紙の本
わたしは、どうも司馬遼太郎などが描く勝海舟像が気に入らなかった。その疑問が、この本で氷解した。結局、勝も自分のことしか考えることのできなかった人間に過ぎなかった
2005/07/16 21:13
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投稿者:みーちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
実はあまり期待しないで手にした本です。私の中で、徳川慶喜という人、けっして高い評価の人ではありません。司馬遼太郎の小説もですが、他の小説を読んでも決していい印象を与えない。徳川家を信じる人々を裏切って、一人で逃げ帰ったり、自分だけで徳川の歴史に幕を引いてしまったり。
しかもそこまでの犠牲を払って徳川300年の歴史にとって変わった維新政府、これがどうしようもないものだった、という評価もあって、結局、日本人に天皇制の悪夢を与えたのが、慶喜の軽率な動きにあった、というのが私の歴史観なわけです。ま、明治維新を評価することから始まる現代の主流を占める考えとは全く違うわけですけれど。
で、その慶喜の明治期の人生、面白くないだろうなというのが正直な気持ちでしたし、筆者である家近自身も、そう思っていた節があります。ただし、彼の場合は、その時期の慶喜に関する記録が極めて少ないという専門家としての見方もありますし、やはり慶喜の歴史的な役割は、大政奉還で終わっているという判断もあります。
慶喜の歴史的な存在という点については、家近のとっても、この本を書き終わった時点でも少しも変わらなくて、あくまで明治期の慶喜は有名な個人でしかありません。歴史的に何をなしたかだけに絞れば、たしかに面白い本ではないのです。ただし、普通の人間、失意を体験した人間が、その意地を貫く、ある意味、よくある人生でしょうが、そういうものが好きな人には堪らない話なわけです。だから、私にとってはアタリのものでした。
考えさせられたのが勝海舟への評価です。じつは私、司馬遼太郎、子母沢寛、はやみねかおる、のどの本を読んでも勝海舟のことが好きになれません。それは親の小吉についても、祖父である男谷検校についても同じなのです。無頼なら無頼らしく権力にたてつけばいいのに、権力側につく、もう庶民としては許せない人間です。しかも日記などつけて、歴史家がそれを貴重なものと有り難がるものですから、皆(私も含めてですが)勝=英雄みたいに思っている。
それが慶喜の側から見ると、そうではない。その視点が新鮮です。むしろ私には、ここに描かれる勝海舟こそが真実と思えるのです。なぜって、そう考えると、今まで色々な人が誉めてもどうしても納得できなかった勝の不気味さが、すんなり理解できるわけです。なぜ山岡鉄舟のほうが好ましく見えるのか、それも含めてです。
そしてそれを渋沢栄一が言っている、勝などとともに生きた実業家として素晴らしいバランス感覚を見せた人間が、勝を嫌う。政治家たちは勝を褒め上げる。でも、政治家の人間観などにどれ程の価値があるものですか。今の政治家を見ればわかるでしょう。まだ実業家のほうが信頼できる。
また、晩年ですが大正天皇との交友があります。これは意外です。また明治天皇の皇后美子と慶喜とが結婚していたかもしれないということから、皇后が晩年の慶喜に何かと親しげにしていることを説明する辺りも、自然で好ましい気がします。戦前なら不敬罪あつかいになりそうな文ですが、決して醜聞としてではなく、人間の自然な心情として理解できます。
読んでいて気になったことがひとつ。この本の何処にも慶喜の生年の記載がありません。しかも、章ごとに明治何年と書かれているのですが、慶喜何歳と書かれるのは死の時だけです。慶喜の苦悩やそこからの解放には年齢は不可欠の要素です。すくなくとも各章に慶喜何歳〜何歳、くらい表示する親切さは欲しいものです。素晴らしく面白い内容の本だけに、それだけが残念でなりません。
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出版社 / 著者からの内容紹介
将軍の座を追われた後の長く平凡で充実した人生
大政奉還後、表舞台から姿を消した徳川慶喜。最高権力者の座を追われたあとの45年とは?水戸での謹慎から静岡、東京と居を移したその日常は失意のなかで営まれたのか、平穏な日々だったのか?「歴史上の人物」として静かに生きた男・慶喜の後半生。
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もっとも当時、磐石そのものと多くの人に受け止められていた近代天皇制国家の崩壊の可能性を、一番実感をもって想定しえたのは、皮肉にも同国家に完全に包摂されるに至っていた慶喜であったかもしれない。
(P.191)
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明治以降の徳川慶喜の生涯について
資料をふんだんに用いて分かりやすく記した良書。
大変読みやすく、内容も興味深い。
著者の慶喜に対する思いの深さからか、
慶喜自身の思考に対する推測が過ぎるのでは、と思う箇所もあるが、
それなりに裏付けや注もあり納得はいく。
私個人となって以降の慶喜の人柄が通じるようで好印象を得た。
特に公爵授与以後に訪れた孝明天皇陵参拝のエピソードには
心を打たれるものがある。
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「渋沢栄一」の艶福家たる内情を読んで、そういえば「渋沢栄一」のかつての主人であった「最後の将軍・徳川慶喜」もたしか子沢山だったなと思い起こし、本書を読んでみた。
「徳川慶喜」といえば、人気のある「坂本龍馬」の小説やテレビでも必ず出てくるB級人物である(と言っては失礼か)。
幕末の「大政奉還」時には脚光を浴びた人物であるが、その後の薩長との戦いや、江戸における幕府崩壊に至る経過での、あまりにも早く敗北を認めるその対応など、いまだに謎が多い。
本書で、「その後の慶喜」を知ることができると思って読んでみたが、やはりよくわからないと思えた。
「徳川慶喜」が、幕末以降長い謹慎生活をおくった後に明治35年(1902年)に公爵授与という復権がなされたことや、大正2年(1913年)に77歳で死去したことはあまり知られていないのではないか。
薩長との戦いの後に、水戸に謹慎で下ったときは、慶喜32歳。その後の77歳の死去までの長い生活を本書で読むと、銃猟・鷹狩り・囲碁・投網・鵜飼・謡い・能・子鼓・洋画・刺繍・将棋等々、いやいやこれは趣味の領域をはるかに超えるほど精進している。当時高価であった写真や自転車などは後世でもよく知られている。
また、二人の側室とのあいだに10男11女をもうけるなど、いやいやお盛んなことと嘆息する思いがした。
反面、彼の幕末の活動についての言動は一切記録されてない。彼が意識的に避けていたことは間違いがない。結局、本書を読んでも「徳川慶喜」という人物がどのような人間で、何を考えて生きていたのか、全くわからない思いを持った。
「徳川慶喜」を扱った研究書は少ないと思えたが、それも無理はない。本書で読む「徳川慶喜」は、何を求めて何を考えていたのかが全く理解できない。
そもそも本人に、自分の行動を歴史に刻むことへの「歴史的人物」としての自覚はなかったのではないか。
本書は、あまり評価はできないが、それは著者のせいではなく、取り上げた「徳川慶喜」の生き様が評価できないと思うからである。やはり、歴史に名を残した人間ならば、自分の課せられた生き方を語り、歴史に刻み込むべきだろう。なにも語らずに、そのまま生きながらえて畳の上で大往生した「最後の将軍」の姿は、あまり見たくはないし、美しくないと思えた。
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将軍職を退いた後、かなり長生きをしたと言う徳川慶喜。
激動の時代を乗り越えて、色んな想いを抱えていたであろう人の第2の人生。とても面白く、興味深く読みました。
語らないことを選んで生ききった、すごい人です。
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明治入り後の40年に亘る徳川慶喜の半生を綴る。維新後、趣味に興じ畳の上で大往生したと言われる慶喜だが、少なくとも維新直後の10数年は逆賊として抑圧された中で生きざるを得なかったようだ。それでも、趣味に打ち込んで明治後半には名誉回復も果たした慶喜は、他の世界のラストエンペラーと比較すれば幸せな人生だっだだろう。
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ホラ吹きであると評判の勝海舟の本は何冊か読んだので、ケイキさんの側からの話も読んで見たいなと思いました。どこかで聞いたことはありましたが、本当に昔のことを語らずに過ごしたと知り、「敗戦の将兵を語らず」ということなのだろうとけど、徹底しているなあと時代を感じさせられました。現在に置き換えるとソ連崩壊のゴルバチョフであるとか、直近で言えばエスタブリシュメントの終焉であったオバマさんに近いのかも知れませんが、その後の人生の過ごし方が大きく違い、色々と感じさせられました。
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徳川慶喜の幕府瓦解以降に絞った評伝。「敗者」としての失意や近代天皇制に対する抵抗感を強調する先行研究に否定的で、徳川宗家の従属的「隠居」扱いという身分上の弱さや、勝海舟らによる行動抑制方針が結果として国家からの距離を生んだとみなす。史料の制約もあって推測も少なくなく、別のアプローチによる研究が欲しいところ。
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江戸時代最後の将軍徳川慶喜については、大政奉還・江戸城無血開城以後の動向はあまり知られていない。普通、このような歴史上の人物は、亡くなるまでのことが詳しく語られていてもおかしくないのに……。
それ以後の慶喜については、慶喜の孫にあたる榊原喜佐子さんが書いた『徳川慶喜家の子ども部屋』を読んで、多少の知識はあった。日本国の支配者だった人物が、若くしてその地位から退き、その後の半生を一体どのように過ごしたのか、興味があった。
将軍の座を退いた慶喜はとにかく趣味人であったようだ。もともと好奇心旺盛な性格で、「思いついたらとにかく行動」の人だったのかもしれないけれど、意図的に政治の世界から離れるという思惑も多分にあったのだろう。
ずっと疑問に思っていたことがあった。それは、慶喜が将軍になってから、あまりにもあっさり大政奉還をしてしまったことだ。たしかに、当時はそうしないと日本を二分する内乱になっていただろう。大局を見極めていたということだが、それにしてもあっさりしすぎだ。
この本を読んで、なんとなく感じたのは、慶喜は徳川武士というより、自分のルーツを皇族に近いものと感じていたのではないだろうか。実母が有栖川宮家の出であること。正妻が今出川家長女で、一条家の養女として嫁いできたこと、実父の徳川斉昭が、ガチガチの尊皇攘夷の烈公だったこと。他の将軍と違って、天皇をはじめとする皇族に、親しみや尊敬の念を抱いていたのではないだろうか。晩年に公爵を授かり、朝敵の汚名を清算できたとき、すぐに京都へ向かい、孝明天皇陵をはじめとする歴代天皇陵を参拝している。そういう慶喜だからこそ、スムーズに政権が移行できたのだろう。
たしかに、『その後の慶喜』では大河ドラマはできない。でも、『その後の慶喜』のほうが、心の深い奥底を探ると面白いと思う。
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「家扶日記」などをもとに明治期の慶喜を読み解く。
これは明治5年1月から大正元年12月までの、徳川慶喜家に仕えた家扶や家従が書いた、慶喜や家族の日常生活を記したもの。これは松戸戸定歴史館が所蔵し閲覧が可能になったのは1997年から。
鳥羽伏見から江戸、水戸、静岡、東京と慶喜の動きの内情が分かり興味深かった。江戸にもどり慶喜が自身の助命運動をさかんに行ったというのを別な本で読んでおり、その時はなにか腑に落ちなかったが、これを読むと、大政奉還もし、図らずも朝敵となってしまい、自身には朝敵との意識は無かったからなのだろう、と思った。
いままでの慶喜観に関しては、鳥羽伏見から江戸に逃げ帰り、大政奉還したにもかかわらず、朝敵となり明治期は薩長、朝延に恨みを抱いて、失意のなか生きたとするもの。これは幕末期の慶喜の評価と密接につながるとする。幕末期の慶喜は幕府権力の維持発展をはかることに務めた、とされているが、氏は大政奉還後、王政復古のクーデターの3日前にその動きを知りながら阻止しなかったことで、最終段階期には、幕府の復活はもはやあり得ないとの諦観を抱いていた、とする。
また、慶喜は明治30年代に復権を果たすまで、常に自身を朝敵としての立場を意識しつづけ、幕臣らの自分に押した卑怯者との烙印に耐え続け、その間の事情は一切説明しなかった。
慶喜が帰府後、静寛院宮に語ったところによると、鳥羽伏見後あわてて江戸に逃げ帰ったのは、錦旗をあげて大阪城にある官軍に敵対すれば、即朝敵となることを恐れたため。だが、その思いとは裏腹に、配下が鳥羽伏見で錦旗に発砲したとして、「朝敵」の本家本元になったと。
が、「朝敵の汚名」を晴らせないまま水戸へ向かう。だが水戸では派閥争いが続いており、勝海舟らが新政府に静岡移住願いを出し許可される。
明治期になっては徳川宗家、慶喜に対しては勝海舟が目を光らせており、慶喜には勝、大久保一翁、山岡鉄太郎らが、慶喜に自重を求めていた。それは勝らが、慶喜の名誉回復運動をしたことで、幕臣からの風当たりも強かったためもあるという。それが静岡に30年もいたことにつながるという。
<妻美賀子>
妻美賀子とは、明治2年から静岡で暮らす。「家扶日記」をみる限りでは、共に釣りにでかけたりと関係は好転し、明治10年代は平穏であったとする。明治19年には、不仲の元ともいわれる慶喜の義祖母・徳信院が静岡に来て、慶喜夫婦で院をもてなしている。美賀子は釣りを好んだようで、共ひとりを連れ清水湊へ釣りに行っている。また明治24年の7月7日に田安家と一橋家に嫁いだ鏡子と鉄子が里帰りした際にも彼女らと慶喜と美賀子が汽車で清水湊に釣りに行っている。
<慶喜の主な収入源>
明治35年6月3日、慶喜に公爵が授与され、徳川慶喜家を興すことが許される。それまでは宗家の義父扱いで、宗家からお金が来ていたが、家扶日記には、明治35年9月3日の「本月御定例金持参」を最後に記述は無くなる。
では新たな収入源はというと「家扶日記」では、第一、第十五、第三十五の各国立銀行、日本鉄道会社、朝のセメント会社、日本郵船会社、大日本人造肥料会社(これらの多くは渋沢栄一が関係)の株式投信の配当金がかなりの額にのぼったことが伺える。日露戦争の国庫債券も買ったようだ。株式は他の華族らも購入しており、渋沢が援助したというより、購入は渋沢栄一の事務所を通して株式を購入して、そこからの配当金を主な収入源にしていた、と考えられる、とする。
2005.1.10第1刷 図書館