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作者が死ぬまで描き続けた傑作です。完結はできませんでしたが、インタビューによるネタバレが全集に掲載されています。
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第7~9章。ガリラヤ湖の魚に拠るイエスへの、チーナカ豆に拠る釈迦への弾劾が黙狂、矢場徹吾によって語られる第7章は圧巻。「死霊」後半は妄想の対話篇と云ったスタイルに終止する。「自同律の不快」に拠り「未出現宇宙」から創出されようとする三輪与志の「虚体」が明らかにされようとする。そして、ぷふい、バッハ「フーガの技法」の如く、唐突に終息する。
巷間云われる程には難解ではない。理解しようとするから難解になる。存在の不安を感じる人が、感覚的に読めば、楽しめるはずだ。 425頁
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黙狂の矢場徹吾が遂に口を開く。“決していってはならぬ最後の言葉”を語り始める第二の山場。そして翌日の昼、主要人物が一堂に会する津田安寿子の誕生祝いの席上、果して何が起こるのか。七章から最後の九章までを収録。精神の“無限大”をつきつめ、文学の窮極大飛翔をはかった傑作、埴谷雄高の『死霊』は幕を閉じる。だが、埴谷が生涯かけて追究した“存在の革命”は未来へ託された―。
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最終巻。七章、矢場徹吾が延々と語る物語が肝だが、最後の章は尻切れトンボ。
津田安寿子の誕生祝いで多くの人物が集結するのに、全員がじゅうぶんに喋る前に終わってしまっている。おそらく、このパーティーの場は次章にも続く予定だったのだろう。
しかも肝心の、主人公三輪与志は結局黙り込んだままで、ほとんど何も語らず何も行動しないままに終わってしまう。彼の思想を代弁するように、周囲の人物があれこれ語っているだけだ。こんなに変な小説はない。たぶん、この小説はまだまだ続くはずだったのだろう。
埴谷雄高自身、生前「この小説は絶対に終わることができない」と語っていたはずだが、それにしても、これではいくらなんでも中途半端すぎないか。まあ、死んでしまったのだから仕方がない。
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確かに読み辛いが、無茶苦茶面白かった、というのが率直な感想である。長過ぎるように思われる個々のセンテンスも読み進めるうちにクセになってくる。
最近、熊野純彦が『埴谷雄高――夢見るカント』という本を出したが、“夢見るカント”とはまさにこの作家の資質を言い表していると思う。埴谷雄高の文学は、「人間はおろか、あらゆる生物、あらゆる存在が夢を見ているのではないか」という妄想から出発しており、カントの超越論的弁証論のその先を夢想する文学だからである。
確か、寺山修司だったと思うが、かつて青年だった大人が恐れるべきなのは、青年の時のおのれの視線である、というような意味のことを書いていた。その意味で、埴谷はその言葉になんら抵触することのない生涯を貫いたといえるだろう。作家は、青年期に抱いた、宇宙と自己についての疑問を「自同律の不快」と「虚体」という言葉を使って、この作品の中で一生追究し続けたからである。
50年以上も書き続けて、ついに未完に終わったのは、この作品の持つテーマの巨大さゆえ仕方ないとも思われるが、残念でならない。あと50年あれば!、必ずや完成していたであろう。最後に、釈迦と大雄(ジャイナ教の始祖)の対話を構想していたとのこと。読みたかった!
『死霊』は全9章より成り立っているが、山場といわれる5章と7章は、圧巻というほかない。未完であるが故の本作品の欠陥を補って余りある。『死霊』は、―もしこんな気障な言い方が許されるとすれば―今も世界文学の中で、燦然と暗黒の光を放ち続けているように思われる。
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「黙狂」の矢場鉄吾が語りだす『決して言ってはならぬ最後の言葉』(これだけ見るとアイタタだな)。宇宙史=過誤史。
与志(と安寿子)の「宇宙に初めて創出された《虚体》」の問題が本題に入らずに終わってしまった(ように見える)のがな…
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第七章「最後の審判」は一気読みした。
イメージの爆発がインフレーション起こした感じ。
しんどかったあ。
頭は使わずに読まないとこんな話は読んでられん。
埴谷雄高氏はこの話を書くために一生を費やしたような人です。
執筆に40年。気の長い話だ・・・。
その間どうやって飯を食ってきたのか・・・
「不合理ゆえに我信ず」・・・この意味が分かりますか?
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私は埴谷雄高の小説が大好き。なのでこの死霊は外せないコレクション。何度も読み直している。読む度に解釈が変わったりもする。未完のいうのがまた何とも言えず私を魅了する。
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グッと堪えて堪えて読み進めたのに未完なんだよなぁ。
いや、読む前から知ってたけど。
でも、偶然のなせる業なんだろうけど、
尻切れトンボというよりは、好感の持てる不思議な余韻が頭に残った。
あと「チーナカ豆」という名詞が(笑)
それにしても主人公が碌に動かないままだったねぇぇ。
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第3巻には第7章〜第9章を収録。
結局、『死霊』は未完に終わったのだが、ラストシーンはこれはこれでアリ。尻切れトンボという印象は拭えないが、いずれにせよ主題自体がそう簡単に結論が出るものではないので、敢えてここでおしまいにするというのも方法のひとつだろう。
1〜3巻纏めて。
生と死、宗教、如何に生きるか、人間とは何か、思想とは……等々、普遍的なテーマを延々と議論している本書は、『1人の人間のインナースペースを小説という形で外部からのアクセス可能にしたテクスト』とも読める。というかそう読んだ方が個人的にはしっくりきた。
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カントの影響や露骨な反出生主義が楽しいけど、個人的にドストエフスキーが好きじゃないのでこれもあんまり好きじゃなかった。作品としては優れていると思うけど、ただ合わなかった、好みじゃなかった、というだけ。
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埴谷雄高 「 死霊 Ⅲ 」
最終巻でも 著者の思想体系は掴めなかった。ドストエフスキー的な面白さを感じるのは 1章から5章まで。7章以降は苦痛だった。
序章やエピグラフとの関係なく 完結した感じ。妄想を広げるだけ広げた実験小説かもしれない。
埴谷雄高の思想を体系化した本があったら読んでみたい
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巨人の形而上小説。20年ぶりに再読。虚体のこと以外考えられなくなってしまった男たちとそれに振りまわされる女たち。ユーモラスな場面を挟み油断させておいて、突然激しく読者を叱責する。分裂の気質。
4兄弟は、現実には生きていけないはずなのに動き回り、激しく沈黙を貫き、一転冗舌に虚について語り尽くす。その存在自体が虚無。思索することは面白いのだということを思い出させていただいた。
前回よりも理解できたと思うが、もう一回読みたいものだ(そんな機会があるだろうか)
ドストエフスキー、プルーストが苦手と言う方にはおすすめできません。