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反音楽史 さらば、ベートーヴェン みんなのレビュー
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紙の本
クラシック音楽は高級か?
2004/03/19 07:26
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:k-kana - この投稿者のレビュー一覧を見る
クラシック音楽は高級でポップスは低級。クラシックの演奏家は芸術家だがポップスの演奏家は流行歌手に過ぎない。ベートーヴェンを聴かずに美空ひばりばかり聴いているのは低俗な人間である。このような通説の因って来るところは、日本とかアメリカにある西欧文明コンプレックスだと著者は言う。そもそもクラシック音楽自体、19世紀のドイツ人たちが作り出した虚像なのだと。
本書の意図は、タイトルからずばり明らかなように「クラシック音楽」あるいは「音楽史」の通念を破壊すること。ドイツ人が書かなかった——彼らが見て見ぬふりをした、あるいは頭から否定しようとした実際の音楽史を露にすることなのだ。読み進むほどに、「目から鱗が落ちるとはこのこと」と実感したのであった。ドイツに都合の良い、ドイツに偏向した音楽史に今までいかにどっぷりと浸かっていたのか!
例えば、小学校や中学の音楽室を思い起こすと、いわゆる「楽聖」——バッハ、ベートーヴェン、ブラームスといった作曲家の肖像画がずらりと掲示されていたものだ。さらに、ヘンデル、ハイドン、モーツァルト、シューベルト、シューマンと並べても、全部ドイツ人ではないか。まるでドイツ人のみが高貴な音楽を書いたかのようだ。
18世紀のドイツはイタリア人とその音楽に完全に支配されていた。ドイツ人には音楽は書けないとさえ思われていた。19世紀に入ると世の中は急転する。イギリスに始まった産業革命とともに市民層が誕生する。音楽の世界ではベートーヴェンが出てきて、まったく新しい音楽を書いた。ピアノ・ソナタ『アパショナータ』とか『英雄』交響曲など。そして、ベートーヴェンが今までの音楽家とはっきり違うのは、聴き手は芸術家の前に跪け、という高踏的な考え方。
ドイツ人の国民性は歌より器楽に向いていたので、オーケストラ音楽を自分たちのために開発していく。ここから、ベートーヴェンを先頭に立ててドイツに偏向した音楽史が形成されるようになる。バッハを神格化し、ドイツ人作曲家だけを「楽聖」として音楽史に組み入れたのである。と同時に、厳格な形式をもったクラシック音楽こそ崇高かつ高級とのイメージが確立したのだ。
紙の本
『反音楽』の書となる懸念。
2004/03/09 15:54
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:由良 博英 - この投稿者のレビュー一覧を見る
まず、著者の批判するところのドイツ中心の音楽史なるものが、今日の好楽家の間の風潮としてあるのかという疑問を覚える。古典派以前の音楽界にあってのイタリア人の勢力、様式、形式にかかる先進性などは、むしろ一般常識として知られる史実だ。また、著者はそこにおいて、作品の今日にまで通じる内容については捨象し、同時代の隆盛でドイツの後進性を語る一方で、モーツァルトについては、まず、著者個人の美意識に照らしながら、ハイドンの古典派の形式への功績を讃える史家の弁を退け、擁護にまわるという立場に転換する。ベートーヴェンについては、作品の質をその倣岸な生活態度に重ねて貶める。しかし、モーツァルトの不遜さには同情的だ。また、文筆家でもあったシューマンを(若い時期に書かれたピアノ曲と、後のピアノ協奏曲のみ著者は評価している)ドイツ中心の音楽史の喧伝者と説く。その後のロマン派については、一切、なで斬りにされている。全体をとおして感じたことは、現代音楽も含め「自分に理解されない音楽が、一般的に評価されている風潮は、どこかおかしい」というスタンスで、著者に都合よく打ち立てられた「石井・音楽史観」であるということ。「反音楽史」との書名は、些か大仰であろう。従来の固定観念を崩したいという、気負いから著されたものであろうとは思う。しかし、音楽に親しみはじめて間もない読者には、自由な鑑賞をかえって妨げる『反音楽』の書とならないかという懸念を、私はむしろ強く覚えた。
紙の本
イタリア・オペラからドイツ音楽への流れ、それは認めましょ。でも、それ以外の例えば中国、日本、中東、インド、アフリカ、南米の音楽はどうなっちゃうわけ?
2004/07/04 14:15
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:みーちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
この本の主旨は「日本だけではなく、世界にはびこっている“クラシック音楽”ないしはその“音楽史”の通念を破壊し、それらについて考え直してみよう」ということで、具体的には巻頭に引用された「ドイツ人の器楽的な世界は、イタリア・オペラという梯子を昇ることによって初めて到達し得たものである。しかし新興ドイツは、一旦その梯子を昇ったあとで、それを蹴り倒し、以後は口を拭ってイタリアの梯子などは最初から存在しなかったようなふりをしているのである。」というE・J・デントの言葉に見るように、まずドイツ音楽ありきという現在のというか、世界のごく一部の常識であった無知を正すものである。
第一部「イタリア人にあらざれば人にあらず」は、第一章「音楽はイタリア人」と第二章「興隆するイタリア・オペラ」に分れ、そ17、18世紀のドイツは文化的にはイタリアに大幅に遅れをとり、イタリアこそが当時の音楽先進国であった状況が描かれる。
たとえば、ナーポリでの最初の音楽学校の設立は、なんと1537年であり、1600年には四つの音楽学校が存在していた、という。無論、芸術大国といった今風の国家戦略があったわけではなく、福祉厚生事業の一端ではあるのだけれど。ここでは、イタリアでは高く評価されることのなかったモーツァルト、近年になって評価されたヴィヴァルディ、そしてイタリア・オペラなどのことが語られる。
第二部「それではドイツ人はなにをしていたのか」は、第一章「イタリア・オペラに生きたドイツの人たち」と第二章「栄達の梯子を登れなかった人々」からなり、では、ドイツでは音楽はどのように扱われていたかを、ヘンデルやモーツァルトの足跡とともに描いていく。驚くのは、私たちにとってバッハといえばヨハン・ゼバスティアン・バッハなのだけれど、当時の大衆に評価されていたのはヨハン・クリスティアン・バッハであり、その事績は現在、殆ど抹殺されているに等しい、という記述である。
第三部「全てはドイツ人の仕業である」は、第一章「後進国としてのドイツ」と第二章「夢と成就と崩壊への道」と細分化され、文化的に後進国であった彼らが、当時の先進国イタリア、フランス、イギリスに追いつき追い越せとばかりに選んだのが、音楽史の書き換えということになる。その中心にある考え方が「音楽がどれほど美しく、どれほど人の心をとらえる力を持っているかといったことは、ある程度無視され」「「音楽形式の完成」という立場でものを観ることであり」ということになる。それが第二部でも言及される大バッハこそ偉大であり、モーツァルトやヨハン・クリスティアン・バッハ、あるいはフランス音楽、イタリアオペラ軽視へと繋がっていき、それをそのまま常識として受け入れたのが、同時期に富国強兵策をとっていた日本である。
ドイツ音楽こそ、或はそれを頂点と考える音楽史は間違っているというのは、正しい。しかし、ドイツ音楽が席巻する以前は、イタリア音楽こそが、というのは歴史という観点からは正しくとも、では今後の音楽がどこに向かうかといったことは、具体的には触れられることが無い。あとがきでは、確かにガーシュインやジャズに言及がある。しかし、基本的にはクラシック音楽世界内部での議論に過ぎない。
それは丁度、国民の意向などお構い無しに、議員同士の不毛な議論に明け暮れる日本の国会のあり方と変わるところはない。
古典的な絵画の古色蒼然は、いかに印象派が陳腐に見えても、変わることはない。現代美術の不毛は認めよう。楽譜が美しければそこから生まれる音楽も美しい、といった理論だけの愚も判る。しかし、この本の趣旨は歴史のおさらいではないはずだ。せめて全体の1/4くらいは、ヨーロッパではなくアジアやアフリカ、或いは中東の音楽、そしてロックやポップについて割いて欲しかった。これでは単なるドイツ音楽パッシングである。
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