紙の本
日ごろ教師に対して不平タラタラの長女に読ませたら、フツーだねといって本を返してきた。そうか、きみもそう思うか。でも、奇抜ではないからこそ説得力もあるんじゃないかな
2005/04/03 19:40
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投稿者:みーちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
「先生はえらい」のです。
たとえ何一つ教えてくれなくても。
「えらい」と思いさえすれば学びの道はひらかれる。
だれもが幸福になれる、常識破りの教育論。
というのが、カバーに出ている紹介文。で、この論を読み解くカギとなるのが著者略歴だろう。ま、こっちが勝手に金田一耕助するだけの話だから、どこからも文句はこない。内田は1950年生まれ、東大仏文科卒、現在、神戸女学院大学文学部総合文化学科教授。さらに手がかりを書けば、おもな著書が『「おじさんてき」思考』『ためらいの倫理学』『レヴィナスと愛の現象』『寝ながら学べる構造主義』『私の体は頭がいい』『他者と死者』などである。
見えてくるでしょ、なんとなく。つまり団塊の世代の最後、いや塊に乗り遅れた最初の世代とでもいったらいい。だから、哲学、といったものに幻想を抱く最後の世代。さらにいえば、巨匠の文学に引き摺られる最後の世代。ちなみに、この本の中にも漱石、太宰といった名前が殆ど無条件に名作とイコールになっている。勿論、東大仏文とその世代とくればラカンなんていうのもよく分る。
で、著書を見れば、全て世の中を斜に見て、皮肉というよりはどこか軽い受け狙いふうのタイトルのオンパレード。うふふ、時代の枠組みを超えられないのかね、先生!てなことになるのは、私の東大出・団塊の世代・哲学大嫌いの言わせる技であって、けっしてこの本の評価ではないのでお間違え無く。
そう、その志はともかく、この本、ある教師像を見事なまでに明らかにしているのである。それは著者の言と矛盾するほどで、無論、それが悪いことではないので引用しておこう。内田は、明快な文章、誰にでもわかる論旨というものを、それだけのものとして斬り捨て
「古典といわれるほどの書物は、小説であれ哲学書であれ、読者に「すみからすみまで理解できた」と決して言わせないような謎めいたパッセージを含んでいます。これはもう必ずそうです。構造的にそうなんです。」と繰り返し説く。
その伝で行けば、誤解のしようのないほどに明快で簡単な論旨のこの本は、読むにも値しないものとなってしまう。そう、この本は驚くほどにはっきりした内容の本であり、寄り道こそ多いけれど、それが決して韜晦にならず、私たちが抱く「偉い先生に出会いたい」という夢を打ち砕き、むしろ、先生は私たちが望めばどこにでもいるという、新しい見方と夢を与えてくれる。
ただし、これが常識破りの教師論かといえば、少なくとも我が家では娘二人に小学生時代から、こう教えているし、少なくとも現在、世にいる教師を見る限り、それにとやかく言って無駄な時間を過ごすくらいなら、さっさと彼らに見切りをつけ、自分でさがそう、反面教師もまた教師と思っている。
むしろ今、気づいたのだけれど、その「教師」というところに「官僚」でも「政治家」でも、「芸術」でもいいから当て嵌めてよくよく考えてみれば、これって結局のところ体制擁護、責任放棄でもあるわけで、豊かな日本だからこそ許される議論なんだろうなあ、でもその向こうには荒涼とした風景が見えるなあ、とわが身を反省してしまう。そういう本である。
ちなみに、この本を見かけた長女が、いいねえと思わず手を伸ばしてきた装幀はクラフト・エヴィング商会。その名のとおりの手作りの着物の柄を思わせる品のよさである。
紙の本
美しい誤解
2020/03/13 23:39
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投稿者:6EQUJ5 - この投稿者のレビュー一覧を見る
「えらい」ということを起点とした教育論の本といったところでしょうか。しかし内田樹さんの著書が好きで結構読んでいますが、どうもこちらは馴染めませんでした。
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さすが内田樹。極論をまぁ、よくここまで流暢に信じ込ませられるもんだと感心しながらも、内田教の信者としては面白く読みつつ信じるわけですよ。救われるかもね。◆生徒側が先生を採点するなんてのはおかしいんでないの?みたいな話です。というよりも、採点されてる時点で、それは生徒をある一定のレベルに製造する作業員みたいなもんだということですね。そんなこと書いてないけど。◆教える教えられるってのは、もっと根源的なものだということですかね。いい学校に合格させるとかじゃなくてよ。そういうのは職業として教えてる予備校の先生の方が有利だもんな。勉強だけならば。そこにしか価値を見いだしてないから、先生というか教師と呼べる偉い人は見つからなくなったってことです。うん。◆あとコミュニケーションね。内田さんは哲学の人だから、よく話題に出るけども、コミュニケーションなしに成立するような関係ってのはないわけで、教師と生徒という関係性においても当然かかわってきますよね。そういうのも書いてあります。
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恋愛とは概して「私だけがこの人の本当の良さをしっているわ」という勘違いから生じる、と言い切る内田先生。そして、<人生の師匠>との出会いもそのような錯覚から起こる、という部分にひどく共感!あたしもそう思ってたよ!恋愛なんて勘違いから起こるモノなのです。非常に読みやすい、高校生向けの新書。学びたい、でも小難しい本はちょっと・・・ってな人にうってつけの、ちくまプリマー新書からの発刊もうれしい☆
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「私たちが『あなたはそうすることによって、私に何を伝えたいのか?」という問いを発することのできる相手がいる限り、私たちは学びに対して無限に開かれてい」るらしい。
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教育論かと思って手に取ったら,コミュニケーション論だった。
もういっぺんちゃんと読まないと,もやもやして終わってしまった。
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「先生はえらい」を述べるために、あれだけ豊富な話題、例えを出せるなんて…。
中高生向けということで、著者に興味を持った生徒が、彼の他の作品にも手を広げてくれたらいいな。
昨日読み終えたばかりの『下流志向』と同じことを言ってはる、というのもあってふむふむ頷きながら読んだ。あっという間だった。
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初めての内田樹。当たり前だと思っていることにメスを入れる人だな、と感じた。
「恋愛というのは客観的判断の断固たる無視の上にしか成り立たない」
うーん、確かに。
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目的:えらい先生ってなによ?
ラジオ文化放送にて放送中のラジオ番組
「武田鉄矢の今朝の3枚おろし」
ここでたびたび、まな板(話題)の上にあがるのが、
本書の著者である内田樹。
先生はえらいのである。
えらいから先生であって
えらくない人は先生ではないのである。
それぞれの人によって
先生は異なるのである。
みんなの先生なんてのは存在しないのである。
なるほど、
私が教壇に立つときに必要な心構えとは
なんなのだろうか。
みんなの先生ではない。
講師であり
先輩であり
先生であり
仲間でもある。
対して
どうでもいいのが、教官や教師である。
ただ、教えるだけ。
運転免許をとるのに、
わざわざF1ドライバーに師事する必要はないのである。
一流のドライビングテクニックを伝授するのに、
わざわざ自動車教習所に勤める必要はないのである。
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メインはコミュニケーションについて。コミュニケーションはなんだかよく分からないところが魅力なんだ。意図が伝わらないからこそ成立するんだ。って言ってました。目からウロコな概念でもなく、100%うなずける話でもなく、、、
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今年読んだ本の中で三本の指に入るいい本。中高生向けに書かれているため非常にわかりやすい。コミュニケーション論を話の大筋として、先生と学ぶ者の間にある関係性、先生の態度、学ぶ者の態度とは何かといったことについて語っている。読みながら、うんうんと納得してしまうことばかりが書かれていた。すごい。
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小一時間で読了。まず、私はこの人の人生に惚れた。どこぞの週刊誌で読んだんだけどね。すんごい。こういうのを見ると励まされるね。っていうか自分はまだまだって思うし。
それで先生って自分でいいと思った人なんだわ。そこら辺の学校の先生がみんなえらいんじゃないんだよ。
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コミュニケーション論、師弟関係論、交易論としても読める。おもしろい。「適当」とか「加減」とか正反対の意味がある言葉があるのは、そもそも言葉が誤読できるように作られているからであって、誤読や曖昧、謎こそがコミュニケーションの潤滑油なんだそうです。そして「良い先生」の条件は「謎めいていること」だそうです。こうやって結論だけ書くとなんだかよくわからないけどでも確かにそうかもしれないですね。夏目漱石など古典の引用もあって勉強になります。
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自分という人間は必ず「相手」を想定して接さざるを得ない生き物であることを説明しながら「人をえらいと思うってどういうこと?」や「コミュニケーションをとるってなに?」といったポイントを分かりやすく伝えてくれる本です。現代思想の分野でこれだけ分かりやすいというのはありがたいです。いずれ、ラカンやレヴィナスにも挑戦したいと思いました。
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教員を目指しているならば読むべき一冊というポップにひかれて買ったものの、
正直なところはどうだろう…
目からうろこ的な発想はかなりあったかもしれない。
尊敬できる先生とは恋人のようなものである。
いい先生というのはその子にとってだけのいい先生。
その子がその先生から学んだと思っていることは、実は自分で学んだこと。
だから、学びたいと思っていることがなければ、いい先生には出会えないということのようだ。
はっきり言って文章は分かりにくい。
しかし、筆者は「分かる」ということでコミュニケーションは終わり、それ以上の学びも生まれないという。
この分かりにくさはおそらく筆者の意図するところだろう。