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歌、時代背景、送り手と受け手、メディアの奥にあるものを、著者が一人称的に追っているのに好感が持てる。
発売自粛(?)の楽曲への追求があっても面白かったのだが、本筋から逸れすぎるかな?
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個人的には子供のころ親父のレコードで聞いた岡林信康の「チューリップのアップリケ」や「くそくらえ節」などを知っていたので,とても興味深い内容.「放送禁止」というのが実はメディアが自縄自縛で作り上げた虚構だったことが驚きだった.「竹田の子守唄」の詞を解き明かすくだりはスリリングであると同時に,一体この社会とは何だろうか,と考え込んでしまう.「自分で考える」という行為がどれだけ大切か,「表現」に関わる人は必読だと思う.
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テレビ番組「NONFIX」を見て以来、ずっと気になっていた本でした。
放送禁止とされた歌の経緯やその背景、更には日本社会でタブーとされてきた「部落差別問題」に至るまで、深く考えさせられる内容です。
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ルポというにはずいぶんナイーブな文章です(なぜだか「バトルロワイヤル」を思い出してしまいました)。「放送禁止歌」の真相におののく著者の心のゆれがそのまま伝わってきます。【以前読んだ】
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しんめーさんちの本棚から奪った。
人の本を読むって面白いね。知らぬ間に自分が偏った本選びをしてることに気づいた。
メディアに関わるものとして、現存の体制に疑問を持たず思考停止に陥ってはならないと、放送禁止歌から始まり差別、部落問題などに切り込んで筆者は何度も何度も繰り返す。
そうだ、追従は、慣れはこんなにも恐ろしいものだった。
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以下のページで感想書いてます。http://blog.livedoor.jp/subekaraku/archives/50239035.html
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放送禁止歌を禁止する主体はどこにもなくメディアの自主規制にすぎなかった。著者の森 達也はオウム真理教を内側から取材し撮影したドキュメンタリー「A」の監督でもある。
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映画「パッチギ」のメイン曲にもなっているフォーク・クルセダーズ(フォークル)の「イムジン川」(北朝鮮の民謡)。この曲は、発売日直前になぜか突然、発売禁止になってしまう。もちろん、テレビで放送するもの禁止。これ以外にも、なぜか放送してはいけない「放送禁止歌」なるものがあるらしい。「なぜ放送してはいけないのか?」「その根拠はなにか?」を追求したドキュメンタリー。結構、感動します。≪差別の内実は変わっていない。その現実を踏まえながらも、でも萎縮してもいけないのだ。放送禁止歌という存在が象徴するように、僕らは視界を自ら狭めて思考を停止させてしまう傾向がきっとある。見ることなく、聞くことなく、したり顔(得意そうな顔)で語ってしまうことがきっとある。難しいことじゃない。見ればよい。聞けばよい。話せばよい。知ればよい。それだけで視座は確実に変わる。それだけは間違いない≫
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「放送禁止歌」という、放送してはいけない歌がある。・・・といわれ続けてきた。しかしその実態は想像を絶するほどに輪郭の希薄なものだった。
規制をしている主体は誰なのか?
言論の自由、表現の自由との関係は?
なぜ放送禁止になるのか?
という疑問を超越するほどに事実は曖昧なものだった。
「竹田の子守唄」が部落差別的だとして放送禁止歌にしていされた。その理由は部落解放同盟の執拗な糾弾があったからだと人々は思い込んでいた。が、事実は違った。
などなど、日本人の心の奥底に潜む仲間意識、そしてその外側にある他者を排除する意識、ひいては日本人の差別意識にまで言及するこの作品は、単なるルポルタージュ以上の価値がある。
目を背けてはならない。
そして、知ろうとしなければならない。
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放送禁止歌、といいながら、なんとどの歌も禁止になったことなどない、いうとんでもない話になる。
誰も抗議などしていないし、誰が自主規制したのかすらわからない。あえて何がやったのかというと「空気」というか、同調圧力というか、この国を覆っているある気味悪いものだろう。
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何故放送禁止にならなければいけなかったのか…ダレも知らない、答えられない。自分で考えて、知るコトの大切さを教えられた気がする。
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すっかり森達也ワールドが好きになってしまった。もめ事を事前に避けようとすることで追いやられてしまった歌がたくさんあるのだと認識。ついでに放送禁止歌のドキュメンタリー映像もネット上で見ることができて感動。
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放送禁止歌とは、民放連が作った規制ではない
各局が自主規制しているとのこと。
メディアは、臆病だと思いました。
「・・・・・・結局、言葉に罪はないんだよね。使う人の意識の問題なんですよ」 p.43
(ノートルダムの鐘撞き男の邦題表示について)日本の配給会社は、邦題ばかりかビデオパッケージに表記する原題まで、ご丁寧に変更したわけだ。
・・・それだけの情熱とエネルギーがあるのなら、表現と規制について、もっと突き詰めて考える時間だって作れたはずだと思う。あるいは小人達のテレビ出演への抗議に、「善意のつもりかもしれないが筋違いだ。彼らにもテレビに出て生活費を稼ぐ権利はあるのだ」と言い返すこともできたと思う。欧米の文化や習慣を全面的に追従する気は僕にはない。しかし差異はある。確かにある。非常に微妙な亀裂だけど、でもその断層は絶望的なまでに深い。 p155
僕の環境は激変したけれど、放送禁止歌をめぐるメディアの環境は変わったのだろうか?僕はそうは思わない。オンエアしてもどうやら処罰など受けないらしいと気付いたメディアが、商品になりそうな歌を物色しただけのことだ。『亜麻色の髪の乙女』が大ヒットしたことと構造はほとんど変わらない。『ヨイトマケの唄』のような名曲が再び日の光を浴びることの意味は別にして、短絡的な規制が刹那的な解除に裏返っただけだ。本質は何も変わっていない。
・・・逆に言えば本質など簡単には変わらない。変わらないから本質なのだ。
でも、組織としてのマスメディアは髪の毛一本変わらなくても、そこに帰属する人たちが少しずつ変われば、いつしか構造は変わり組織も動く。 p253-254
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2008/04/02 借りた本。
タイトルだけで何気なく読んでみたのですが、深ーく考えさせられる一冊でした。
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「政府は圧力をかけていない」
かけていないんだろうなあ、と思います。
この国で「権力」と呼ばれているものの多くが「自粛」なのです。