紙の本
「生まれ」は「育ち」を通して
2010/02/03 22:06
6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:king - この投稿者のレビュー一覧を見る
人間の性質を決めるのは生まれか育ちか、というのは昔から大きな議論の対象となってきた。男女問題から政治問題まで広い範囲で厄介な問題を含むため、議論はしばしば紛糾する。
たとえば、女性と男性の性差を決定的だと見なす人々にとっては、性別役割分業を正当化する強い根拠となるし、遺伝子によって人間の優劣が決まるとなれば、優生学への誘惑が強まるだろう。また、生物学的にはすでに捨てられている分類手法であるという「人種」間での優劣を根拠づけようと言う言動にもつながっていく。
前世紀の後半になると、根強い遺伝決定論への反動として、環境決定論的な論調が強まる。ある学者は、自分に健康な赤子をくれれば、学者にも犯罪者にも育ててみせると豪語したし、ソ連の農政失敗の原因となったルイセンコの遺伝学説も、環境決定論の一例だろう。ジェンダー論などでも、構築主義だとかブランク・スレート説は、環境に人間の性質の原因を求めるものと言える。
そうした生まれか育ちかの二項対立、言い換えれば遺伝と環境の対立を、マット・リドレーは本書で一貫して批判する。たとえばこういう風に。
「つまり、恵まれない境遇で生まれ育った人を差別したり、普通でない家庭で育った人を警戒したりするのは、根拠のないことなのである。貧しい子ども時代を送った人が、必ずある種の性格になるのではない。環境決定論は、どう見ても遺伝決定論と同じぐらい冷酷な信条なのだ」118P
本書の主張はしごくシンプルで言われてみれば当たり前だと思えるようなことだ。それは、Nature VS Nurture(生まれか育ちか)ではなく、Nature via Nurture(生まれは育ちを通して。本書の原題)ということだ。
遺伝子は確かに、人の多くの部分を規定する。遺伝子の命令によって脳や身体が形作られる以上、人間の様々な性質は遺伝子に端を発すると言えるだろう。趣味趣向、性格、行動、思考は脳の配線の仕方に原因を求めることができる。そう考えれば、その人のすべては遺伝子によって決定されていると考えられる。
しかし、遺伝子はいわば人体のレシピだ。そのレシピのスイッチがオンになり、レシピに応じたアミノ酸、タンパク質の生成が行われなければならない。さらに、遺伝子のセットからはつねに同じものが生成されるわけではなく、スプライシングという工程によって、ある遺伝子からはいくつものレシピを引き出すことが可能だという。遺伝子が同じだとしても、どのレシピが機能し、何が生成されるかはその時々の環境の影響を強く受ける。遺伝子は環境を通じて発現する、ということだ。マット・リドレーはこれを「生まれは育ちを通して」、と表現した。
遺伝子はすべてを決定するわけでもないけれど、環境次第で人がどんな風にもなれるわけでもない。スティーヴン・ジェイ・グールドの言い方をヒントに言い換えれば、遺伝子とは決定なのではなく“可能性”だ、ということになる。
素直な感想を言えば、本書はむちゃくちゃおもしろい。出てくる科学史的なエピソードや具体的な数々の調査の結果などは、いちいち興味深く、とにかく読み応えがある。遺伝子、遺伝というもの、生まれか育ちかという議論に興味があるという人には是非とも読まれることを勧める。読んでみれば、読者の人間観に多かれ少なかれ確実な変化を与えるだろう。
また、扱っている話題が話題なだけに、ただ読んで面白いというだけではなく、きわめて考えさせる本でもある。私が最初に書いたような紛糾しがちな議論を少しでもましなものにするのにも役に立つだろう。
人間にとって遺伝子とは何か、ということについてとても刺激的な議論を提供する一冊。傑作。しかし、取り扱い注意。
紙の本
公平な社会は理想的か
2005/10/05 11:28
7人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:桑畑三十郎 - この投稿者のレビュー一覧を見る
人格形成に強い影響を与えるのは、「生まれ」(遺伝)なのか「育ち」(環境)なのか。人間はタブララサ(白紙状態)で生まれてきて、その後の環境によっていかなる人間にもなり得るのか。古来よりあるこの論争に、本書は最近の研究結果をもとに正面から答えようとしている。
結論からいえば、原題のとおり、「生まれは育ちを通して」(nature via nurture)ということになるようだ。IQや性格への遺伝の影響は予想以上に強いが、遺伝子には柔軟性があり、環境によって眠っていた遺伝子がオンになる可能性もあるという。いろいろなことを経験し、努力を積み重ねることも大事ということなんだろう。
では将来、理想的な社会となってすべての子供に同じ教育を受けさせたらどうなるのだろうか。
「あらゆる人間が等しい教育を受けるとすれば、能力の差異は先天的なものになる。真に機会の平等な社会は、生来の才能のある者を最高の仕事で報い、残りの者を卑しい仕事に追いやるのである。」
「奇妙な話だが、公平な社会にするほど、遺伝性が高くなり、遺伝子の重要性が増すことになる。」
はてさて困ったことになってきた。こんな社会は果たしていいものなのか、悪いものなのか、考えさせられる。なんでも機会均等にすればいいというものでもなさそうだ。出世しないのは親からもらった遺伝子が悪いのだという、そんな救いようがない社会よりも多少不公平さが残った社会のほうが、自分に言い訳が出来ていいのかもしれない。
俺の人生がうまく行かなかったのは社会が悪かったのさ、と。
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生まれか育ちか、どちらか一方のみによって生物の形質が決まるのではない。
生まれは育ちを通して、現れてくる。
ついついどっちかに決めたくなっちゃうんだけど、それだと見誤っちゃうんですよね。
絶対読むべき本。
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残念ながら途中まで。
育ちか遺伝か、という話。そりゃ、どっちかだけってことじゃないのは感覚的にわかるんですが、一体どれくらいなのよ、ってことを徹底的に議論した本。
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氏か育ちか
1.遺伝子を恐れるな。
2.それでも良い親になることは重要である。
3.個性は、素質を欲求で強化することによって生み出されたものである。
4.公平な社会では生まれが強調され、不公平な社会では育ちが強調される
5.遺伝子と本能は、度しhらも理解を深めるほど、不可避には見えなくなる
6.社会政策は、一人一人が異なっているということを基本にしなければならない
7.自由意志は、遺伝子によってあらかじめ精妙に定められ働かされている脳と完全に両立する概念である。
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ヒトをヒトとして決定づけるものは何か?遺伝子なのか、環境なのか。100年以上に渡って繰り広げられた「生まれか育ちか」論争。生まれを支持する側は遺伝子のみが、育ちの側は環境のみが決定権を持つと主張してきた。しかし著者は、2項対立の構図は誤りだと指摘。人間の本性を知るには、双方が補いながら、補強し合いながらヒトを形作っていくとする「生まれは育ちを通して」という立場から見る必要があるとする。
「遺伝子は、育ち(環境)からヒントをもらうようにできている。事実を理解するには、こだわりを捨てて心を開かなければならない。遺伝子が人形使いとして行動の糸を引いていると見なすのではなく、遺伝子が人形として行動に操られている世界に入っていかなければならないのだ。そこでは、本能は学習に対立するものではなく、環境の影響はときに遺伝子の影響以上に不可逆で、生まれは育ちに合わせてデザインされている。こうした嘘のようなフレーズが、今科学で初めて実証されようとしている。ここで私は、ゲノムの奥深くに潜む意外な話を語り、ヒトの脳が『育ち』に合わせて作られているさまを明らかにしようと思う。言いたいのはこういうことだ。ゲノムの秘密が明かされるほど、遺伝子が経験の影響を受けやすく見えてくるのである」
このような著者の立場から、「生まれか育ちか」論争に影響を与えた12人の研究者の業績などを整理していく。笑うなどといった人間の普遍的特徴を明らかにしたダーウィン、「才能は血筋だ」と訴えたフランシス・ゴールトン、ヒトはほかの動物よりも多くの本能を持ち「本能を理性と対置するのは誤りだ」としたウィリアム・ジェームズ、不本意ながらもメンデルの遺伝の法則を公にする役割を担ったヒューゴー・ド・フリース、犬の唾液分泌の実験で条件反射を発見したパヴロフ、条件付けにより人格を自由自在に変えられるとしたジョン・ブローダス・ワトソン、精神病を特徴づけるのは個人の経験や経過だとしたクレペリンとフロイト、「人間の行動をもたらす原因は、個人の外部にある」と社会的現象の重要性を指摘したエミール・デュルケーム、イヌイットの生態調査などを通して「文化が人間の本性を形成している」としたフランツ・ボアツ、発達に段階があることを見出し「知能の発達に必要な心的構造は遺伝的に決定されるが、脳の発達のためには経験や社会的相互作用によるフィードバックが必要」と述べたジャン・ピアジェ、ガンのひなの行動から「刷り込み」という概念を打ち出したローレンツ。
未開の分野で重要な発見や概念の創出に貢献した、上記偉人らの功績をたたえる一方、それぞれの誤りを指摘。「ダーウィンやジェームスやゴールトンの唱えた性格の生得性を認め、ド・フリースが主張した遺伝の粒子性を認め、クレペリンやフロイトやローレンツのいう、幼少時の経験が精神の形成に対して果たす役割を認め、ピアジェが見出した発達段階の重要性を認め、パヴロフとワトソンが指摘した、大人の精神を作り変える学習の力を認め、ボアズとデュルケームが訴えた文化と社会の自律的な力を認めることもできたのではないか。これらすべてが同時に正しいこともありうる、と彼らは言えたかもしれない。学習は、��習する生得的な能力なしには生じ得ない。生得性は、経験なしには発現され得ない。ひとつの考えが正しいからといって、ほかの考えの誤りを明らかにしているわけではないのだ」といい、本書の中で紹介した実験は、「遺伝子がいわば感受性のかたまりで、生物に融通性を与える手段であり、まさしく経験のしもべであることを間違いなく示している。『生まれか育ちか』の時代は終わった。『生まれは育ちを通して』の時代よ、万歳!」と結ぶ。
時間や経験によって、発現やその抑制を繰り返す複雑な遺伝子のシステム。いつ、どこでどんな経験を与えると、どんなヒトが完成するのか ―。その答えが導きだせないからこそ、ヒト(や他の動植物)の神秘性は増し、多種多様な1人1人の人格をかけがえのないものとして受け止められるのだろう。同時に、人間そっくりロボットが完成する日はまだまだ先だな、と安心もする。
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プロローグ 十二人のひげづら男
第1章 動物たちの鑑
第2章 幾多の本能
第3章 語呂のいい便利な言葉
第4章 狂気と原因
第5章 第四の次元の遺伝子
第6章 形成期
第7章 学習
第8章 文化の難題
第9章 「遺伝子」の七つの意味
第10章 逆説的な教訓
エピローグ 麦わら人形
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人は生まれか育ちか?というテーマの本。著者の結論は、“生まれは育ちを通して”遺伝子は環境から情報を引き出ししなやかに自己改造していく装置であり、○○遺伝子があるから、そうなるとはいいきれないとするもの。より、環境に重きをおく主張。先祖から得た遺伝子の持ちながら生まれるが、おかれる環境から影響を得る。自分がどんな存在か学びながら、自分がありたいように行動をすれば、変化できるとする意味で希望的である。
一方で遺伝子の影響は受けるはずでそこは意識する必要はあるのではあるまいか。しかし、遺伝子というものから考えると親や、兄弟という存在を通してしか、実生活では考えられないので、限界がある気がしてしまう。結局、人間とは、そう簡単にわからない複雑な存在というのがいまのところのようだ。そして、この部分は明確に解明されない方がよい気はする。解明されるほど神に近づくのではなく、人としての可能性、救いがなくなるのではないだろうか?
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原題"Nature via Nurture"に言いたいことは尽きている感じ。
「生まれ」は変えられないが「育ち」は変えられる、のような単純な見方を否定する、そんな本です。
個人的には、例えば、胎児環境のような「育ち」側に属するような問題が、果たして変えられるだろうか?という例えが印象に残った。
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遺伝子というとプログラムを思い浮かべなんか生物の生育を厳格にコントロールするように思えるが、本書は遺伝子が環境の影響を敏感に受けその振る舞いを変えることを説明している。そのあたりが「やわらかな」遺伝子とした邦題の由来なのだ。また生まれと育ちどちらもが密接に関係しあい進化や生育にバラエティを与えていることはちょっと意外だった。でも本書 遺伝子と環境の相互影響を病気や脳の発達を題に説明しているのだけどちょっと難解だった。
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著者は断言を避け、あくまで中立的な位置から判断を保留して読者に遺伝学の先端を提示している
出版から10年近く経ち、その内容の偽りのなさに驚き、著者の戦略の確信を褒めざるを得なかった
「天才を考察する」などがこの本の内容をもっと分かりやすく踏み込んで伝えていますので、難しかった向きはそちらをどうぞ
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生まれか育ちかといった長年の論争に関する発見の歴史を通して、遺伝子発現のメカニズムについて語る。本能、意識、知識、経験、成長、才能といった個の源泉について、様々な角度から行われてきた実験を通して本質に迫る。
本筋からはずれるけど「言語は手話が先行して発達し、わりと近い過去に言葉を使った会話へ移行する能力を手に入れた」とする説が興味深く思えた。
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人間を決めるのは、生まれか育ちか。この論争は今や、遺伝子か環境か と読み変えられて続いている。
9月1日の読売の夕刊で紹介されていた。
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氏か育ちかの問題に取り組んでいる本。生まれは育ちを通して(Nature via nurture)という言葉が印象的かつ、その言葉の理解を促すようにわかりやすく書かれている。
ナニナニの遺伝子があるという俗説を否定しながら、それでも遺伝子が私たちを形作っているのですと言い切る根拠を与えてくれる。
決定論者な皆様へ、世の中はもうすこし、やわらかい。
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原題は、”nature via nurture"で、「育ちを通じた生まれ」というもの。英語の慣用表現"nature vs nurture"(生まれか、育ちか)をもじったもの。
この原題タイトルがまさにすべてをいい現しているな。ここまで本の内容をタイトルに圧縮できている本は、ドーキンスの「利己的な遺伝子」くらいじゃないだろうか。
つまり、これまで「生まれか、育ちか」という視点で、遺伝子決定論的な立場と環境決定論的な立場が、さまざまな観点から議論を繰り広げてきたのだが、この問い立てがあまり意味のないもので、遺伝的なものも、環境的なもの、つまり家庭、教育、文化などなども当然影響があるので、そのうちの一つだけが決定するというようなものではないのだ。どれも影響している。
というと当たり前のようだが、ここからが、著者の冴えている所で、どれも大切なのだが、遺伝子はなんだか人を制約するものというふうにとらえられ勝ちだが、そうではなく、人がいろいろなことをすることを可能にするためのものなのだ。
なので、遺伝的な性質は、その人が置かれた環境のなかで、発揮されたり、発揮されなかったりするようなものなのだ。
つまり、生まれは、育ちを通じて、発現するものであり、両者は相互的なプロセスなのだ、ということ。
といっても、彼が批判しているのは、線形的な決定論で、すべての結果には原因がある式の思考である。遺伝的な要素も環境的な要素もそれぞれがかなり決定的なところがあるのだが、複数の要因がからむので、決定論的であっても、そんなに単純ではない。つまり、非線形的な決定論、という複雑系的な結論に到達する。
という世界の中で、決定論も自由意志も、これまた、どっちか?と問いを立てること自体、これまた無意味ということになる。
一見、当たり前のことを言っているようで、私たちがハマり勝ちな思考のクセを心地よく揺さぶってくれる本であった。