紙の本
存在感ある表紙の面相にたがわぬずしりとくる内容。自分に突きつける問いのきびしさ、掘り下げて出してくる答えの潔さ。ノーベル賞対象作品、満を持しての翻訳。
2003/11/14 00:43
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:中村びわ(JPIC読書アドバイザー) - この投稿者のレビュー一覧を見る
ノーベル文学賞の選考基準というのはよく分からないが、いくつか読んでみた作品の範囲で思うのは、「気に入った」「ちょっと苦手」の別はあっても、やはり外れがないということだ。世界的に広く読まれてしかるべき作家が、いくつかの作品を業績と評価され受ける賞だから当たり前のことなのだろうが、読めば考えさせられる核となるものに必ず行き当たる。
一見すれば「差別や抑圧を受けた人種や民族の作家だから」「政治情勢において不遇にあった作家だから」といった事情が受賞には強く作用したようにも感じられるが、それだけが理由ではない。そういった環境にあって、自己の原型に真っ向から挑んだもの、自分に刃を向けるようにして人間存在の根源へ溯っていく傾向のものが、きちんと顕彰されているように思える。
とは言いながら、この高行健がノーベル賞に輝いた翌年に邦訳された『ある男の聖書』は読了していない。手にしたときのバイオリズムが悪かったのか、読みさしにしたままである。本書『霊山』があまりに面白く響いてくるものが大きく、ずしりとした読み応えだったので「こんなに面白い作家だったのか」と今さら驚き、これからあわてて再挑戦するところである。
「東洋のオデュッセイア」という引きにずばり惹かれた。表紙装画は著者自身の手になるものであるが、深山幽谷に分け入り神秘世界に囚われていく男性が俗世に還れなくなる物語なのか——と。単純と言われようが、道ならぬ恋の情欲に身を焦がし破滅していく女性のパターンと対をなす世界文学の王道が好きなのである。
しかし、定番でありながら、本家オデュッセイアに習った『神曲』『ユリシーズ』などと同様、この小説にはこの小説なりの実験がある。『霊山』から9年あとに出た『ある男の聖書』においても同じ形式が取られているらしいが、「人称」がその特徴のひとつとなっている。
「私」で語られる章と「おまえ」と語りかける章が、ほとんど交互に展開され、ふたつの旅が進行していく。この形式が、自分および人間存在の根源への遡行に当たって大きな効果をもたらす。「おまえ」の旅は、どこにあるか判然としない「霊山」へ向けて女連れの道行きである。女性というものへの深い把握と考察に背筋をぞっとさせられるのがまた、この作家の持ち味かと感じ入ったのだが、その描かれた女性のもらす言葉すらも、徐々に自分への訴追へ転化していく。
絵画の個展でパリに逗留中、天安門事件の報道に触れた高行健は、それを機に政治亡命者となる。それより前、中国国内で発表した不条理劇『バス停』(ベケットの『ゴドーを待ちながら』の影響を受けた作品と聞いている)が、人民の精神を汚染するものとして上演禁止処分となる。文革期の所謂「自己批判」の対象となるわけだが、その政治的に歪んだ言葉の意味を乗り越えて、真の意味での「自己批判」、つまり自分を弾劾していくような姿勢が『霊山』という作品には強く感じられた。そこが読者を巻き込む圧倒的な求心力となっている。
あっけに取られるような挿話とともに、あまりに潔い言葉、価値の表明が多い。幽玄な中国の山地を旅しながら、作者の内に宿る様々な種類の霊性に覆われる。
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ノーベル賞作家の作品
死を宣告された男が霊山を求め彷徨するものがたり。
自分の記憶と精神を辿るような世界が魅力的な傑作です。
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中国で初めてノーベル賞をとった作者。
主人公は小説家で末期癌の宣告を受け、今生の思い出作りに中国奥地を旅する。外面的には各地の民族文化と触れ合う旅であり、内面的には自分の悲しい過去と付き合う旅、その目的地が、はっきりとは明記されてない「霊山」。
長々書いたが読んでくうちに何が何だかわからなくなってくる。しかし40年後に再読してみたい話でもある。
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長い霊山への旅を読み終わった。
著者の「ある男の聖書」と合わせて一冊の本だろうか?
文革の激流の翻弄された強烈な自意識を持つ文学者、天安門事件を経てたどり着いた長い長い旅路だろうか?
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一度読んだだけでは難しかった。
私、おまえ、彼女、彼、いくつもの視点から様々な場所、冥界、とにかくスケールが大きかった。
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ガオさんの代表作
独白と紀行が入り乱れて、さらに2つの人格がパラレルで進行と珍しいタイプの作品
1/3くらい読み進んで ようやく慣れるほど難解
死生の際での独白がキー
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バッハの『無伴奏チェロ組曲』のように、読む者を深い瞑想へと誘なう小説だ。
先日読んだ鄭義の『神樹』とはいかにも対照的に、この物語では事件らしき事件はほとんど起きない。
ただひたすら、主人公である作家の霊山を探しての彷徨と果てしない内省が描かれる。
霊山とはいったい何だろうか?
「人間到る処青山あり」の青山(墓)だろうか?
この物語では、主人公の人称が、ある箇所では「おまえ」と表記され、別の箇所では「私」と表記される。
そればかりか、同じ文章の中に「おまえ」と「私」が混在する箇所すらあって、読む者を煙に巻く。
小説の最終盤では、人称は、ついに「彼」と変化して、小説論を語っている。/
《おまえが霊山に至る道を探していたとき、私は長江に沿って旅を続け、このような真実を追い求めていた。私はちょっとした事件を体験し、医者の誤診のために肺癌を宣告された。
(略)
私はもっと早く、あの汚染された環境から抜け出し、自然の中に戻り、真実味のある生活を追求すべきだった。
ー中略ー
私は、いま自分が歩んでいるのが正道なのか否かを知らない。いずれにせよ、あの賑やかな文壇を離れ、いつも煙が立ち込めていた自分の部屋から抜け出してきたのだ。》/
また、主人公が旅の途中で出会う女たちも「彼女」と表記されるだけで、ほとんど名前すら与えられず、わざと没個性的に、それぞれが識別困難なほど曖昧に描かれる。
それは、テオ・アンゲロプロスの映画『ユリシーズの瞳』において、主人公を取り巻く女たちを、マヤ・モルゲンステルンが一人四役で演じたように、まるで
「すべての薔薇は一輪の薔薇」と言っているかのようだ。
すべてが、濃い霧に覆われたように境界や区別が不明瞭で、それゆえ一層読む者を夢想へと引きずり込んでゆく。/
「私」は、本物の原生林が見たいと言って、ガイドと共に深山へと歩み入る。
《霧が流れてきて、私の目の前の地面から一メートルほどのところで、パッと広がった。私は身をかわしながら、霧を手で払った。炊煙のように、はっきり目に見える霧だった。私は小走りになったが、それでも間に合わない。霧は私の体をかすめて広がり、目の前の景色があっという間にぼやけてしまった。色彩も失われた。続いて湧き出てきた雲はさらにはっきりした塊となり、渦巻きながら漂っている。
ー中略ー
灰色の雲がまた背後から近づいてきた。谷があり、窪地があり、倒れた幹があることも、まったく意に介していない。私は雲の先を行くことができなかった。雲は落ち着き払って、私に追いついてくる。私は雲に巻き込まれた。目の前から景色が消え、あたり一面が朦朧となった。
ー中略ー
私は立ち上がり、漠然とした期待を込めて大声で叫んだが、返事はなかった。》
悪夢のようなこの部分の描写に強く惹かれる。/
また、「私」は、歴史上最古の王朝の初代皇帝である禹の陵墓を訪れる。
《この禹陵に現存する考証の価値のある遺物は、本殿の向かい側の石碑だけだった。���だらに剥げかかった、おたまじゃくしのような文字は、専門家にも判読できない。繰り返し眺め、繰り返し考えているうちに、私はハッと気づいた。「歴史は謎だ」と読めるではないか。
「歴史は嘘だ」とも読めた。
ー中略ー
歴史とは、どのように読んでもいいのだ。これは本当に重大な発見だった。!》
高行健は、1990年にこの小説を世に出したとき、既に祖国との訣別を決意していたのだ。/
いつもながら、とりとめのない感想だが、映画『めぐり逢う朝』のヴィオールの音色のように妙に心に沁みてくる作品だ。/
高行健について:小説家、劇作家、画家。1940年中国江西省生まれ。81年、北京人民芸術劇院専属の劇作家となる。
82年、劇作『非常信号』が高く評価される。翌年上演された不条理劇『バス停』が激しい批判にさらされる。その後、絵画に活路を見いだし、88年からパリに逗留。89年、パリで天安門事件を知り、90年、政治亡命者となる。以降、中国では全作品が発禁。97年、フランス国籍を取得。『霊山』(90年)、『ある男の聖書』を中心とした活動で2000年度ノーベル文学賞受賞。(訳者解説及び作者紹介より)
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GUEST 045/作家・辻仁成:スミスの本棚:ワールドビジネスサテライト:テレビ東京 http://www.tv-tokyo.co.jp/wbs/blog/smith/2011/11/post121175.html
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長距離バスで霊山の存在を知った「おまえ」はそこを目指すことにする。その町で「おまえ」は「彼女」に出会い、旅路を共にするのだが…。かたや、作家である「私」は、土地の民謡を調査する名目で、中国西南部を旅する。そこで出会う「彼女」たち。「おまえ」の章と「私」の章が交互に語られ、途中行きつ戻りつ、想像の世界や伝説を織り交ぜながら、霊山をめぐる幻想的な世界が繰り広げられる。男と女を描きながらも、全くいやらしさは感じられず、その軽快な描写が実に心地いい。途中の挿話も、中国の道教、仏教の世界観で語られ、日本人にも親しみやすいと思う。表紙画も著者によるものらしいのだが、まさにこんなイメージ。
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うわーこれは良い。良い良い良い、と思いながら読み進めていつの間にか迷子になってどこにも辿りつけなくなって、戻る。主人公と一緒に惑う。文体がまた良い。これがノーベル賞の決めてとなったというが、これは流石にとうならせる。少し残雪に似ていると思うのは私だけ?
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1990年発表。中国の作家、高行健著。癌を宣告された男が、霊山を求めて中国の山奥を彷徨う。「おまえ」「私」の二つの人称が章ごとに入れ替わり、更に「彼女」「彼」などの人物が登場する。
「おまえ」「私」の人称に関しては、さほど難解には感じなかった。作品のテーマとしては自己喪失・自己発見ということなのだろう。
この作品の核はむしろ大量に詰められている中国の民話、仏教・道教の話、パンダなど野生動物とのかかわりなどで、そこから明らかになってくる中国国内の田舎の実情ではないだろうか。それこそが興味深いし面白い。そしてそれらを追体験した読者は、あたかも著者本人のように田舎を後にして日常に戻ってくる。旅の虚脱感を抱えたまま。
最後の方の小説に関する問答は蛇足のような気がした。こんなものは小説じゃない、というのはさんざん議論されてきたことだし、この「霊山」がそこまで前衛的・難解な小説だとは思えない。むしろ「自分を探す」というテーマにおいては、きわめてシンプルとすら感じる。
著者がノーベル賞をとったことに関して賛否両論あるようだが、私としては純粋に旅の小説として面白かったし、実存主義の焼き増しとか、ちゃんとしたストーリーがない、などという意見もあるようだがそれはどこかずれた議論のような気がする。そもそも小説に高尚な論理を求めることが間違っている。疑似体験(それも著者の精神のフィルターを通して。「霊山」の場合「おまえ」と「私」の二重性)、小説の価値なんてそれ以上でも以下でもない。
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表紙は作者の高行健自身が描いた墨絵で‘LE VOL DE NUIT’と題されている。日本語に訳すと「夜間飛行」、または「夜の飛翔」というところだろうか。だが墨絵なので画面が黒っぽくて夜という雰囲気はわかるが、それが風景を描いたのか他の何かを描いたのかもわからないし、風景だとしても、いつの時代のどこの風景を描いたかの説明が一切ない。表紙を見た読者は、想像力をフル稼働させて推測するしかない。
次に中身を見ると、全体で81章から成るが、例えばX章と(X+1)章との間には連続性はない。
はじめのうちは2つのストーリーが並行して映画の技法の1つ“クロスカッティング”のように関連しながら進むので、奇数章と偶数章とをいわば分けるような読み方でも良かったが、次第にある章の内容と他の章の内容とが一読して関連性を見出すのが難しくなり、終いには各章が全く独立した内容として次から次へと章として迫ってくるようになる。
そもそも「霊山」って何なのか?章を追えば追うほど内容が霊山の追求からどんどん離れるようで、日本の小説で見られるような出版社が付けた「ラストに感動が…」とかの惹句に釣られるかのような期待感を約束された読み方に慣れ切った人なら、この小説を読み進めるのは“拷問”に近いものになるだろう。
それについては、この小説を読んでる間に、偶然、朝日新聞の文芸欄に高行健に関する記事が掲載され、それが参考になった。「市場に合ったものでなく、自分がいま書かなければならないことを書く。発表直後は理解されにくくても、時が経つに従い理解者が増え評価は変わってきます」(2015年9月23日付け朝日新聞朝刊(大阪版)より)。これを読んでも、読者側の理解や共感をはじめから求めるような作品づくりではないことがわかる。
でも通読して主旨を理解しなければ読書じゃないといういわば近視眼的な発想から離れてみると、これは外見とは違う複数の意味をもつ「短編集」で、それらの意味を一つひとつ探り出す読書作業を経て、長い時間と熟慮をかけることで一点の深遠な作者の意図があぶり出ると考えるほうが自然ではないか?中国大陸出身者では先人として「吶喊」を著した魯迅がいるではないか。中国大陸の歴史や社会やそこに住む人間の心理や宗教や行動など、著者のアンテナに引っかかったものを総覧的に作品化して、結果、1つのオリジナルの世界観を表出させようとしたという点では、この文学者は魯迅と軌を一とするのではないか?
寺沢武一の漫画作品「コブラ」をご存じだろうか?“カゲロウ山”というエピソードがあって、その雪山は、登る者がカゲロウ山の存在を疑い「この山は本当にあるのか」と考えた途端に足元から消え、その者は奈落の底へ落ちる。コブラは相棒のレディーにこう質問する。「レディー、この山はあると思うかい?」レディーはこう答えた。「えっ何のこと?山は山だわ。」
霊山の存在も、恣意的につかもうとすれば遠く離れ、存在を疑えばその姿は見えなくなり消えてしまう。霊山は確かにあって、高行健もそれを作中で示していて、読者はそれが“降りてきて”、霊山として姿を現すのをじっと待つ。忍耐が必要だが、そういうスタンスが求められている。
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評価が難しい小説。。笑
本人も小説内で言ってるように、これは本当に小説なの?登場人物の関係性がよく分からないし、ストーリーというのもはっきり見えない。
創作という観点では小説なんだろうけれども、内容としては随筆に近い感じ。ただまあ、祖国から表現の自由を奪われたり癌で余命宣告を受けたりすれば、色んなこと考えちゃうよねー。
性愛論と宗教論が強め、中国の田舎民族や自然の描写も結構多い。