紙の本
虐待の連鎖…。誰も虐待を止められなかった事実が悲しい
2005/09/11 04:43
9人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:チャミ - この投稿者のレビュー一覧を見る
2000年に実際起こったネグレクトで幼児が死亡した事件を扱ったノンフィクション。
虐待と言えば、身体的虐待を思い出す人が多いと思うが、これはネグレクトによる虐待で悲惨な結末を迎えた事件だ。
身体的虐待が第三者に発見されやすいのに対し、ネグレクトは発見されずらい。この物語でも、保健婦、児童相談所、医者などが気づいているにもかかわらず、母親のネグレクトを誰も止められない。それは、人の生活に口を挟むということが日本人には苦手だからだ。もしかすると虐待かもしれない、でも違ったら母親を傷つけることになるから、もう少し様子を見よう…そんなことで発見が送れ、被害者である幼女は3歳の誕生日をダンボール箱の中で迎え、そのまま何も食べずに死んでいった…。
読んでいるうちに怒りを覚えたのは、母親ではなく、そういった虐待を未然に防ぐための公的機関に対して。
そして、何よりショックだったのは、母親自身がその母親にネグレクトの虐待を受けていたこと。
母親から見放され、食べるものは何もなく、ごはんに醤油をかけた食事しかしていない子が、母になったら…。誰も育児を教えてくれなかったら。母の愛情を知らずに育った子が母になった時、どうやって子供に愛情を注ぐのか…。
そう、この我が子を死なせてしまった母親も、母の愛情を知らず、ネグレクトの状態が彼女の日常だった。そして、また、その母も親から同様の扱いを受けていた…。虐待の連鎖が浮き彫りになって見えてくる。
それでも、この若い母親は最初は必死に子育てを頑張る。悩み、苦しんで…。だが、無関心な夫、干渉する姑、いいかげんな実母、そして対人関係を築くのが苦手な性格が禍して、最悪の結果に…。
ひとつの歯車が狂うと、全ての歯車がおかしくなるように、この若い夫婦の生活が崩れていく。そして、犠牲になるのは幼い女の子。
何より、この幼女の甘えたい気持ちや辛い気持ちが、ひしひしと伝わってきて、たまらない。たった3歳で、そう思うだけで涙があふれた。
無知とはこんなにも悲惨な結果を生むのか、そして知識を得ようとしない母親と知識を与えない社会にとても憤りを感じた。
この本は、若い夫婦(加害者)の生い立ちから、加害者の親の生い立ち、そして犠牲になった女の子の生後から亡くなるまで、そして裁判の経過まで詳しくリアルに書かれている。
何よりもこの本には、子供に対する愛情がさりげなく匂う。
それは、この本の著者が子育て中の母親であり、若い母親(加害者)と同じく育児の悩みを持つものだからこそ描けたものだ。
育児中の母親たちに、そして虐待を取り扱う公的機関の人々に、ぜひ読んで欲しい一冊。
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ものすごくのめりこんでイッキ読みしてしまった。育児放棄はちょっとしたすれ違いで起こっちゃうのか。な。わからないけれど。
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2005.8.17. ネグレクト=育児放棄。虐待4種の中の1つである。2000年に名古屋で、ダンボール箱に20日も放置されミイラのように痩せ死んでしまった女の子を巡るルポ。他人事じゃない、そういう思いが強すぎて可哀相とか辛いとかそういう感情をなぎ倒す勢いで読んだ。ギリギリいっぱいまで、我慢して読んだ。真奈ちゃんが死んだ時点で、ありありとそういう様が浮かんでこわい。こわかった。
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若い夫婦が3歳の娘をダンボールに入れて放置し、餓死させた事件を追ったドキュメント。いたたまれない、としか言いようがないです。
育児放棄は犯罪である、しかし親を罰するだけでは問題は解決しない。
問題を抱えた親に、いかにして心を開いてもらい、援助したら子どもにとっていちばんいいのか・・・
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これは読んだ後引きずりました。むごいです。読んでいる間も涙が止まらなくて読んだ後2週間くらい落ち込んでいました。3歳で愛情を知らず亡くなった真奈ちゃんの気持ちを考えるといたたまれない…
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この本を読んだら、外で小さな子どもを見ると「この子はちゃんと愛情を受けて育ってるんだなぁー」と思うようになった。
このような親への援助を考え直していく必要があると思う。
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悲しくなった。一部の情報だけの報道で、一方的に責められて、人間じゃない!くらいの言い方をされている加害者も、別の側面からは被害者でもあったという話。もちろんだからって許されることではないけど、そこまで精神的におかしくなってしまうこともあり得るだろう環境もそこにはあったんだ、ってそういう世界もあることを想像できない人はこれを読んでも「やっぱりどんな理由があっても子殺しは鬼畜だよねー」と言いきってしまうんだろうけど。父親の、父親としての自覚の足りなさにもイラッてきた。若い母親の小さい肩には重かったんだろうな。
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今この瞬間にも、どこかであるかも知れない。
そんな『親として成長出来ていない親』が起こした悲劇です。
実際に発生した事件ですので、興味深かったです。
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ネグレクト。
無視。無関心。虐待。
ちほが借りてた本。
きちんと子どもを育てられない親。
だってきちんとした家庭で育てられてこなかった。。。
悲しい、考えさせられる、ちょっとブルーになる、記録書。
2008年夏休み.帰省時
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三畳間の、わずかな空間に置かれたみかん箱大の段ボールの中に
真奈ちゃんは両膝を曲げた形で入れられていた。
直角に曲がった関節は固まっており、
2、3週間は動かしていなかったことを物語っていた。
死亡時の身長は三歳児女児として平均ほどだったが、
体重はわずか5キロ。
標準の13.6キロに4割に満たなかった。
胃内容物は20ミリリットル。大さじ一杯ほどの
茶褐色の粘液成分だけで固形物はなかった。
虐待をする親は
キレやすいとか、意地悪だとか、性格が悪いのかだとか
体罰主義なのだとか、攻撃的なのだとか、
そんな事じゃないのかなぁと思っていたのですが
全然違って、
真奈ちゃんを死なせてしまった父親も母親も、
この本で見る限りそんな攻撃的な人柄ではなくむしろ内公的で、
周りからの目を気にしていたり、繊細でデリケートな印象でした。
真奈ちゃんが生まれた頃は、
沢山写真をとって、とてもかわいがっていた。
けど二人とも子供のころから、
キツい家庭で育ってます。
もの心ついた頃からせまい、汚い部屋。
父から母への家庭内暴力、
両親からの虐待、離婚、帰ってこない親、極度の貧乏、など。。
その過酷さに圧倒されて正気を保ち生き延びるため、
辛い現実には
視覚や、感情にふたをすることを小さい頃に覚え
シャットアウトして生きて来た
真奈ちゃんの父親と母親。
だから真奈ちゃんの発育が遅れてきて、
どんどん体調がわるくなり、
一生懸命世話をしても上手く行かない育児の問題に
向き合って戦うことができずに
真奈ちゃんを重荷に感じた時、その過酷さに
シャットアウトすることを選んでしまったようでした。
虐待というのは
なんとなく手をあげちゃう、という問題ではなく
その人の昔からの育った環境など
深く深く深いところに原因があるのだなーと思いました。
私子供とか育てれんのかな〜っという軽い気持ちで読み始めたんですが
すごい記録書でした!
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育児放棄で死に貶めた背景と経緯、ネグレクトは異次元の事件ではなくもっと身近で深刻な問題です。一歩間違えたら私も当事者になってたかも・・・。妊娠、中絶、出産、育児についてもっと沢山の人に読んで欲しい。
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自分の子育てを振り返ってみる。ちゃんと愛情はあるだろうか?意思の疎通はできているだろうか?
もう小学生になってしまったわが子だけれど、これからでも遅くはないきちんと親子の気持ちを向き合わせなければ。と考えました。
そして、私は親にどうやって育てられたのだろうか?
ゆっくりゆっくり考え直すことができました。
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幼児が両親に放置されて死亡した事件を軸にネグレクトを描く。
幼すぎる親と、そこに手を差し伸べない社会のすきまで、子供たちはあっさり死んでしまう。
死にそうな子供が怖くて見られず、目をそらすうちに死なせてしまうっていうのが、すごくわかる気がする。
だって怖いもの。怖いものは見たくないもの。病院にいって怒られるのも怖いもの。
それでもやらなきゃいけないし、できないなら助けてって言わなきゃいけないんだけど。
どっちもできないなら子供なんかにかかわっちゃいけないんだけど。
その幼稚さには覚えがある。
この子たち(両親)がダメなのはもちろんダメなんだけどダメダメって非難するのも無意味でダメで、この子たちに気づけない社会のほうを変えるべきだろうと思う。
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「ゆさぶられっこ症候群」によりしょうがいが残った疑いのある娘を どうしても愛することができなくなった両親。
ほどなく授かった息子が順調に育つのを見るにつけ、娘のありのままの 姿を受け入れることができず、次第に育児放棄へと陥っていく様子を 時系列を追って生々しく描いている。
実際に起こった事件に基づくノンフィクション。
どうしてこのような事件が起こってしまうのだろう、という やりきれない気持ちと同時に 「自分も本質的にはこの母親と大して変わらないのではないか」と思ったのを覚えている。
「子どもは社会が育てるもの」という認識が広く一般的になって欲しいと思うのは過度な期待なのだろうか。
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2000年に愛知県で起きた、3歳の少女が段ボールに入れられ遺体で見つかったという虐待事件のルポ。
現在でこそ、児童虐待は大きく取り上げられ世間の注目も集まり、病院や学校のみならず、一般人でも自分の周りでその疑いを感じられる案件を見かけたら通報しようという気運が高まっているが、この事件が起きるまでは、そもそも児童虐待という言葉もそれほど知られていなかったという。
このセンセーショナルな事件をきっかけに大きく注目を集めるようになったわけだが、確かに、冒頭で描かれている発見時の遺体の悲惨さは、およそ現実のこととは信じられない、信じたくない、こんな非道な仕打ちを実の子供にできる親が、この世に存在するものなのだろうかと恐ろしくなるほどである。
そこだけに目を向ければ当然、加害者となった保護者への憤りは誰しもが強く感じるだろうし、厳罰を求めたくなるのも無理はない。
ただ、このような虐待事件の難しいところは、加害者を厳罰に処すれば解決するという類のものではないというところだ。
多くの場合、その加害者自身が被虐待児であったなど生育環境に問題を抱えており、そしてそれは世代を跨いで連鎖していることがほとんどだ。さらに悪いことに、数十年前に比べ、核家族化、プライバシー偏重主義などで家庭が社会から孤立しているという状態は顕著であり、そのことが虐待の増加、潜在化を促進してしまっている。
加害者の処罰を叫ぶのは簡単だ。だが本当に虐待を無くしたいなら、今もその負の連鎖の中で苦しむ人への、ループを断ち切って抜け出させる支援が絶対不可欠なのだ。
不幸な生育環境にあっても適切な援助を受けることができたおかげで、その虐待のループから抜け出せている人も少なからずいるのだ。
家庭が孤立しがちな現代、子育てが孤立しない、社会で手を差し伸べることができる仕組みを作って、虐待で命を落とす子供を減らしていかなければ。