紙の本
世間の力は人権よりも強し?
2004/06/09 11:16
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投稿者:ポカ - この投稿者のレビュー一覧を見る
イラクでの人質事件のバッシングをみて、日本という国のなかで、なにかが起きているのではないかと思った。
その前から漠然と感じていた感覚が、このバッシング騒動で更に強くなった。
けれども、それが「何」なのか分からなかった。
なにが起きているのかを知りたかった。
そういうときにこの本が目に飛び込んできた。
その名も「世間の目」。
そうだ、世間だ!
日本人の「世間」という感覚が、このバッシングと深いかかわりがあるに違いない。
著者は、「世間」を「権力」に近いものと捉える。
ある場合に、個人を拘束する力、強制力を持つと言う。
それは、「日本人が集団になったときに発生する力学」で、私たちがそれに抵抗するのは極めて難しい、と。
そして、その「世間」の力は、「人権」よりも強い、とも。
それでも、昔は、それなりに「世間」が果たす役割もあったのだろうと思われる。
「世間」の良い面もあるということだ。
けれども、現在の「世間」は、どうも良くない方向に肥大しているように思う。
現実的には「世間」は崩壊しているようにおもわれるけれども、実際は、インターネットやメディアによって、もっとひどい状態になってきているのではないだろうか。
崩壊しているのは、昔で言う隣組のような実態のある「世間」であって、実は、顔を見せずに人に干渉できるようなシステムが確立しているがために、もっと、陰湿で冷酷な「世間」が出来上がってしまったように思えてならない。
これは、かえってひどい世の中になっているということじゃないのか。
自分の顔を見せずに、人に干渉するような場合、誰が言ったかわからないということは、その発言に責任を持たずにいられるということになる。
いくらひどいことを言っても、発言した者にはリスクがないから、その発言はどんどんエスカレートしてくる。
「世間」という隠れ蓑に包まって、責任のない発言を垂れ流す。
だから、バッシングは止まない。
そこには、人権の意識もなにもなく、ひたすら自分たちと「異なるもの」に対して、徹底して排除しようとする。
そしてそのバッシングは、顔の見えない声で雪ダルマ式に膨れ上がる。
その恐怖はすさまじいものと想像できる。
だからこそ、人は、「異なるもの」になることを極端に恐れ、同一化しようとする。
そして、「自己」というものは失われる。
というより、はじめから「自己」なんて存在しないのかもしれない。
異物排除の「世間の目」は、世の中全てのところに在る。
町内、職場、そして、学校でも。
大人と同じように、子供にも世間がある。
そして、今や、実体の社会のなかだけでなく、各種メディアや、インターネットなど、広い範囲で、世間の目は監視し、バッシングする。
新聞やテレビのメディアはもちろん、警察や裁判所、政治家までも、世間の目には逆らえないとなれば、人権もなにもない、本当に危険な世の中といって良いのではないだろうか。
日本は、それでいいのか。
そろそろ、日本の社会はガタがきている。
きっと根本のトコロを立て直さないといけないのだと、多くの人が薄々気づいている。
そろそろ、「自己」をきちんと持った「社会」というものをつくってゆかなければいけないのではないか。
著者も、日本には「世間」はあるが「社会」はない、と言っている。
そう言う意味で、建て直しの時期が来ているのかもしれないと、最近のさまざまな事件を見ても思わずにはいられない。
「世間」という観念をきちんと考えなくては、日本は危険だ。
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世間学って、比較的新しくて?まだ殆どは未知の世界であるらしいのだけど、初歩的なことを易しく説いているいるこの本を読んだあとは「それでそれで?」となってしまう。同じようなシーンもいくつかあったが、日本人の労働観などと結びつけて世間学を深めていくのは面白そうだなぁ、と興味をもつきっかけとなった。
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世間と社会の対比。日本には個人はいない。世間は、人の行動を縛る。なるほど。でも、普通の日本人はそこから脱客はできないんだな。強い個人になるのがいいのか、どうか。
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なぜ、日本の子供は親バレを怖がるのか?逆に、障子1枚隔てた空間で生活できるのか?
世間というものを考えることで、日本の国民性が少し理解できました。
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☆信州大学附属図書館の所蔵はこちらです☆
https://www-lib.shinshu-u.ac.jp/opc/recordID/catalog.bib/BA67244129
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なるほど腑に落ちる。
贈与・互酬の関係 「権利」より「お互いさま」
「世間」=集団力学 人権などやすやす超える「権力」
日本では「自然−生成」が権力や制度以上の強制力を持っている
└「そうなってしまう」
先日は・・・・今後とも・・・・ : 共通の時間 親はいつまでも親 心中
世間が解体されていない、社会になっていない世間で自己責任もへちまもない
臓器移植と「お互いさま」
人と人との間がまずあって、間にある「事柄」がまず最初にある
日本人の死は個人のものではない=自己決定はあり得ない 日本人はしつこく儀式を続ける
日本文化の配慮的性格−「察する」文化
「メランコリー親和型」の人間に仕事が集中する
└贈与・互酬の関係に埋め込まれた人間とそうでない人間
「世間」は部分的に解体しても全面的には解体しえない
「文字の文化」から「声の文化」へ
中世までは声の文化-読み書きできなくても自由に喋れれば「大人」
近代は文字の文化−読み書きできて「大人」
現代、テレビやメールで再び声の文化に ∴子供が大人扱いになる文化
子供の犯罪の厳罰化議論に結びつけると興味深い
「ほっといてくれ」という権利-西欧のプライバシー
「込み合っている中で、聞けども聞こえず」−日本のプライバシー
∴だから日本で「ほっといてくれ」という人間は嫌われる
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p4 世間の中では、権利とか人権は通用しない。世間の中では、権利や人権よりも贈与互酬の関係、つまりお互い様ということが優先される
p29 阿部謹也 世間を定義して、世間とは個人個人を結ぶ関係の環であり、会則や定款はないが、個人個人を強固な絆で結びつけている。しかし、個人が自分から進んで世間をつくるわけではない。何となく、自分の一でそこにあるものとして生きている・といっている
p36 世間がこれを構成する原理として、贈与・互酬の関係や、身分の重要性や、個人の不在や呪術的性格といったような特徴をもっている
p40 親切ー義理0返礼の連鎖
p41 世間のなかでは、目上・目下・先輩・後輩などの身分による序説ということが非常に重要視される
p44 世間のなかでは個人は存在しない
p44 1215 第4ラテラノ会会議以降年1回以上の協会での告解が成人男女の義務となった
p49世間の原理 呪術的性格
p61 贈答関係が網の目のように張り巡らされている医療現場において、臓器移植だけ見返りの期待できない一方的な無償の贈与として成り立たせるのは難しい
p76 西欧社会では死ねば死にきり 死は個人に内属するものに過ぎない 世間では死はあくまでも死者と残された人の間で成立する。だから儀式がいつまでもしつこく続く
p122 お互い様という言葉は、世間の贈与・互酬の関係のあらわれ
p123 過労死・過労自殺がおこるのは、職務分掌の範囲がはっきりしないため、仕事の守備範囲はいくらでも拡がっていくからである。ひとりで他人の仕事までかかえこんでしまい、その結果無理してしまうのだ
p198 自分より目上なのか目下なのか、世間の中での立場をあらかじめ知っておかないと、うっかり敬語の使い方をあやまってしまい、相手の顰蹙をかったりする
p200 芸能人やスポーツ選手であるかぎり、世間を調節しており、世間の掟にしばられない
p205 世間は逮捕されただけでその人間がけがれたとみなし、世間から排除しようとする
p210 世間がウチとソトを厳格に使い分け、ウチではたらく基準と、ソトで働く基準を別々に分けるということをわっている
p212 西欧では、バスや電車の中で、他人のこどもであっても注意するのが普通なのは、世間を超えた公共性という概念があるから。日本では狭い世間か広い世間しかないから、自分の世間を超えたところでは、自分には関係ないもの、つまり無関心となる。みてみぬふりというのは、こういうところに現れる
p231 アメリカ憲法修正第二条 規律ある民兵は、自由な国家の安全にとって必要であるから、人民が武器を保蔵しまた武装する権利は、これを損なうことができない
p236 日本の世間のなかでは、そのような個人がそもそも存在しないからである。おせっかいが日本にあるとしても、それは世間のウチ側むけのおせっかいであり、世間のソトに対しては無関心、みてみぬふりになる
p237 日本人が電車のなかでさわいでいる他人のこどもの注意をしないのあh,そのこどもが自分の世間に属していないから
p239 日本における事故の報道の際に被害者の氏名��公表されるのは、そこに自分の世間の関係者がいるかいないかを知るためなのである。不幸にも自分の世間の関係者が含まれていたら、すぐにお悔やみの電報を打つか、見舞いにでかけなければならない。お見舞いをすることは世間と個人を結ぶ重要な絆なのである。葬式は世間に住む人にとってもっとも大きな行事の一つである
p244 世間では個人が存在しないので、だれかが自己主張したり、目立ったりすることを極端に嫌う。非難もまた、個人の責任においてではなく、村八分的・集団的にか、そうでなければ匿名的に行う
p247 西欧のメディア 顔を出したからと言って世間の非難にさらされることはない
ところが我が国の場合、それが犯罪に関連しなくとも、主張の内容が世間の掟に反する場合には、世間の目という非難にさらされ、個人の主張がおしつぶされることがある。
p264 ネット心中になかに私が感じるのは、自己責任や自己決定にもとづいて自殺を結構する断固とした個人の姿ではなく、集団のなかで間にひきずられ、なんとなくまわりのムードで自殺してしまう、いってみれば他人にひきずられて相手に合わせる優しい個人の姿である
p268
我が国ではいつもそうなのだが、意匠、つまり外側はあたらしくなるのだが、内側はいつまでたっても変わらない。ただ外側を着替えるだけなのだ。だから内側にある世間は、つねに温存される。外側から世間はかわることはない
世間をかえるためには、内側から変えてゆくしかないのだがそれはとてつもなく困難な仕事になる。世間が変えられるとは、だれもおもっていなからである
世間学は、この困難さの自覚から出発するのである
p270
いまの政治の世界で主張されている、構造改革やグローバル化がまちがっているのは、社会のないところに、無理やり、社会の論理をあてはめようとしているからである
世間にはもちろん負の側面もあるが、あきらかにこれまで、弱者に対する一種のセーフティネットの役割もはたしてきた。そこに社会の論理を貫徹させれば、日本はつよい個人のみしかいきられないようなひどい国になってしまう
このひどい国にならないために、どうしたらよいか
いませけんということを、トータルに考え直さなければならないときに来ているように思う。