投稿元:
レビューを見る
旧い学問領域を横断的に渡り、現実を捉える新たな視座を得ようとする挑戦が「カルチュラル・スタディーズ」という学問だと読んだ。その立体的な思考は二項対立的な議論や理念的な論調ではなく、物事を文化的・政治的状況の複雑な系が紡ぎ出す姿としてとらえていこうとする。そんなカルチュラル・スタディーズの視座に共感した。
前半はカルチュラル・スタディーズの歴史を辿りながら、グローバル化、文化について論じられている。後半は空間論や広告、天皇制、ナショナリズムなどより具体的な対象について論じられている。前半は後半に比べると専門性が高く、かなり読み応えがある。
「グローバル化」という言葉が持つ画一的なイメージに対するエクスキューズには頷いた。また、メディアに対する技術決定論的な論調への疑義(「グローバルな社会変化がメディアの技術的特性によってではなく、むしろ権力のダイナミズムや諸々の制度的実践の結果である・・」)などは何となくそう思っていたものが活字になって眼前に現れたことで自分の中で明快になった。
また自分の専門領域である建築に於いては、バルトらの記号論を用いて建築を捉える論調がポストモダンと期を同じくして行われており、それらの語りには魅力を感じつつも、現実を語る言葉としてはどうもリアリティを持つことが出来なかったが、この本を通してリアルな建築・都市を諸々の力学の交点として立体的に捉えることの可能性について自分なりに考えていくきっかけが掴めました。
建築を学ぶ方にもお薦めできる1冊です。
投稿元:
レビューを見る
ギアーツ「解釈学的展開(interpretive turn)」p8
文化は記号的に構成され、解釈され、さまざまな不平等、差別と排除を伴って政治的に構築されている。この詩学=政治学的な場としての文化を語ることは、それまで散々になされてきた文化論の語りとはまったく異なる地平を開いていく。「カルチュラル・ターン(cultural turn)」とは、まさにこのような知的=歴史的局面において、すでに述べた言語論的ないしは解釈的転回を受けながら、現代の社会理論のなかに浮上してきた「文化」への新しいまなざしを指している。p13
カルチュラル・ターンは、一連の文化的マルクス主義の系譜を背景に、社会のなかでの「文化」という領域限定に対する異議申立て、すなわち「文化」を社会の実践にかかわる脱領域的な問いの場として組み立てなおしていこうとする企図を含んでいるのである。p25
【T・S・エリオットの「文化観」】p27
①まず文化は有機体的構造を有し、「一つの文化内部において文化の相互的伝達を保育する」
②文化は「一つの星座を構成し、その各構成分子が互いに他を利することによって結局全体を利するごとき構造」をもつ
③文化には宗教におけるような統一性と多様性のバランスを有する
⇒当然、エリオットのこの文化概念は、無意識の身体的なレベルも含み込んでいた。文化は習慣であり、信仰である。そのような日常的な信仰を枠づけるのが、ほかならぬ国民国家の空間であった。エリオットにとって、文化とは「国民の特性をなすすべての活動と関心を包含する」ものであった。
文明=グローバリズムの専制に対して一定程度の抵抗力を備えているが、同時に絶えずナショナルな表象と結びつくなかで、強力な抑圧作用も帯びていくのである。必要なのは、「文化」が内包するこうした両義性を捨象するのではなく、むしろこの両義性そのもののなかでメディアとテクスト、テクノロジーとオーディエンスの経験を貫いて作動している分裂的な屈折に、正確に照準していくことである。p35
70年代から80年代にかけて、英国のカルチュラル・スタディーズでは、日本の場合とは異なり、文化記号論的な視座がイデオロギー論的な視座と結びつき、さらにそうした「読み」を担うオーディエンスの階級やジェンダー、エスニシティの節合が、彼らの日常的実践のなかで問われていた。彼らは人々がテクストを生産し、消費していく社会的な場を、まさしく諸々の社会戦略が幾重にもせめぎあい、交渉しているマテリアルな場として捉え返したのである。この時点で、記号論やポスト構造主義の導入に日英で大きな違いが生じた背景には、ウィリアムズやホールのカルチュラル・スタディーズが、まさにこの時期に、ポスト構造主義の諸潮流とグラムシ的なマルクス主義との実り豊かな対話を成立させていったのに対し、日本ではすでにそうした対話の基盤が細々としたものになっていたことがあるように思われる。p55
【レイモンド・ウィリアムズのマスメディア研究批判】p67
「マス・コミュニケーション」という現象をさまざまな力が複雑に作用しあう社会の文脈から切り離し、効果の「原因」として抽象してしまう。文化を扱う多く��社会学的研究が、対象を社会的、歴史的文脈のなかで理解することや、当事者の意図や観察者の状況への関与を重視してきたのとは異なり、マス・コミュニケーション研究に関する限り、理解社会学的な契機が排除されて社会的機能や社会化の概念に基づく科学主義が支配しているのだ。そして、このように脱文脈化された地平において、マス・メディアが「暴力」や「非行」といった逸脱行動、投票行動や消費行動の「原因」としてどう機能しているのかが測定されるのである。
【スチュワート・ホール「エンコーディング/デコーディング」】p77
マス・コミュニケーションは、社会的文脈から抽象された「送り手」から「受け手」へのメッセージの伝達なのではない。むしろそれは、現代資本制に深く埋め込まれたテクスト=記号の生産と消費の、そこにおいて異なるコードがせめぎあい、節合していく重層的に断裂を孕んだ過程なのである。
デコーディングはエンコーディングに従属しているのではなく、後者からの相対的自律性を保持している。メディアのテクストは、その生産と消費の両面で、また両者の重なりのなかで諸々の解釈と記述、実践がせめぎあう記号的な場なのである。
《都市エスノグラフィーからサブカルチャー研究へ》
初期シカゴ学派のロバート・エズラ・パークは現代のメトロポリスにおける様々な人種、階層、職業の集合的心性や地域の生態的構造をめぐる人類学的探求の必要性を提起した。「(都市とは)一種の心の状態であり、慣習や伝統の集合体であり、またもともとこれらの慣習のなかに息づいており、その伝統とともに受け継がれている組織された態度や感情の集合体でもある」
↓受け継がれ
Cf. ネルス・アンダーソン『ホーボー』
ハワード・ベッカー『アウトサイダー』:ラベリング理論の定式化。
ホールらはグラムシを援用しつつ、従属的な階級が支配的な階級との折衝のなかで彼ら自身の文化と社会形式を絶えず生み出してきたことを強調する。労働者階級の文化とは、そもそもそうした折衝を通じて形づくられてきたものであった。若者たちのサブカルチャーも、これと同じような意味で親世代の文化や支配的な文化との折衝の実践である。それらは決して、階級的現実を所与の前提とする「想像的」な構築物というだけではないのである。p102
ポール・ウィリス『ハマータウンの野郎ども』「耳穴っ子」
「<野郎ども>が学校が押し付けてくる公式的規範を茶化し、それを超える認識の地平と実践の様式を獲得していくまさにこの過程が、これを可能にした労働者階級の文化との連続性を通じ、彼ら自身が「自分の将来をすすんで筋肉労働者と位置づけ」、そのような存在へと自己を成形していく過程となっているのである」p106
→「野郎ども」のサブカルチュラルな実践において、学校的規範からの自由は資本制への自発的な従属という結果をもたらしている。
ジョージ・マーカス『文化を書く』「ウィリスらは、ローカルな経験の記述を否定するのではなく、むしろ抽象的に考えられた社会秩序のもとで全く固定した因果関係にあるとみえる出来事と行動の関係を、エスノグラフィーを導入することで再び複雑に、かつ豊かにした」(+の側面)p111
「あるサブカルチャーへの関与の仕方が、それぞれの若者でどう異なっているのかであるとか、サブカルチャーの内部での矛盾や対立がどのように発生していくのであるとか、あるいはそのサブカルチャーがどのような媒介的契機のなかで増殖し、消費され、また崩壊していったのかなどといった問いには、あまり満足のいく洞察がなされていない」(−の側面)p112
⇒本来なされるべきであったのは、階級の境界線をマクロな構造論から演繹するのではなく、むしろせめぎあう実践のなかで構成されているものとして記述し直していくことだったのではないか。
若者たちの文化実践を世代や階級、人種などをめぐるより大きな権力のシステムと結びつけることには成功しているが、逆に、それぞれの当事者たちにとっての行為の意味という問題が背景化されてしまうという逆説的な事態が生じている?
【グローバル化と脱―配置される空間】p154
デヴィッド・ハーヴェイ「時間―空間の圧縮」:「われわれが自分たち自身に世界を表象する仕方をときにはまったく根本的に変えざるをえないほど、空間と時間の客観的性質が根本的に変化する過程」
【スケープからグローバリゼーションを捉えるアパデュライ】p158
様々なスケープの重層的な乖離構造としてグローバル化を捉えるアルジュン・アパデュライは今日のグローバル化が、旧来の中心―周縁モデルや支配―従属モデルだけでは到底捉えきれないような、地球上で様々なレベルの空間が互いに離接的(disjunctive)に重なる複雑なフォーメーションを形づくっていると考えた。そしてこのフォーメーションを、エスノスケープ、メディアスケープ、テクノスケープ、ファイナンススケープ、イデオスケープというよく知られた五つの社会空間の次元が、矛盾と分裂を含みながら離接的に生きられていく過程として把握した。アパデュライが強調したのは、これらの「スケープ(想像される空間)」の相互の関係が、決して体系的なものでも統合されたものでもなく、矛盾と分裂を幾重にも孕み、またそれを増大させている点である。今日では、人、イメージ、思想、技術、資本のすべてが、各々の仕方で高速かつ大量に地球上を移動しており、相互の分裂や乖離が支配的な現実になっているのである。
【グローバル化】p188
グローバル化は、決して文化帝国主義論者が示したような地球規模で進行する単一の過程なのではない。しかしそれは、グローバルな文化的影響が、単にそれぞれの土着の文化に吸収され、既存の文化秩序に組み込まれていく過程なのでもない。それはむしろ、自己と他者、ネイティブとエキゾチック、グローバルとローカルといった諸項が何重にも輻輳し、無数の連動する諸過程が構成されていく複合的な過程なのである。この過程において、移動する文化とそれを受けとめていく主体、その文脈のすべてが相互に結びつきながら変化しているのだ。
【グローバル/ローカルの二分法を超えて】p188
分裂的、離接的な傾向を強める現代文化のグローバルな編制において、機軸的な役割を果たすのが社会的実践の様態としての想像力である。この想像力の作用について理解するのには、ベンヤミン的な意味での複製されたイメージや、B・アンダーソンのいう想像された��同体、集合的な記憶や想像力といった問題を結びつけ、想像力を社会的実践の様態として捉えていく必要がある。この意味での想像力は、単なる幻想ではないし、エリートの占有物でも、頭の中だけで思案されるものでもなく、メディアや人々の動きと交渉のなかで編制された社会的実践の様態なのである。
アパデュライはグローバル化のなかでのこうした想像力の布置を、エスノスケープ、メディアスケープ、テクノスケープ、ファイナンススケープ、イデオスケープという5つの文化的フローの離接的な関係として把握する。ここで「スケープ」という接尾辞が使われるのは、これらがどんな視覚からも同じように見える客観的な関係を指し示すものではなく、それぞれ歴史的、言語的、政治的に状況づけられた多国籍企業や国民国家からディアスポラ集団や家族、個人までの諸レベルの主体の位置に応じて、異なる仕方で屈折して構成されるものであることを強調するためである。彼はアンダーソンの「想像された共同体」としての国民の概念を念頭に置きながら、「想像された世界(imagined world)」が、これらの5つの次元の矛盾と分裂、ねじれを含みながら生きられていく過程を記述しようとする。
彼は、脱属領化(deterritorialization)を今日のグローバル化の中心的な傾向として把握する。グローバル化とは、帝国的な文化が世界各地の文化を画一的してしまう過程でもないし、それぞれのローカルな文化が外来の力に抗して文化的自律性を保持していく過程でもない。それはむしろ、様々なポジションによって文化の地景が限りなく遠心的に分裂し、錯綜していく過程なのである。
★アパデュライの関心の一つの焦点は、エスノスケープとメディアスケープの離接的な関係、つまりグローバルに広がる電子的な情報メディアと、国境を越える人の移動が分裂的な仕方でわれわれの集合的な想像力に及ぼしていく作用にある。彼は、電子メディアと大量の移動によって特徴づけられる現代世界の社会的想像力は、流通するイメージとまなざす主体の両方が同時に流動状態に置かれるため、固有の不規則性を帯びてくるのだと主張する。アパデュライが示しているのは、出来事のイメージと読み手の両方が同時に絶え間なく移動し続ける世界の中で、純粋に解放されたものでも、管理され尽くしたものでもない社会的想像力が、日常的な実践を通して、グローバルなものとかかわっていく係争的な空間である。この空間の中で、エスノスケープやメディアスケープは従来のローカルな文化やナショナルな文化の属領化された地景を根底から変容させつつある。
【言説=メディア編制としての近代天皇制】p240
「伝統の発明」には最初から電信からラジオまでの多くのメディアが深く関与していた。近代天皇制は、近代日本のメディアのヘゲモニックな編制の中核をなす機制として、19世紀末から20世紀にかけて発明されたのである。
★【商品としてのナショナリズム言説】p262
一定のメディア環境とそのなかで流通していく情報の量が、特定の言葉やイメージと結びついたアジェンダを設定し、人々はそれぞれが帰属している集団や世代のフレームによって「能動的」に情報を読みとり、あるイデオロギー的状況を構築していくのだ。問われなければならないのは、言説��内容だけではなく、それがいかなるメディア環境のなかで、どのような場で、誰に消費されているのか、その際、人びとはそれぞれの社会的なポジションにおいていかなる思考のフレームを作動させていくのか、またここにおいて情報の量が思考に対する圧力としてどう作用しているのか、といった過程全体なのである。
スチュアート・ホールの「テレビの利用」という教育番組。p340
ようやく70年代以降、①記号論の導入②イデオロギー分析の革新③メディアの生産と消費についてのコンテクスチュアルな把握という三つの契機を経ることで、テレビや大衆雑誌、広告などのメディアも射程に収めたメディア教育が大きく進展していくことになる。p347
アルチュセールのイデオロギー装置論からグラムシの文化ヘゲモニー論への転回。p348
オーディエンスは単にその心理的な性向によってテクストを能動的に解釈しているのではなく、むしろそうした「能動性」が、社会的差異の重層的な編制のなかで分節され構成されている。p349
投稿元:
レビューを見る
メディア・リテラシーについて上杉氏が参考にしているので読んだ。ほかの部分も含めて論調が様々に異なっている。あとの方を読めば、様々な論文に掲載されたものを集めたものであることがわかる。
幻のオリンピックについてのメディアからの説明があるので、改めて読んでみるのもいい。
投稿元:
レビューを見る
前半はカルチュラル・スタディーズの理論と歴史、後半は日本にフォーカスを当てた都市・広告・ナショナリズム・教育など具体的な対象についての分析がメイン。理論的な部分と実践的な部分が一冊にまとめられていて、どちらも入門的な部分からさらに一歩踏み込んだ内容のため読みごたえがある。Ⅱ部のグローバル化と文化地政学とⅢ部のメディア天皇制とナショナリズムが面白い。渋谷の表象の変化やメディアにおける天皇の表象、オリンピックとナショナリズムを結ぶ言説の歴史は興味深かった。