紙の本
2部目を読んで。途中、である調になっているとこ申し訳ないです。
2005/04/28 02:50
5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:kiyo - この投稿者のレビュー一覧を見る
しっかり、2冊目も読ましてもらいました。結論を最初に述べます。やっぱり、おもしろかったです。まず結論? いやいや、結論、もう一つの部分に総括の結論を。なぜ、こんな書き方をしたか、それは、この書には、後書きが二つあったということもあります。そして、私は最後の後書きを読んでいて、この本が何故、こんなに、興味深く、大変おもしろかったのか、その答えが2つ目の後書きを読んでいて、釈氏の言葉で改めて気付かせてもらったからです。“最後の最後まで、すっきり読ましてくれる書”これが僕の総括の書評の結論です。
本当に良き本です。どこがおもしろく、どこが良いか。それは、終始一貫しての柔軟性、ライン際ぎりぎりを走ってるときもあるのに、決して話の筋を外さない、クオリティの高さ。それはまるで、F1でヘアピンカーブを曲がる時のような、そこはバトルの真っ最中で、観客や視聴者をひきつける、そして巧みなテクでそれを超えると、320キロで直線を走りぬく、それは、一瞬の風よう、しかし、人々に鮮超な感触を与えてくれる。まさに、それが、この書。内田氏と釈氏の談義であり、討議であると思う。そんな新鮮な風が吹く世界、だから飽きることはない、画面に食い入って、最後のチェッカーフラッグは後書き、シャンパンファイトはもう一つの後書き、そんなところのように思う。コメントが自分に酔っていてすみません、でも本当に素晴らしい書です(笑) どの辺りが柔軟か、それは、上巻の時の書評を見てもらうとして、全く立場の違う両氏がお互いを認め合いながら、すごい話が交わされる、それを認め合う、柔軟性、とにかくこの書は柔軟性のたわわな果実です。そんなことを最後の部分で改めて気付いたと書くと、何だ、そんなことと思われるかもしれない、でも、“改めて気付いた”、このことにこそ宗教の本質があると思います。宗教とは、大きな意味で救いが発生するもの、私はそう認識している。人は決して完璧ではない、だから、快い関わりあいを持つことは人を幸せにする。人の人生において聞く耳を持つ、他者に耳を傾ける、これほど、大事なことはないのではないだろうか。て 一つの縁により気付かしてもらうこと、このことによって人は救われるのではないか。そんな宗教の大事な部分を釈氏は、最後の最後にトラップとして、仕掛けたように感じた。読み手の勝手な意見だが、この書の、難しい哲学の人の言葉を内田氏がめちゃわかりやすく説いていることや、釈氏、両氏の視野の広さ奥の深い語りを見ていると、そう感じてしまうのだ。
下巻は、上巻にまして、社会問題があらゆる視点から述べられていたように思う。前半は上巻の談義の続きもありながらの日本人の宗教性が述べられ、制度宗教、市民宗教、自然宗教という言葉から見事な話が述べられている。話は素晴らしく、展開していき欲望の話から、超越した存在がの話で、被造物感覚、絶対的な遅れの感覚など、人間を超えるなにかという視点から話され話は展開される。そこから倫理の話に持っていくことがすごい(笑) 倫理とは常識(内田氏)、非常に感銘を受けた。常識とは実体がありそうで実はないもの。たしかにそうだ。私は両氏の倫理、常識を交えた談義この部分に下巻での一番感動した部分である。倫理とはダブルスタンダード? 実におもしろい。そして釈氏、常識の話からの情報化社会、価値観の多様化への提唱、すっごい共感!!!!! 何が何かわからない、でも人は何かにすがりたい、それが、今の悪い新興宗教にすがり、お金や家族、人生を奪われる人の姿じゃないでしょうか、ネオンを求め割拠する若者の姿じゃないでしょうか? 本質を失いつつある時代、そんな時代に提唱を鳴らすことのできる書、私はそんなふうに思いました。
紙の本
宗教の純良さ。
2005/04/04 23:01
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:YUMEJI - この投稿者のレビュー一覧を見る
やっぱりやっぱり難しい本なんですね。(いきなり…)
それは、難しい言葉で書かれた本であるという事ではなく、両先生の「言いたい!伝えたい!」がふんだんに織り込まれているからなのかなーと思ったりしました。
わたしは、ある仏教系大学に通う学生なのですが、どこかの宗教団体の信者でもなく、ただ「仏教とは、浄土真宗とは」を知りたくて読み始めたのです。
ところがところが!!
今日、面白いことがありました。(ここ、読み飛ばしても構いません…。汗)
うちの大学で入学式が行われたのです。在校学生は、自分たちのクラブや委員会へ勧誘するために、チラシや声かけをしてました。で、そこで奇妙(とか言ってもいいのかな…不安)な光景を見たのですね。仏教系の大学に通っている学生が、自分の信心している別の宗教団体の勧誘?というか、まあ自己主張?(なのかな)とにかく、無言で新入生への勧誘(無言なのに、勧誘というのかしら…)をしているようでした。
その行為が、うちの大学の規律に反しているとか、どーのこーの(まあ、言論の自由はありますからね)はわたしにはわかりません。しかも、わたしはただ仏教系の大学に通っているというだけの人間です。
そこに「倫理性という、おのれの経験や推論の客観性を過大評価しない節度」と仰った内田先生の言葉にとてもよくあてはまるんじゃないかなーって思ったのです(読み違えてたらどうしよう。でも、此処の論点が一番好きかも)。
私自身、入学式という場と、彼らの行為との間に違和感(過大評価している、と)を感じたのですね。
そこに宗教の純良はあるのか?!などなど。笑
とどのつまり、この本は、「宗教とは何か」とかいう仏教や宗教の入門書などを読むより、日常生活の違和感、または、日常生活の何気ない行為に対して、自分の「倫理性(常識?)」を持ってして判断(良くも悪くも。きっと、自分がどういう人間なのか、ちょびっとわかる…?)できるようになる本だと思います。
うー…言いたいことが、自分でも掴めません。
全然、書評になってないかも…。
投稿元:
レビューを見る
前巻に引き続き、内田樹と釈徹宗のインターネット往復書簡。倫理や常識という観点から宗教について論じ合っていた。一巻が宗教一般について語られていたのに対してこの巻ではより浄土真宗にクローズアップされての解説が多かった。
投稿元:
レビューを見る
読み助2009年3月9日(月)を参照のこと。
http://yomisuke.tea-nifty.com/yomisuke/2009/03/
投稿元:
レビューを見る
[ 内容 ]
いよいよ論件は「悪人正機」へ。
終始一貫して常識感覚で宗教を語るレヴィナシアン・ウチダ大家さんと浄土真宗のポジションを明確にしていこうと法話するシャク住職。
ますます賑やかなホームページ長屋の『インターネット持仏堂』。
話が弾んで、2冊目へ。
「その10」から「その17」までと「間狂言3・4」を収録。
一部『歎異抄』原文付き。
[ 目次 ]
その10 賢者と愚者の宗教性
その11 「善性」と「邪悪」について
その12 仏教における「悪」―悪人正機/悪人正因
その13 「悪人」論―空中浮揚とアブラハム
その14 宗教と倫理
その15 さらに「宗教と倫理」
その16 常識と宗教
その17 あとがきに代えて
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
投稿元:
レビューを見る
私は真言宗が強い地域で育ったので、浄土真宗がどんな宗派か知りませんでした。
浄土真宗のことが分かりやすく解説されているだけでなく、宗教全体、倫理・常識、近代思想という幅広い視点から内田先生と釈住職の書簡のやりとりが進むあたりは、他の宗教本とは一線を画している印象です。
面白かったです。
投稿元:
レビューを見る
最強の入門書だろうな。
浄土真宗に限った話ではなく、宗教そのものを考えさせられる。
内田さんの思いがけない切り口と、釈徹宗さんの仏教解説、けっして完全一致せず、どこか微妙なズレがありもどかしい。しかし、そのなかに共通部分を見出したとき、宗教の輪郭が浮かんでくるような気がする。
「縁」にはじまり、因果律と宿命、善性と邪悪、様々なことを論じる中でところどころに、はっとさせられる論理が顕れる。これはすごい。
自身の中に根付いている(かもしれない)宗教性を発見させられた。
投稿元:
レビューを見る
前著の続き。
休日に、少し落ち付いて宗教のことを考えるのもいいものだと思う。
①釈:ウェーバーのプロテスタントが果たした資本主義への貢献を、日本では浄土真宗や石田梅岩の商人道が果たした。(p148)
大きく出ましたね。でも、マックスウェーバーの説も中国とかに資本主義がでてきているので、なんか色あせてきましたね。古典ではありますが。
②内田:オカルトと科学を切り分ける境界線があるとすれば、私は「倫理性」ということにつきると思います。そして、それはオカルトと宗教を切り分ける境界線と本質的にはかわらないだろうとも思うのです。(p131)
③釈:真宗はあ、日柄、方角などの習俗・俗信、占いやまじないに迷わないことをモットーにしています。大安や友引といった六曜を無視し、死は穢れでないので、忌中の札もはらず、そしてお清め塩は使わない。(p94)
確かに、神道とか民間信仰だと、けがれの話が多すぎるので、それを超越する真宗は強いところがあるね。
投稿元:
レビューを見る
『いきなりはじめる浄土真宗』の後編である。前編を読んでいなくとも充分に面白い。もちろん、1・2と続けて読めば、話の展開はなおよく分かる。ただ、浄土真宗の僧侶である釈氏と、レヴィナシアン内田樹の対話による浄土真宗講義を期待すると、裏切られるかも知れない。本来は、そういう展開を考えてのインターネット持仏堂開設だったようだが、二人の立ち位置の微妙なちがいが、浄土真宗の宗教的ポジションなどという狭い領域を飛び越えさせ、宗教とは何か、倫理とは何かという命題を考えさせる思いもかけない対話を生んだ。
少し前、「なぜ人を殺してはいけないのか」という子どもの問いに、どう答えればよいのかという話題がマスコミを賑わしたことがあった。教育学者や哲学者と呼ばれる人たちが真面目に論議し、何冊か本も書かれたように覚えている。その当時、不遜にも「そんなこと当たり前だろう」と、はなから相手しないのがいちばんだと思っていた。世の中には訊くべきこと(訊いていいこと)と、そうでないことがあるのだ。
常識の分からない人間に常識を説くことのむなしさを知っている者から見れば当たり前なのだが、そういう輩に限って「なぜそれが常識って言えるのサ」と食い下がってきたりするから始末が悪い。そのあたりのややこしい事情を、いつものことだが明晰に解説してくれるのが内田センセである。その15「さらに宗教と倫理」の一章だけでも読んで損はしない。
内田は「世界の成り立ちに遅れて到着した感覚」が「宗教性」の根源にある体験だという。私たちは、自分がなぜ生まれてきたのか、どうして「いま・ここ」にいるのか満足に説明することができない。このおのれの無知と被投性の自覚が宗教の始点だ。しかし、そこから、「だからどんなふうに生きたって誰にも文句は言わせない」という道徳的アナーキズム、つまりニヒリズムまでは、あと一歩だ。
「神様に会ったことがある」という狂信者と「神なんていない」というニヒリストの「中間」に倫理の立場がある。してはいけないこと、しなければならないことの根拠は「ないようだけど、ありそう」という「決然たるあいまいさ」の中に倫理が存在する、というのが内田の考え。「倫理」は「常識」のようなものだ、と内田は言う。ただ、「常識」という言葉はとらえどころがない。時代や場所が変われば理解不能のものに過ぎない。
「常識」は普遍的な原理にはなれない。共同体の中でこそ命脈を保つが、その外では通用しない。「私にとっての『当たり前』はあなたにとっての『当たり前』ではない」。それが、「あらゆる集団がそれぞれの『当たり前』を持つのは『当たり前』のことだ」という認識を呼び寄せる。倫理というのは、身内には強制的だが、「他者」には宥和的に機能するものなのだ。だから倫理は本質的に「反-原理的」なものである。
世の中には「すべての人間は……しなければならない」と説く社会理論や政治思想が存在する。それら「原理主義的言説」は、内田によれば「節度を知らない理説」「非倫理的な思考」に区分される。その理説の論理的整合性は問わない。「正しいけれど倫理的でないこと」は、���に存在するからだ。その場合、どちらの判断枠組みに軸足を置くかは、その人間の実存的な決断に委ねるしかない、というのが内田の立場である。
こう言われてみると、「なぜ人を殺してはいけないか」という問いに対して、「そんなの常識だろ」と応えることの意味がよく分かる。子どもがそういう問いを発するときは、おのれの無知と被投性をおぼろげながら自覚しつつあるのだ。ニヒリズムに走らせるか、節度ある常識という「あいまいさ」の裡に決然と立たせるのか、答える大人の側の「倫理」観が問われているのだ。心してこたえねばなるまい。
あえて宗教とは言うまい。政治的であれ、思想的であれ、自分の正しいと考える立場を相手に押しつける原理主義が、多くの命を奪う悲惨な状況を生み、国と国との友好的な外交関係を危うくしている。アメリカ流「民主主義」の押しつけや首相の靖国参拝がそれだ。「常識」や「節度」という言葉には原理主義者の使う言説の勇ましさはない。せめては、決然と「あいまいさ」の中に立つことで、倫理的な立場というものをまっとうしたいと思うのである。
投稿元:
レビューを見る
『いきなりはじめる―』に引き続き。
いやー、宗教ってものを甘く見ていたと痛感。
仏教を哲学として…とか、わざわざ浅く取り入れる必要もないですね。
宗教についての大きな流れから、仏教について分かり、
その中で真宗にどういう特徴があるのかはわかりました。
なんとか入門はできたという感じです。
自分自身の宗教性、知性や倫理について、
考え直すよいきっかけになりました。
投稿元:
レビューを見る
浄土真宗・親鸞・歎異抄・悪人正気
難しい部分についてある程度解説しているのですが
ちょっと難解。というかこれだけでは、理解がたりない気がします。
また、今回の内田氏のレビナスについてのテーマ・
宗教と常識と倫理も難しかったと思います。
投稿元:
レビューを見る
読了。図書館で借りてきた本である。なかなか何かから逃げる行為のときでないと読めないと思う。難しいので、仕事から逃げるために読んだ。
投稿元:
レビューを見る
読み進めるにつれ、だんだん難易度が上がってきて、最後の方はちょっと理解が追いつきませんでした。言わんとしていることはぼんやり分かるけど、少しでも気を抜くと、途端に記憶からこぼれていってしまう、みたいな。で、最終的に”浄土真宗”にどれだけ迫ることが出来たかというと…。何かの機会があれば再読します。