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パトチカの「歴史哲学の異端的論考」、キルケゴールなどを手がかりに、聖書の意味を考える。いや、この本はすごいな。なんか引きつけられるものがある。創世記の中に、ヤハウェにイサクの死を与えよう(捧げようと)と、イサクに死を与えようとしたアブラハム。しかし、ヤハウェは疑う事もなく、誰にも告げることもなく、自分にイサクを捧げようとしたアブラハムに、直前になって、死を捧げる必要はないと告げる。そのように、「死を与える」事の二重の意味を読み取り、論考を重ねる。
前半、中盤は、パトチカの「歴史哲学の異端的論考」、キルケゴールの論考の検討であるが、後半になるに従って、デリダの個人的な考えがあふれ出るように読めた。聖書なんぞ良く知らないし、彼が引っぱり出している論考もあまり分からない(パトチカは読んだが、まだまだ修行が足りず、読めなかった)。キリスト教だけでなく、イスラム教、ユダヤ教にもつながる創世記。ここから我々は何を考えるべきなのか。どのようにこのデリダの論考をつないでいけばよいのか。
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死を与えるというこの2語はデリダのこの論の中で共に、震えるような複数性を持っている。それらが互いに共振しながら我々にめまいを起こさせようとしているのだけれど、デリダがそうしようとしたわけではなく、彼は思い出せようとしただけだからそんなに怒らないでいいはずだ。
デリダらしく非常に読み進めにくいが、それでも分かるようにできていると思う。彼が丹念で執拗な手つきで撫ぜているその表面に溺れることもまた、複数性に近づいていくことだろうから。
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読んだからって絶対解ったような気になってるだけで、肝心の信仰については全く解っちゃいないというか解る気がないというか、なんだけど。
信仰があろうとなかろうと、精神だけを確かな己と定義して維持し続けたいなら、黙して独り善がりに徹するしかないんだろうな。