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出版社 / 著者からの内容紹介
昭和恐慌前夜、メディアに誘導された世論は、浜口雄幸・井上準之助の「シバキ上げ」政策を熱狂的に支持した。未曾有の経済危機を招いた大新聞の「偏向報道」を明らかにする。
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本書は、1928年代ほどから30年代の浜口雄幸と井上の緊縮財政と金解禁旧平価復帰の政策と
現在の旧小泉政権の「小泉構造改革」の緊縮財政と財界再編成に傾く「政策」の類似点と政権の政策
に対応するマスメディアの経済政策に対する言論の類似性を示す。
マスメディアの言説の経済学的間違いを随所に示し、それによって、読者の経済学的知識もより適切
な方向に差し向けることが出来るように出来ている。随所にコラムとして金本位制の短所も明示。
本書によって、マスメディアの無知、本書では朝日新聞、大阪毎日新聞の出鱈目な言説、現在の
メディアの無知として産経新聞、朝日新聞のデフレに対する精神主義による対応策が、どれほど愚昧で
また、大衆受けする言説であったかが、縷々述べられる。
今も昔も変わっていない。
「合理化とは何か
先に、当時の人々にとって耳慣れない新しい言葉である「合理化」という言葉が、「生産費節
減」という意味に大胆に要約され、プラスの価値をもった言葉として流通していったことをみた
(第2章九三〜九七ページ)。とくに金解禁の時日決定と相前後して、この「合理化」が、民政党
内閣の次なる政策の柱となるものであるという′ことが、人々の間に周知徹底させられていった。
しかし、もともと工場における科学的管理法の導入という意味合いで用いられていた「合理
化」を、政府が経済政策のスローガンとして掲げるというのは、考えてみればおかしな話である。
個々の企業が、創意工夫の下でコスト削減を図っていくのは、資本主義的競争の下では当然のこ
とであり、何も政府に言われるまでもないことだからである。それができない企業はやがて競争
に敗れ、市場から退出していくのみである。
しかし昭和恐慌下、浜口・井上が唱えた「合理化」という「政策」は、究極には、そうした個
別企業が自らの利潤追求を図って、コスト・ダウンを行っていくことを意味するものではなかっ
た。新聞社説は、「合理化」 の根本概念を、次のように説明している。
社会生活に必要とされる商品を、需要の限度を計って生産し、適当な機械カと労働力を配
合して過不及なきを期するのが、真に合理的な産業だ。事業は、この方向に統制されねばな
らない。これは企業家が商品の社会的意味を知ることを最も必要とする。儲けるよりも、社
会的利便が商品の第一性質である意義の認識が、合理化の根本条件である (「社説 合理化
の根本概念」 『大毎』一九三〇年一月二七日)。
すなわち、ここで言われている「合理化」は、むしろ資本主義的な競争原理や企業の利潤極大
化を否定したところに成立する、きわめて社会主義的な計画経済に近いものだったのである。プ
ロローグで、浜口・井上コンビによる経済政策が「市場原理主義」だとする金子勝氏の評価を批
判したが、「合理化」 はまさに反市場主義的な政策題目であった。武藤山治が、当時、浜口・井
上を 「社会主義的思想と官僚主義的思想の���いの子」と評したこともすでに触れたが (一一〇
ページ参照)、まさに 「合理化」 の本質と横心を突いたものであった。
したがって、実際に昭和恐慌の嵐が吹きすさぶ中、生き残りをかけて、個別に、あるいは産業
別に 「合理化」努力に邁進する企業や業界も、「社会的意味」を考えずに、自らの利益・利潤の
みを追求する主体として、新聞の格好の批判対象となった。前章では、中小の紡績業者が、歯を
食いしばって生産費削減を行い、失業者を出すまいと 「社会的」配慮までしていたのだが、そう
した努力も所詮空しいものと終わる論理的な構造を、この 「合理化」という政策はもっていたの
である。
思うに問題はひとり紡績業者だけのことではない。限産その他事業家が自衛上画策しつつ
高まる経済統制への関心
この昭和恐慌と産業合理化運動によって俸給生活者の生活が危機にさらされる中、『サラリー
マン』は、先に挙げた臨時産業合理局顧問の中島久万吉にインタヴユーを敢行している。中島は、
この『サラリーマン』 のインタヴユーに応じて、合理化の原則を以下のように論じた。やや長文
になるが、重要な部分を引用しておこう。
私の見る所に依れば、産業合理化運動に於ては大きな三つの原則があると思う。
共一は従来の市価経済に代うるに、原価経済となす事である。即ち生産工程に於ける一切
の無駄排除、別言すれば同業者間に於ける一業の統制、生産の管理、販売の協同と云うよう
な方法に依って、従来の市価経済を原価経済に代えると云うことを以て先ず原則としなけれ
ばならぬ。=…・第二の原則は、総ての経済計画に於て、営利主義に代うるに厚生経済
を以てしなければならぬ。別言すれば、産業に於ける人的要素の尊重と云うことが第二の原
則でなければならぬ…:・第三の原則はどう云うことであるかと云うと公経済と私経済に対す
る国家の意義ある干渉を認むることである。
一国の産業組織を生長さして行くが為には、どうしても一方に国民の消費カと云うものを
養成しなければならぬ。国民の消費カと云うものを養成して行こうとするには、どうしても
従業員に対する給与を豊かにしなければならぬ。
従業員に対する給与を豊かにすると云うと、生産原価が高くなる。生産原価が高くなると
物価はそれだけ高くなるから輸出が出来なくなる。輸出が出来なくなると云うと、日本の国
のような所では、工業の原料に対する外国の支払いが出来なくなる。……日本の国情に適す
る方法としては、玄にどうしても労資の間に一つ完全なる協調を遂げなきやいかぬ。
斯くの如くして産業合理化の問題は一面に於て冷かな科学的管理の指導と同時に、更に一
面に於て熱き人間協力の運動である。……産業合理化と云うことは決して一時の救済策でな
く新日本創造の時代的運動であるとも言えるし、産業上に於ける新生活様式の産出運動であ
ると言えよう (��『合理化』 は金解禁の後始末に非ず」一九三〇年三巻九号、一七〜三一ペー
ジ)。
産業合理化が、単に金解禁政策の後始末でなかったことは、中島も述べているように本当のこ
とであっただろう。否、むしろ本当にやりたかったことは、金本位制導入という縛りをかけなが
ら、不採算企業の清算を大胆に推し進め、最終的には一産業一企業 (製鉄においてはまさにそれ
が先駆的に実行された) 的な、そしてそこに国家の介入を大々的に認める、計画経済への移行
だったのかもしれない。ロシアのような下からの革A叩ではなく、上からの動員による官僚主導の
計画経済化の遂行というヴィジョンがこの中島のインタヴユーからは感じられるのである。
また麻生久が書いていたように、武藤山治式の温情主義の破綻などが、サラリーマン層におい
ても、中島のような財界新世代の行き方への関心を高めていく契機となつた。武藤山治に代表さ
れる旧来の自由主義的な経済観と、昔ながらの伝統主義的温情主義で失業などの問題を解決して
いこうとする方向は、もはや時代遅れのものと考えられ、そこからの転換が、国家社会主義的統
制へと向かう一つの道筋を用意していったと考えられよう。
中島は、のちに 『サラリーマン』誌上で、ロシアの計画経済についての論説 (「世界を震撼す
る労農ロシアの 『計画経済』 の実際と其の人間的方面に就て」 (一九三一年四巻一一号) を、ま
た一九三一年一二月には、『時事講座第一輯 ロシアの他の半面』と題する著作をサラリーマン
社から四六判七一ページの小冊子として出している。こうした計画経済・統制経済への関心は、
不況・失業という問題が、大衆的な問題となって現前に迫ってきたこの昭和恐慌期に高まって
いったのである。
デフレと内外格差
デフレは中期的に見れば日本の高コスト体質が是正される過程ともいえる。体質是正によ
る日本経済の競争力強化が購買力の増大をもたらし、国民生活の向上に結びつくとの認識に
立てば、デフレはそのために越えるべき高いハードルといえるのかもしれない(『産経新聞』
二〇〇三年九月二二日朝刊)。
前川レポー十以来一七年の努力の成果が、内外価格差を縮めてきたのだとすれば、二〇〇三年
に完八五年以来一八年ぶりの日本妄達成した阪神タイガースとともに、その努力を誉め称え
てもよいが、残念ながら内外価格差と表物価の下落であるデフレには何の関係もない。平成一
五年版の『国民生活白書』は、「第毒デフレ↑の国民生活」の中で、わざわざこの内外価格
差縮小とデフレとの関係に触れ、
デフレが内外価格差の縮小をもたらしているとか、デフレは日本の高価格が是正される過
程で必然的に生じるといわれるが、内外価格差の縮小とデフレの関係はどのように考えれば
いいのだろうか。
現在生じている内外価格差の縮小は、これまで生産性が低かった日本のサービス業が競争
の激化などによって効率化される過程で生じており、供給面の構造的な要因によって内外価
格差が縮小していること自体は望ましいこと��といえる。
しかし、サービス業という経済の特定分野で生じている内外価格差の縮小は、経済全体が
デフレ状況になくても起こり得ることである。例えば、製造業の物価上昇率が日米ともに○
%であり、サービス業の物価上昇率が、日本で三%、アメリカで五%であれば、内外価格差
は縮小するが、デフレにはなつていない。
逆に、デフレであるからといって、内外価格差が縮小するわけではない。例えば、日本に
おいて、モノとサービスの価格がともに二%下落し、アメリカにおいても同様にモノとサー
ビスの価格が二%下落すると、日本において二%のデフレとなるが、内外価格差は縮小して
いない。
このように、デフレが内外価格差の縮小をもたらしているとか、デフレは日本の高価格が
是正される過程で必然的に生じるというわけではない。物価水準の下落(デフレ)と内外価
格差の縮小とは別の問題としてとらえるべきだと考えられる(内閣府[二〇〇三])。
非常にロジカルで明快な説明であろう。産経新聞記者の方には、ぜめてこのぐらいは踏まえて
ほしいと思うのだが、こうしたことを知った上で、あえて先程のような記事を書いているとした
ら、それはそれでまた大問題である。」
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昭和恐慌(井上デフレ)と2000年代前半のデフレを比較し、メディアでの経済政策の取り上げ方を詳細に研究して経済失政を論じたもの。引用が多くてちょっと読みにくい。やや難。浜口雄幸と井上準之助による金解禁を肯定的に評価する歴史観、城山三郎の『男子の本懐』をあくまでもフィクションとして否定している。現代のデフレと昭和恐慌の類似点として、■為替の乱高下を金本位制に復帰しないせいだと煽っていたメディアと、円高・円安が日本経済を大きく揺るがしているかの如く説く現在のメディアが酷似していること。■楽をすることは悪で痛みに耐えることは善であるという経済思想が一般大衆の人気を博し、さらにそれを新聞などのメディアが煽り、相乗的に世論を形成していったことを挙げている。/昭和恐慌の時代にも大阪毎日新聞、東京朝日新聞などの大新聞が誤れる経済政策をもたらしていた。皆さんはメディアに踊らされることなく間違った世論を作るなよ!大衆!というのが著者の言いたいことでしょうか。今も昔もメディアはデフレを歓迎する。それは日本人に植えつけられた倫理観(耐えるは善!のような)によくマッチするからだ。しかしそれは間違っている!! デフレで得をするのは既得権益を持ったいわゆる資産家だ。そしてデフレを肯定的に書くメディアの人間は皆高給取りである! 知識のない一般大衆はグルになった政府とマスコミに騙されている。正しい経済ジャーナリズムが世論をつくることはない。これは無知な大衆が悪いのか、政府・マスコミが悪いのか…。うーん、両方かな。
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昭和恐慌当時の大阪毎日新聞の記事から当時のマスメディアが何を報じていたかを丹念に調査した書籍です。マスメディアがデフレを称賛するのはいつの時代も変わらないというのがわかりました。小泉改革時代に書かれた本ですが、今の財政再建の話と照らし合わせると面白いです。
分析も深く鋭く面白いのですが、なぜマスメディアが経済について正しく報道できないかという部分についての提言がなかったのが残念で、星マイナス1です。
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恐慌前夜、昭和4年8月28日宰相・浜口雄幸は
全国民に呼びかけた。伸びんがためにまず屈せね
ばならぬと。
本書は、メディア(新聞等)が金解禁をどのよう
に伝えたのかを検証した本である。
城山三郎の小説に男子の本懐という作品がある。
首相浜口雄幸と蔵相井上準之助による金本位制復
帰の話である。現在の通貨には、信用の裏付けが
ない。信用の裏付けとして金が用いられたのが金
本位制である。金本位制の基では、発行する通貨
量は、金の保有量によって制約されるが、戦争な
どによって財政支出を増加させなければならない
場合、金準備を上回る通貨を発行して、戦費をま
かなう。そうするとインフレになるため、金流出
を避けるために金本位制を一時停止する。
日本も第一次世界大戦のため、金本位制を停止し
ており、浜口内閣では、金本位制の復帰を目指し
ていた。
本書の結論としては、「昭和恐慌は井上デフレと
名づけたほうが適切な経済政策の失敗に基づくも
のであり、一部ではそのことが早くから認識され、
正しい処方箋が提示されていたにもかかわらず、
メディアは誤った理論と意図的な偏向報道によっ
て政策転換の遅延をもたらした」というものであ
る。金本位制復帰のため、政府は緊縮財政政策を
とったが、これによりデフレが進むこととなった。
デフレとは、物が売れないので、物を売るため、
製品の値段を下げる。そのためには労働者の給料
を下げる必要があり、給料が下がると消費が冷え
込み、さらに物が売れず不景気が続くことである。
(と私は理解しましたが)
本書を読むと、政府の経済失策とメディアーのミ
スリードが良くわかる。歴史は繰り返すと言うが、
現在のデフレも、昭和恐慌時にも似た感じがして
ならない。本書を読んでいて、政府の方向(公務
員給与問題、消費税、財政再建、TPP等)は間違っ
ていないか、メディアがミスリードしていないか
を改めて考える必要が感じられた。
現在の報道をみると柔軟性が感じられない。これ
しかないという、固定観念で突き進めば、同じ過
ちを繰り返すこととなろう。為政者にも柔軟な発
想が求められる。本書を読んでも解決しなかった
疑問が1点ある。大蔵官僚であった浜口と日銀出
身の井上がなぜ金解禁に固執したのかということ
である。経済通であるはずの彼らが何を目的とし
ていたのかが分ると、良かったと思う。
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昭和恐慌時のメディアや政府の言い分と現在のそれとが類似している──経済理論で考えると明らかに間違いである政策が最善策であるかのように喧伝される──のはなぜか?という内容と思わせつつ、昭和恐慌時の論調を追いかけてるだけの内容でちょっとタイトル詐欺な気もするが、当時の雰囲気を探るには良い本だと思う。
現在の日本を考えるうえで近代史は重要だと思うんだけどね。
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自著。もう15年前の本になってしまった。新聞というメディアと経済政策の関係を昭和恐慌という歴史的イヴェントを事例に分析した本。分析には甘いところもあるし、もう少し前後の変化も織り交ぜながら論じた方が良かったかなという反省点もあるが、これはこれとして完成品。