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万葉集の読み方の本ではないので、文法だとかの説明はありません。
ただただ、その歌を味わいながら、そこにある愛を読み、共感したりする。
ちょっと野蛮?いえいえ。素朴で熱情的な万葉人の愛の詩。
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百人一首との違い、そんなにないだろうと思っていましたが、印象が全然違うんですね。
一首目から鮮烈でした。
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花ぐわし葦垣越しにただ一目相見し子ゆゑ千遍嘆きつ
(作者不詳)
馬柵越し麦食む駒のはつはつに新膚ふれし子ろし愛しも
(作者不詳)
君が行く道の長手を繰りたたね焼き亡ぼさむ天の火もがも
(茅上娘子)
あしひきの山の雫に妹待つとわれ立ちぬれぬ山の雫に
(大津皇子)
二人行けど行き過ぎがたき秋山をいかにか君がひとり越ゆらむ
(大伯皇女)
大船の泊つるとまりのたゆたひに物思ひ痩せぬ子ゆゑに
(弓削皇女)
古にありけむ人もあがごとか妹に恋ひつつ寝てかねてけむ
(柿本人麿)
稲春つけばあが手を今夜もか殿の若子が取りて嘆かむ
(作者不詳)
うらうらに照れる春日に雲雀あがり心悲しもひとりし思えば
(大伴家持)
恋草を力車に七車つみて恋ふらく吾が心から
(広河女王)
少し前、「源氏物語」を現代語訳で読破したのだが、ずっと歯痒かったことがある。それは“和歌“が訳無しでは意味が分からなかったことだ。美しいということ、センスが良いということは分かったのだが、私の教養とセンスを源氏に試され、鼻で笑われているようで、悔しかった。
ところがどっこい、もっと前の時代の万葉集はとっても分かりやすいではないか。
気持ちにまで十二単を着せて気取っていた平安時代の和歌と違って、万葉集はあけっぴろげ!「いゃ〜ん♡訳さくていいよぉ〜( ´∀`)」と言いたくなるくらい、文字と音だけで赤面してしまうような赤裸々な愛と恋に溢れているのだ。
一つには漢字ばかりで書かれていたから(万葉仮名)ということもあるのでは?と思う。漢字ばかりだと書くにも見た目にも重量感があり、意味にも深みがあり、それだけで心にグサッとくるものがあったと思う。それに対して、平安時代はヒラヒラとしたフリルようなひらがな文化になってしまったため、女のお喋りのような軽い薄衣のような言葉を幾重にも重ねて飾り立てること重視の歌になってしまったのでは?これは理解出来なかった腹いせを含んだ自説だ。
万葉集は書くのに手間のかかる万葉仮名で書かれていたが、言葉には一つの言葉で色んな意味を持つ深い使い方が出来たらしい。例えば、「見る」という言葉には、ただ視覚的な「見る」だけではなく、男女が「付き合ってみる」とか、まあ恥ずかしいことも「見る」とか「相見る」で表すという、あけっぴろげだけど大人で上品な表現をしてたらしい。さすが大和文化だね。
それから、万葉集には美しい日本語が沢山あって、そのほんの一部を書くと
「花ぐわし」
“香ぐわしい“と同じ使い方の“ぐわし“(細やかな美しさ)がついて、「見た目とてもきれい」というようなニュアンスの言葉。
「はつはつに」
“ほんのちらりと“というような意味
「たもとおり」
うろうろ歩きをすること
「孤悲」
“恋“という言葉にこの字を当てていたことが多かったらしい。
もう眠たいのでこれ以上書かないが、この本では万葉集の中心となった大伴家持や坂上郎女や柿本人麿がどういう人であったか、政治的な立場や恋人は誰であったとか、万葉集の歴史的背景と国文学的な理解の両方を深めてくれる。永井路子さんすごい。日本人の必読書だ。