのか、と考える自分も一方で存在する。そのことに目をつぶれば、この本はもう少し楽しい本になるのかも知れないが、そこにブレーキが掛かる一因がある。
それにしても、この著者の「学級委員���然とした語り口はどうだろう。この引率者然とした話の展開のさせ方は、上からものを見下ろす視点に繋がってもいる。その視点に対し単純に不良少年的態度をとるならば、見切りを付けるだけでよいのだが、自身の学級委員としての記憶が自らを否定することにどこかで繋がりそうなその行為に、尻込み促すメカニズムが働き、どうにも「やーめた」とできない何かもある。かくして、途中で放り出すこともできず、そうかといってノッテもいけない本と格闘している自分を発見する。
そして、この居心地の悪さは、「恥ずかしさ」であると、途中で気付く。ああ、そういうことなのか、と腑に落ちる。そもそもが、アトムが自分に身近であった時代とは、恥ずかしさに満ちていた時代でもあったのだ。そのことに無理やり気付かされそうになる感覚が、この本をもっと単純に楽しめないことの一因でもあるのだ。ということは、自分はあの時代の記憶に蓋をしているのだろうか。そこに不思議な疑問が湧く。
記憶といえば、最近読んだ松山巖の著作は、過去の風景などを呼び覚まさせてくれるものだった。松山巖の「くるーりくるくる」を読んでいて、自分のスクリーンに投影されていたのは、まさにその時代だった。そしてその本を読んでいる間、自分はその時代をいとおしいと感じていた筈である。なのに、その時代の記憶に蓋をしているとは。しかし、よく考えれば、投影されていたのは「時代の風景」であったことに気付く。そこに居るのは客観的な視点から見えている自分の姿であり、自分の記憶ではありながら、映像資料のような主体性の伴わない、風景の一部としての自分の記憶である。
一方で、このアトムを読んでいる時に思い出しそうになっていたのは、地震が恐くて夜眠れなかったことや、嘘をついて怒られていること、といった自意識を伴う記憶であるから、それに立ち向かうことが恐いのだろう、と自己分析をする。アトムは夢であった。自分もその時代にアトムを、友達かなにかのように身近に、感じていた。しかし、夢とは逃避の願望の現われである場合もある。自分も空を飛びたい。自分も悪い奴(=自分にとって都合の悪いやつ)をやっつけたい。そんな夢を見続けることの居心地の悪さというものがあることを著者は理解していない。人生に負けのない人にありがちな不理解だ。
一度決めた夢から逃げない姿勢、恐らく著者の熱情の根源はその姿勢にあり、それ故、アトムを実現させるための努力は美しいと、熱烈なエールを送るのだろう。しかし、著者のエールの向かう先は、実際には、努力、に向けられているのではなく、努力の結果、に向いている。ひたすら、夢の現実的な部分、空間的に存在し得る部分(果たしてそんなものがあるのか、という疑問はさておき)というような「見える」側面に言及する。
例えば、ホンダのロボット開発を担当した技術者の払った種類の努力はもちろん美しい。それは与えられたテーマに技術者が感じるロマンというものがあるからだ。そのことに想いを寄せないままに、彼らがロボットを「道具」としてしか捉えていないのだ、などという間違った結論を引き出したまま、その章を終えてしまえる感覚は、学級委員的優等生の嫌みたらしい感性のなせる業なのだろうか。
いったい何が言いたいのか。そこには数限りなく言及すべきテーマがあるというのに、何も語られた感じがしないのはなぜか。多弁であるが故の不可解さ、というものを本書には深く感じたのだった。
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レオナルド・ダ・ビンチと手塚治虫との対比から見えてくるもの、脳の仕組み、1950年代が夢見た未来。心と感情。
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心は内臓にある。これはとてもおもしろい意見だと思います!緊張し過ぎるとお腹の調子がわるくなったり、おいしいごはんを食べると幸福を感じたり、生き物、人間って不思議です。心の無意識的な側面と意識的な側面を、人間の進化の過程から読みとっているところが興味深い。
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