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「ノンフィクション」全集3冊目は社会(短篇)で、『人の砂漠』、『地の漂流者たち』、『馬車は走る』等からの作品。すべての始まりはこの作品という「防人のブルース」をはじめ、特に初期、ちょっと格好つけた沢木的タイトルのつけかたが目につきますね(笑)。足を使った沢木耕太郎のルポ(まるでフィールドワーク)の数々は、まさに彼の原点です。
防人のブルース
この寂しき求道者の群れ
灰色砂漠の漂流者たち
棄てられた女たちのユートピア
屑の世界
シジフォスの40日
鼠たちの祭
不敬列伝
おばあさんが死んだ
奇妙な航海
ハチヤさんの旅
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23、4歳であの切り口で社会を見つめることができていたことに驚く。今の自分でかろうじて同じ目線に立てたところだ。
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この本も買ってはいたが今まで読めなかった本の一冊だが、中に収められている作品はどれも読んだことのあるものばかりで、どちらかと言うと読んだことのある本の一冊と言った方が正確だ。沢木耕太郎の全集が出され始めた時、一番出して欲しかった全集の一つで、発売になってしばらくして書店に並んだものを買った。初版から僅か二週間で第二版を刷っていることから、結構人気があるのだろうか、などと思った。しかし、2003年4月だかに買ったまま、2年以上この本を読まずに放置していた。本をスーツケースに放り入れている作業中にこの放置に気付いた私は、今回の駐在で読んでやるかと、他の本と同様に放り入れて持って来た訳である。
私が沢木耕太郎の本を初めて読んだのは大学2年の時で、それはお決まりのように「深夜特急」だった。当時海外を貧乏旅行するのが非常に重要な趣味だった私にとって、深夜特急で描かれている沢木の旅は夢のような物語であった。沢木耕太郎の作品が自分の人生に重大な影響を与えることは無かったものの、その後も彼の雑多なルポを結構好んで読んではいた。そんな中で一番印象に残っているのは沢木耕太郎の初期作品群である「地の漂流者たち」であった。社会であまりスポットライトの当たらない地味な世界に焦点を絞ったユニークさに、面白さを感じた。この「地の漂流者たち」から数編を取り出し、それ以降の地味な世界について書いた他作品を所収しているのが、今回持ってきた「時の廃墟」だ。
どの作品も私が二十歳そこそこの頃に読んだ作品ばかりであるが、来月31歳になる私がおよそ10年ぶりに読んでみると、さすがに幾分老いているらしく、初めて読んだ当時と異なり色々印象が変わっているように思われる。当時はそれ程面白くないと思ったようなモノが何故か初めて読んだかのごとく新鮮に面白く、面白いと思っていた作品がそれ程でもなかったと言うのは、まあ良くある話だろうか。特に私が当時面白いなと思っていた「灰色砂漠の漂流者たち」は、会社勤めを始めて5年以上を経過したこの時点では、意外とさっぱりと読んでしまった感じがする。
「灰色砂漠の漂流者たち」は、沢木自身の巻頭ノートによると、1972年に書かれたものらしい。恐らく一番ギラギラしていた頃の川崎に勤める若い労働者たちに焦点を絞ったこの作品は、当時の産業構造について鋭く迫った作品ではなく、若年労働者たちの生態を書き綴ったものだった。私の両親より一つ年上の沢木耕太郎は当時25歳だった筈だが、この25歳と言うのは初めて読んだころの私より5つほど年上で、今の私より5つほど年下である。
10年前に読んだ時、まだ働くと言うことについて具体的なイメージを持っていなかった私がこれを読んで抱いたのは、労働の厳しさと言うより労働のやるせなさだった。ここに書かれている労働がシフト性の単純労働について描いたものが多かったからだろうが、その中で今まで印象に残っていたのが大学を中退して溶接工になった若者の述懐だった。最初は溶接を覚える段階で、昨日より今日、今日より明日、どんどん溶接が上手くなり、その溶接の瞬間の美しさを見るにつけ、自由自在に鉄を加工している楽しさを感じるにつけ、この仕事に対する遣り甲斐を感じていたらしい。しかし10ヵ月後に沢木が取材すると、溶接にはすっかり慣れて、毎日毎日同じ仕事で飽きていると言う若者がいる。作品中では会社の待遇について話が違うとか、不規則な生活で蝕まれるとか言うシーンが多々挙げ連ねられているが、私が当時最も印象に残ったのは、この溶接工の若者のエピソードだった。仕事を始めて、仕事に慣れる毎に無邪気に楽しさや遣り甲斐を語る単純さと、その後ある程度極める、と言うか慣れてしまって、仕事に情熱を殆ど失ってしまう擦れた感じは、何だか読んでて虚脱感を感じてしまった。自分が就職活動時に「比較的簡単に極められて一人前になれる職業でなく、一人前になるまでにかなり時間のかかる職業を選びたいと思って(今の会社を)希望しています。」と、今では上司になった面接官に言ったが、これはここで読んだこの溶接工のエピソードが出発点になっているような気がしないでも無い。選んだ仕事にすぐに飽きることに恐怖感を抱いていたと言うのは、否定できない。
あれから10年程経った今日、改めてこの作品を読んでみた訳だが、この部分を読んで当時のあの感想を思い出した。しかし、当時は結構強い印象を持ったこのエピソードは、今回は私には特に響かなかった。何でだろう。
それより今回読んだ中で若干気になったのは、次のものだった。
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「進水式は造船所の花だ。…紙吹雪の中、船台がゆっくり滑り出す。白い波を立てて海中へ。ほんの数十秒間のことだけれど、何ヶ月も費やして建造した巨船が進水したときの真の感激は、実際作業に当たったものにしかわからない」 (白木昇・訓練生・十九歳『伸びゆく力』労働省婦人少年局編)
たとえ数十秒間であっても、自分の仕事の確認をこのような劇的な形ですることが可能な労働者は、例外的であるといえよう。
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このような例外的劇的シーンを得られることは感動的であると沢木耕太郎も肯定しているような書き方であるが、果たしてこの造船にかかわった全ての人が、この劇的なシーンで感動しているかと言えば、違うと思う。中にはこのシーンにも慣れてしまって、あまり感動していない人もいると思うし、達成感を抱いていない人もいると思う。
私の仕事は石油化学プラントを作る仕事だが、金だけで言えば数百億円から数千億円の規模のプラント建設におけるハイライトは、完成の瞬間だろう。私自身、就職活動時に「プラントに火が入った瞬間の達成感は何物にも変え難い」と言う感動的な文言には無条件に素晴らしさを感じた。しかし、数々の困難を乗り越えて完成したプラントを見て、あまりにも感動が薄くて、「これが俺のやりたい仕事だったのかな」と疑問を感じる人間もいる。それも、この瞬間を立ち会ったにも関わらず、そう感じた人間が一人や二人ではないのである。
何だか全然本筋と離れた違和感を持ってしまった訳だが、5年働いて確かにすぐに極められる仕事でもなく、飽きる仕事でもなく、職場環境も特に文句が無い会社に勤めているが、だからと言って常にやりがいを持って仕事をできると言うほど単純じゃないんだな、と言うのが働き始めて持っている感想で、そんなこんなで10年前とは違って、今回は何だか軽く読み飛ば���てしまったのかな、なんて思ってしまった。
採用活動の手伝いをしていて一番多い質問が「どんな時に遣り甲斐や達成感を感じますか?」と聞かれることだ。学生は殆どが劇的なシーンを期待しているが、残念ながら私が仕事をしながら遣り甲斐とかを感じているのは全然小さいことが多くて、例えば最初見たときはさっぱり分からなかった現場の土質レポート、丁寧に読んでいくにつれてどういうことか分かったとか、設計やってて大学で習ったあれはこうやって使うんだと分かった時とか、現場で下請けが打ったコンクリートの仕上がりがしっかりしてるのを見て安心するとか、そんな日々の小さい業務の中に、何つうか小さい感慨を持って仕事をしていると言うことが多い。勿論お客さんに感謝されたとか、設計したものが形になっていくとかもあるけれども、それよりこう言う小さいことの積み重ねに遣り甲斐と言うか、仕事をしていて嬉しいとか楽しいと思うことが多い。これを学生に言うと、一様に学生は割り切れない表情になるが、それは無理も無いかなと思う。私も学生時代にこんなこと言われた、詰まらない事を言うもんだと思うだろう。
この「灰色砂漠の漂流者たち」に描かれている仕事と私の仕事を対等に比較することが正しいとは思っちゃいないし、むしろ間違えていると言った方がいいかもしれない。しかし、10年前に読んだような労働に対するやるせなさは殆ど感じなかったのは、沢木耕太郎が描いた世界がそのままなんだと受け取るような、そんな単純な読み方が出来なかったからだと思う。
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養蜂家「ハチヤさんの旅」が読みたかった。作者が未知の世界に踏込む取材記録。
この他に3作品が印象的。
防人のブルース:自衛隊
鼠達の祭:相場師
お婆さんが死んだ:兄のミイラと暮らす