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他声のエクリチュールとしての映画。
断片の積み重ねが文脈となるのではなく、文脈が事後的に断片の意味を決定する。
マクガフィン、意味することの取り消しを求めるシニフィアン。
退蔵してはならない、交換せよ。
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内田先生は話がうまい。わかりやすいとはちょっと違う。解った、と思わせるのがうまい、ということ。その辺がねーあとあと
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【目次】
まえがき
第1章 映画の構造分析
物語と構造/テクストとしての映画/欠性的徴候/抑圧と分析的知性/「トラウマ」の物語
第2章 「四人目の会席者」と「第四の壁」
第3章 アメリカン・ミソジニー−−女性嫌悪の映画史
あとがき
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楽しく読めました。
心底「へー!」って感じだし、実際先生の言う通りなんだろうけど、実際映画観てるときにそこまで頭がまわりませーん
てのが本音。
ただ、ハリウッドの映画に対する姿勢がちょっと改まったのはよかったかな。
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大学の異文化コミュニケーション論の授業で読んだ本。あの頃は「なんでこんなの読まなきゃいけないんだ」と思っていたが、今また手にとって読んでみたい。
哲学や精神論などの難解な言葉を、有名な映画の中でじっくりと説明してくれている。映画も一緒に見るとなお分かりやすい。ただの批評本ではないですね。
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映画には何度でも見たくなる名作というのがある。そういうものには「作品の表面上で進行していく物語とは別に、なんだかよくわからない何かが表現されているのだ」、という説をラカンやバルトやフロイトの現代思索を用いるとうまく説明できてしまう、ということをもってしてその現代思想のほうを解説するという内容。映画を見ていると何でこんな変なシーンがあるのだろう?と思うことが多いのか、とか、そもそも人はなぜ「物語」を楽しいと思うのか?、とか、その視線は誰のものか? とか、映画好きなら読んでおいても損がない、映画の作品の評論ではなく、映画を題材にしたあくまで現代思想の解説本。
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そんなに実際の人間、理論通り行くのかしら…?という疑問は若干残りましたが、分析と映画が両方好きならば楽しめると思います。
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有名どころのエンタメ作品を題材に、思いもよらぬ観点から分析を試みる。良くも悪くも内田樹らしい映画論であります。
読み物として非常に面白い。
しかし、あまりにも無鉄砲な切り口は映画評としてどうかとも思うが、実はそれらすべてを否定するような前置きを前段で語ってたりもする。
そんなのもまた内田樹らしくて面白い。大人しく煙に巻かれておこう。
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「エイリアン」好きの友達にこの本の話をしたら
「納得できるわ~」とのこと。
「エイリアン」「大脱走」「ゴーストバスターズ」
有名だけど、どれもちゃんと観たことなかったな~
特に大脱走が観たくなった。
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映画の話であり、物語の話。
アメリカ人は女性嫌い?
幽霊退治映画の形をした精神分析(これを読むとほとんどの物語が精神分析療法をモチーフにしてるみたいに見えて困る)
そして視点の話
映画の画面の視点は誰のものなのか。登場人物の?モブの?それとも神の視点?というか神って誰…。これはもちろんマンガにも小説にも絵画にも、そして自分の記憶にも言えることだけど。視点が誰かによって、写される情景の意味合いは変わる。そして、カメラが写さない場所には何があるのか。
そんなお話。この世の全ては物語っていうお話。
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図書館より。
有名ハリウッド映画の構造を分析し、解説された本。
本の中で出てきた映画をどれも見ていなかったので、映画の視点の話が少し分かりにくかったですが、構造分析の話はどれも興味深い。『エイリアン』の裏に隠された性の話だとか、『大脱走』とそれぞれの人種の話などなど。
こういう話を読むと、それって深読みのしすぎじゃないの? と思うこともありますが、それであってもこういう風に構造分析するのはいろいろ楽しそうだなあ、と感じました。
今度は取り上げられていた映画を見てから再読してみたい。
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内田は、この本が、ラカンやバルトを使って、映画を批評するという凡庸な試みでないと最初に書いている。副題に「ハリウッド映画で学べる現代思想」とあるように、誰もが見たことのある有名な映画を使って、逆にバルトやラカンの術語を解説するのがこの本の眼目である。『寝ながら学べる構造主義』で、狂言や童話を材料にして現代思想をあざやかに解説して見せた手並みを今度はお得意の映画で見せようという趣向らしい。
私たちが何かについて考えるということは、その何かについての「お話」を作ることである。どんな「お話」つまり物語にも構造があるが、その構造の数は限られている。だから、無数にある物語は有限数の物語構造を反復しているに過ぎない。構造分析とは、バルトに言わせれば「私たちの精神の本質的な貧しさ」をあらわにする作業である、ということになる。しかし、限られた素材から美味しい料理が無数に生まれるように、意外に貧しい構造から、映画は豊かな多様性を生み出してきた。映画の持つ構造を解き明かすことで、どうしてそれが可能だったのかを探り、新たな愉悦を汲み出すのが、著者の目的である。
内田は、バルトの「作者の死」や「テクスト」という術語を採り上げながら、映画は監督の物でも俳優の物でもなくフィルム・メイカーたちが織りなすテクストであると規定する。すると、そこから、映されていながら、はっきりした意味を持たない映像の存在が浮かび上がってくる。その「鈍い意味」の中に開放性や生産性を見たバルトは、物語を中心化する力に対して「反―物語」化する力を「映画的なもの」と名づけた。内田の分析がこの視点からなされているのは言うまでもない。
意味が無理なくつながっているところには解釈の入り込む余地がない。つながり具合の不自然な「意味の亀裂」があってはじめて、物語は発動する。内田の解釈によると『エイリアン』は、白馬の王子様の救援を待たずに自立した女性が活躍するハリウッド開闢以来のフェミニズム映画ということになる。それが映画の中枢の物語であるとすると、当然「反―物語」の力は、ヒロインを性的コンテクストに再回収する方向にはたらく。その解釈を引き出すきっかけになるのは、唐突に映し出されるリプリーの鼻血に続くアッシュの額を流れる白い液体(精液を連想させる)の映像である。映画後半に頻出する性的アレゴリーに満ちた映像はそういう意味であったのかとあらためて気づかされるのだが、解釈を促すのはこうした「実定的な抵抗感」ばかりではない。
大事なことを意図的に言い落とす「欠性的な抵抗感」の例に採り上げているのは『大脱走』。内田は、これをアンチ・エディプス、父殺しをテーマとする映画だと読む。もちろんここで解説されるのは、フロイト=ラカン理論である。この映画は、フロイトの心的エネルギーと同じで、番人の監視の目を欺いて、代理的表象に変容して境界線を通り抜けようとする物語であると喝破する。脱出に成功した者と失敗した者を分ける理由をラカンの「父の否/父の名」を援用して解き明かすこの読みは秀逸。詳しくは是非本編を読んでほしい。
全編は三章に分かれ、表題と同じ題名を持つ第1章では、上記のほかに、アメリカ映画がはじめて、トラウマの本質に触れた歴史的映画として『ゴーストバスターズ』が、また、あらゆる学術的な物語論にとって「分析データの宝庫」であるというヒッチコックの映画から『北北西に進路をとれ』が選ばれ、分析されている。同じヒッチコックの『裏窓』と小津の『秋刀魚の味』を俎上にのせて「視点」について論じる第2章「四人目の会席者」と「第四の壁」や第3章「アメリカン・ミソジニー」など、どれも読み応えがある。中でも「男女比率不均衡」と「弔い」をキーワードにアメリカ男性のアメリカ女性に対する嫌悪の理由を分析した第3章は、アメリカン・フェミニズムについて、著者ならではの発想に溢れ、内田ファンを喜ばせるポレミックな論考といえよう。
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前書きでは、「できるだけ簡単に、だれにでも読みやすくを目指した」と書かれていたけど、それなりに難解な個所もあった。(内田さんのせいじゃなくて、ラカン自体が難解なだけかもしれない…)
全体としては面白かった。
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『哲学』というのはほんとうにヤなものだ。
死にものぐるいで見栄はって、いったい何冊の本を読んだ(ふりした)だろう。
内容は面白いほどに忘れ切っているのに…。
でもやっぱり「思考」という過程を分析的に見るのは(その時だけは)面白いと思うのだ。
で、この本はそのネタを映画に求めている訳だから面白くないはずがない、と思ったわけね。
『エイリアン』『大脱走』『ゴーストバスターズ』、それからマイケル・ダグラスの女殺しもの。
これらのロールプレイや設定の状況などがどんな根源的状況のメタファーとなっているか、それらをひもといていくのは確かに面白い。
ただなぁ…自分で見るだけだとここまで考えないだろうな~~~~、とも切実に思う。