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紙の本
ノンフィクションは小説よりもおもしろい。
2003/08/16 17:34
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:佐々木 昇 - この投稿者のレビュー一覧を見る
著者の講演録をもとに加筆訂正されたものであり、実際に講演を聞いているかのような感じで読むことができた。
この中で印象に残ったのは、著者の取材における視点というか、着想が非常にユニークであるということである。
その一つが石原慎太郎という人物を捉えるのに、石原慎太郎の父親から調べ上げ、実際にその足跡を辿ってみるということである。通常、石原慎太郎という人物を題材にしたとき、その本人を主体に調べ上げていくが、その一代前に遡るという発想には感心してしまった。
そして、その父親の仕事についても実地調査をしている。
宮本常一の「忘れられた日本人」に影響を受けたということであるが、その宮本常一の「聞き取り」の技法についても分析しているのにはただただ驚くしかない。
日本の学術の世界では「聞き取り」という実地調査に重きをおいていないようだが、これからは著者の活躍によって大きく変わってくるのではないかと推察される。
この本の中でおもしろかったのは、かつて司馬遼太郎が「花神」の主人公である大村益次郎を描くとき、豆腐好きの大村益次郎がどのような容器に豆腐を盛り、どんな薬味で、どんな醤油で食べたのかが分からなかったということだが、宮本常一は知っていたということである。
また、経済の低迷や犯罪の増加など閉塞感にあえぎ苦しむ日本の社会であるが、その対策もとられず、原因の追求すらなされていないが、その原因が語られているのは著者の観察眼の鋭さであると思った。
今後、佐野眞一という人間の動きから目が離せない。
紙の本
一人ひとりの「だから、僕は、書く。」
2003/04/13 21:52
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投稿者:夏の雨 - この投稿者のレビュー一覧を見る
一冊の本は、この広大無辺な宇宙への入り口なのです。(163頁)
この本はノンフィクション作家の佐野真一さんが、《森の「聞き書き甲子園」》という高校生を対象とした研修会で話された講演をもとに構成されたノンフィクション入門書である。しかしながら、この本に書かれている内容はノンフィクション作家佐野真一という一人の書き手としてのメイキングドラマではない。佐野さんが十代の高校生に語ろうとしたのは、読むという行為の広さであり、書くという行為の重さである。それは、研修会に参加した高校生だけへの問いかけではない。多くの本を愛する人々への、重要な問いかけでもある。
佐野さんは、この本について、bk1<オンライン書店>というインターネット書店の中でこのように書いている。「この本は、いささか大仰に言えば、自分と他人、自分と世界の関係にどう折り合いをつけていくかについて、語ったもので」「十代のためのノンフィクション講座と銘打ってはいるが、世界の見取り図を自分なりにつくりたいと考えている多くの人びとに読んでほしい一冊」であると。佐野さんがいうように、私は多くの本を読み、読んだ本の話を書くことで、「世界の見取り図を自分なりにつくりたい」と考えている一人なのだろうか。そして、この書評を読んでいるあなたも、そんな一人なのでしょうか。
私は何故「夏の雨」なのか。私の名前の由来は、宮本輝さんの「朝の歓び」という小説の一節から拝借したものだ。「あなたが春の風のように微笑むならば、私は夏の雨になって訪れましょう」。せめて夏の雨のように、私の書評が、読む人を暖かく包めるような内容でありたいという願いをこめた。それが、私の「だから、僕は、書く。」である。
本を読み、多くの人々がそれぞれの思いを書評として書く。本が喚起した喜びや悲しみ、笑いや怒り。それらが一人ひとりの言葉として紡ぎだされていく。きっと読む理由は様々だろうし、書くという理由も一人ひとり違うだろう。この本を読んで、あなた自身の「だから、僕は、書く。」を考えてみては。それが、佐野真一さんがこの本に仕掛けた、重要な問いかけだと思う。
紙の本
それでも、僕は書くことから、逃げられない。
2003/04/19 21:50
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:栗山光司 - この投稿者のレビュー一覧を見る
エンターティメントは、英語のエンター(中に入る)とステイン(突き刺す)という二つの言葉からできています。中に入って突き刺す。僕流に訳するなら「無我夢中」ということになります。決して「娯楽」ということになりません。いい本とは何か。僕は「無我夢中」になれる本が、最もいい本だと思っています。(58頁)
作者は大文字言説でなく小文字言説という事を肝に銘じている。
ー心がけてほしいのは、新聞の社説のようなものを書こうとは決して思わないことです。(中略)いわば、大きい言説で、誰にも反論できないつくり方になっている。だから、新聞記事から感動を覚えるということはめったにないのです。周りからの評価などまったく気にせず、まっすぐそのおじいさんなりおばあさんなりの言葉を伝えることが重要です。
一歩、足を踏み外せば、破綻するかもしれないという緊張感のある文を読むのも書くのも好きだ。でも、精神が弛緩した時、クリシエに寄りかかって、一丁上がりの文章を書いてしまう。要は自前の言葉なのだろう。言葉である限り歴史意識を持つことが要求される。そこのところが、あいまいで、半世紀をやり過ごした気がする。
記憶も記録もない記憶喪失の言葉を記号として、閉じこめても、言語システムのOSが維持されているなら、金輪際、言葉は記憶から逃れる事は出来ない。その意味でわれわれは、歴史から逃れることは出来ない。
だから、本は読まれ続けられるであろうとは、bk1の石井さんの言葉であったが、その通りである。
しかし、曲がり角にさしかかったのか、決断が要求される事態になったのか。暴力装置から巧妙に回避した戦後民主主義の恩恵を受けたわれわれに取って、この本で佐野さんが異議申し立てをしている「個人情報保護法」「人権擁護法」に関して真剣に討議すべき段階に来ているのだろう。
『新現実Vol2』(角川書店)でササキバラ・ゴウはーならば、他国に預託せず、しかも国家が暴力を放棄しようとしたら、どのような道があるのだろうーと問いを発する。
大塚英志編集『新現実Vol2』(カドカワムック178)の孫引きながら、柳田国男は民俗学の目的を【良き選挙民の育成】に置いたらしい。
佐野真一は民俗学者宮本常一について、この本でも他の本でも繰り返し語る。私も若者にオススメ本を尋ねられたら、『忘れられた日本人』(岩波文庫)と決めている。
書くことも、読むことも、勿論、考えることも、「我々はどこから来て、どこにいて、どこに行こうとしているのか」という永遠の命題に向けて発する問いである。佐野真一も愚直にこの言葉から本文に入る。この言葉は彼の嫌いなケチの付けようのない大文字言説だと思うが、かような非日常の想念を身近な日常の言葉に変換し、彼の言うエンターティメントの言葉で人々の心を刺し抜くスキルを高校生に語りたかったので、あえて、小文字言説を強調したのであろう。単純に大文字と小文字の二分法を採用しているのでないと思う。佐野さんの口癖は講演を聴いても、他の著書でも、「小文字」なので、あえて、大文字も忘れないで、と言いたい。
【星座として星を見る】想像力は抽象的な力、大文字に向かうエネルギーが生みだすものであって、天敵視すべきでないと思う。戦略として小文字を強調しているのであろうが、事実は裸の事実足りうるかは、これ又、難しい問題を抱え込んでいる。だからこそ、戦争報道の困難さはあるのだ。「それでも、僕は書く」。そこに佐野真一の歴史観が問われる。
紙の本
書評氏には申し訳ないけれど、私はこの本を薦めない。いい部分があることは分かった上で、ノンフィクションとしての品位を欠くと思うからだ、うん、凄いこと書いちゃった
2003/11/01 19:12
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投稿者:みーちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
この本は、森や山に関係する仕事で優れた技を持つ「森の名手・名人」たちに高校生がインタビューをして記録に残す「森の“聞き書き甲子園”の研修会での基調講演に、新聞社での講演を加え加筆訂正したもの。読者が聞く、はwebサイトからの転用だという。
『だれが「本」を殺すのか』の作者であることは分かっていたけれど、読み始めて、あの『東電OL殺人事件』も佐野と思った。この本については、佐野の執筆姿勢と関連していいたいことがあるので、最後にもう一度触れる。他に『性の王国』『カリスマ』『凡宰伝』などがある。悪いけれど、きわものめいたタイトルばかり。これについても、あとで書こう。
はじめに「何を、何のために書くのか」。第1章は、25年近くノンフィクションを書いてきた佐野が個人情報保護法の真実を語る「ノンフィクションとは何か」。第2章は、中学生の時初めて読んだ宮本常一『忘れられた日本人』についてと、小売に変革を起こしたスーパーの古い一面を「僕の旅はあの本から始まった」。第3章は、2004年から導入が予定されている裁判員制度や、我々を分かったような気にさせる大文字の言葉について「心を衝く槍を心に」。第4章は、生涯に十六万キロを歩き、73歳で亡くなった宮本常一。生涯に千軒を超える民宿に泊り取材をした男の生涯「十六万キロを歩いた男」。第5章は、文章に比してたった一枚で膨大な情報量を持つ写真というものから、好奇心を持つことを勧める「何気ない風景、なんの変哲もない物の中に」。第6章は、本とインターネット、知識と知恵について語る「「記録と記憶」の重さと怖さ」。おわりに「だから、僕は、書く」。そして、読者が聞く「佐野ノンフィクション」。
全編を通じて繰り返し言及されるのが宮本常一。私は宮本の作品を、一度も読んだことがない。今、遅ればせながら、読もうかなという気になっている。もう一つがダイエーの創始者である中内功についての自著『カリスマ』だけれど、個人の生涯を扱った本は、もっと時代が経たないと読む気がしない。
それから「大文字」「小文字」という概念が面白い。これに似たことが、藤原和博『心に届く日本語 [よのなか]教科書 国語』の中で、「マジックワード」として糾弾されている。水戸黄門の印籠ではないけれど、その言葉を聞いただけで人間が思考停止をしてしまうような、たとえば「構造改革」のような言葉に対する批判、これはそれを錦の御旗にして掲げる人間もだが、それを聞けばただ平伏する人間も許せないが、面白い。
石原慎太郎のことについても現在書いているようで(この本の出版時点の話で、今は『てっぺん野郎』というタイトルで出ている)、周囲からは、なんであんなファッショを取り上げるんだ、などと随分言われているらしい。無論、それに対して三代前まで遡って調べると、石原家も面白い、と答えているのだけれど、何故という質問には答えていない。そういう曖昧さに疑問を感じ、結局、売れ線を狙っているじゃん、と感じるのは私だけだろうか。
実は、そう感じた最初が、『東電OL殺人事件』を読んだ時だ。この本、本人が云うほどに取材をしていないのではないか、という思いがある。肝心の被害者の家族へのインタビューはなされていないし、被疑者の国に行っての取材も、あらかじめ日本で文章を書いていって、現地の家族に「この通りですね」と確認をする。これなんか、警察が事情調書を先に作っておいて、これだろう、と押し付ける姿勢と何が違っているのだろう。おまけに、帰国予定の便があるからと、途中で取材を切り上げるのだ。その姿勢に、何か「違うぞ」と思った記憶がある。そういう意味で、手放しでこの人の云うことを鵜呑みにはできない。
そういう過去の私の思い込みを覆す本だったか、といえば、むしろ「矢張り」ということになってしまった。ドキュメントと言う名のフィクションはご免である。
紙の本
著者コメント
2003/03/26 17:04
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投稿者:佐野眞一 - この投稿者のレビュー一覧を見る
この本は、いささか大仰に言えば、自分と他人、自分と世界の関係にどう折り合いをつけていくかについて、語ったものである。それを習練するには、多くの人びと会って話を聞き出すインタビューや、現場に足を運んで調査するフィールドワークの手法が有効だが、こうしたカリキュラムは、残念なことに、日本の教育現場でほとんどなされていない。
とはいえ、本書はノンフィクションを書いてきた私の「手の内」を明かしたタネ明かし本の類ではない。自分の「心の内」を私なりに明かしながら、心を耕すとはどういうことなのかを、高校生を対象にして、精一杯語ったつもりである。十代のためのノンフィクション講座と銘打ってはいるが、世界の見取り図を自分なりにつくりたいと考えている多くの人びとに読んでほしい一冊になったのではないかと、ひそかに自負している。
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