紙の本
新しい批評家の登場
2006/02/08 15:27
5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:わたなべ - この投稿者のレビュー一覧を見る
平易な文章で書かれた理論書で、「国家」という概念の根底に暴力を見て、一種の力学的な構造を抉出していく手つきは極めて明快であり、かつ説得力に富んでいる。ひさしぶりに理論的な本を読んだという気がした。
ウェーバー、シュミット、ベンヤミン、フーコー、ホッブズ、スピノザ、アルチュセール、などの文章を引用しそれに批判を加えまた解釈を加えして展開する論はいかにもポストモダン以降の理論家といった風貌を見せていて、しかしいわゆるポストモダン的な「戯れ」とは無縁のぶっきらぼうな実践的態度が、新世代の批評家の誕生といった印象を与えてくれる。
もっとも、暴力論を基底にした首尾一貫した論理で「国家」という概念をキリキリ練り上げていく手腕は見事ではあるのだが、その原理性ゆえにどうも結論が先取りされて分析が組み立てられているように思われる箇所も見られ、それは国家の成り立ちについて歴史的に分析するところなどに多く現れているように思えた。
本書で対象とされている「国家」はやはり西欧に出自をもつ近代国家から遡行して抽象された「国家」であって、いわゆる「アジア的専制」や「アフリカ的段階」といった別の思考といかに交叉するのか、といった疑問を感じずにはいられなかった。
紙の本
先だつもの
2008/12/18 19:58
3人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:半久 - この投稿者のレビュー一覧を見る
思想・哲学書のなかでも、(一部をのぞいて)ひじょうに読みやすい部類の本だ。理由は三つ。
一つは、他の評者さんもご指摘のように、論理展開がじつに理路整然とすすむこと。
二つめは、引用が多いが、それがただ提示されるのではなく、反芻されて著者の言葉として議論に組みこまれて進行するところ。おかげで、本文に比べややわかりにくいものもある引用文の内容が有機的に連動する。
三つめは、より主観的な見方だが、ひらがな率の高さである。漢字は名詞を中心とし、かなりの数の動詞・形容詞などをひらがなにしている(ただし、統一されていないところがある。意図的なのかどうかはわからない)。これで文面の密集感がなくなったこともあって、ソフトで読みやすくなった。この手法がつねによいわけではないのだろうが、お堅い本にはかなり効果があるやり方だと思う。
私事で恐縮だが、書評コーナーの1600字制限がとれたこともあって、私もすこしずつひらがなを増やすようにしている。が、どうしてもクセで変換してしまい、なかなか用法の統一ができない。むずかしいものだ。
《要するに、国家がまずあるのではなく、暴力の行使が国家に先行するのだ。あらかじめ存在する国家が、あらかじめ合法化された暴力を独占すると考えてはならない。そうではなく暴力のヘゲモニー争いに勝利しているという事態が国家を構成していると考えなくてはならない。》
本書を読み終えて思い浮かべるのは、山登りにたとえると何度も行ったことのあるお気に入りの縦走路で、いつも一方方向からの縦走だったが、ある日に逆走をこころみてみたときの印象だ。あるいは、いつも帰りは真っ暗になってからしか通ったことのない「通いなれた道」を、はじめて明るいうちに帰ってみたときのことでもいい。
ポイントポイントでは同じもののはずの勝手知ったるなじみの風景が、シーケンスを逆にたどることで違ったものに見えてくる、あのときの新鮮な印象。
・シュミットのいうように、敵がいるから富を手に入れて暴力を蓄えるのではない。先だつのは富を我有化しようとする欲望だ。そのために暴力は蓄積され、暴力を組織化するという循環運動がある。
・税の徴収は民の安寧をはかるためにされるというのは、原因と結果を取り違えている。暴力の格差が税の徴収に先だつ。
・マルクスのテーゼは逆転される。徴収が余剰に先だつ。
・資本主義の発展によって国家は退場しない。資本主義を崩壊させても国家は廃棄できない。
さて、本書については、「すでにさんざんやられた議論だ」といったような批判もなされたという。
たしかに、国家を考察するうえでウェーバーによる暴力を核とした国家の定義を出発点にすえるのは、目新しいことではない。アレントによる権力と暴力の関係性の把握のしかたには、弱点があるという著者の指摘もそうである。
だが、著者が「先だつもの」としての“暴力”や“欲望”を終始手放さず、徹頭徹尾つきつめていく議論類型にはあまりお目にかからなかったような気がする。
今回、読みかえしてみて「迷いのなさ」が気にはなったのだが、断定調が鼻につくというほどではなかった。
平易でありながら「凄み」が伝わってくる理論書である。
投稿元:
レビューを見る
だいぶラディカル。フーコーとアーレントの暴力-権力論と後ろの千のプラトーの話が特に面白かった。わかりやすいし。
投稿元:
レビューを見る
「国家とは暴力である」
これを命題に国家を解説する
いままでの国家に対する考えが先入観による誤りであったと気付く
良い一冊
投稿元:
レビューを見る
国家論全体を暴力の哲学として理論的に、および主権から資本主義の関係として系譜論的に、捉えた画期的な1冊。体系だった記述、バランスの良い目配り、引用文献の良さ、さらに論理的展開など政治哲学の啓蒙書として文句ないレベルにあると思われる。すばらしいの一言。
投稿元:
レビューを見る
国家の概念規定から始まり、その生成、主権成立や国民国家の形成、資本主義との関係を論じている。暴力が組織化され集団的に行使されることのひとつの帰結として国家は存在し、暴力に先んじて国家があるのではないとする。また、一般的に理解しやすい”国家を必要悪とみなす考え”や”住民の生命や財産を守るため租税を負担すべき”という考え方を妥当でないとし、国家は自らの利益(富の我有化)を追求することで結果的に治安の管理に向かうとしている(”保護する故に拘束する”のではなく”拘束する故に保護する”)。国家と資本主義の関係やその親和性を説いた部分や、グローバリゼーションが国家が住民の生存について”面倒をみる”役割を低減させる方向に作用するといった指摘は特に興味深い。とてもおもしろい1冊だったが、理解できてない部分もあると思うのでそのうち再読する予定(また、引用がウェーバー、フーコー、スピノザ、ドゥールーズ、ガタリ他広範囲に及ぶため本当はそれらの書籍なども読んでのほうがよいのだろうけど…)。
投稿元:
レビューを見る
ここ数年来密度の濃い議論を展開している萱野稔人の著作。この著作で提示される、国家は暴力にかかわる運動であるという定義は、国家に従うことを自明視している人々の心性を鋭く抉るだろう。
投稿元:
レビューを見る
国家とは暴力にかかわる運動であるという、著者の国家論。
暴力の組織化による国家の成立から、近年の資本主義と国家との関係まで、大変興味深く読めました。
投稿元:
レビューを見る
国家を暴力の面から構成していく書。
思想的には著者は左派に属するのだろうが、おそらく左派言論村では扱いに困るだろうと、読んでいて苦笑した。
投稿元:
レビューを見る
図書館の社会学の棚にあったのだが哲学書だった。しかも予想外に面白かった。
著者はマックス・ウェーバーから出発し、国家とは暴力行使という手段によって定義される、と提示する。すなわち国家とは「暴力の組織化」である。
このテーゼは「死刑」や「戦争」が「国家」によってはじめて可能になることを思えば、半ば賛成できるものである。
しかしウェーバーはじめ、フーコー、ドゥルーズなどやたらに引用が多く、この引用の多さは日本人による現代思想書の悪しき特徴だ。それでも、オリジナルな思考がないわけではないので、興味深く読み通すことができた。
「国民国家」という近代の産物と、昔の西欧に見られた王権国家との断絶はどのようにして生じたのか、とか、「富の我有化」は国家誕生に際してそれほど重要なエレメントであったろうか、とか、読んでいて疑問を持ちつつも、それだけ自分の思考が刺激を受けたとも言える。
時間がたったらまた読み返してみたいと感じるくらい、意外に優れた本だったと思う。
投稿元:
レビューを見る
「国家とは人びとの間にうちたてられる関係性である・・」という何となくアカデミックな前提に、正面から「それだけじゃないだろ」と問う。学会の権威に自分を合わせるのではなく、自分の頭で考えるというスタイルに非常な好感を覚えた。
どこまでも平易な説明のスタイル。愚直なまでの反復、応答、問いの再確認の連続なのに、飽きがこない文章力も見事。
意識してアカデミックなおごりを避けているのだろう。その点も異色な学者のデビュー作。
投稿元:
レビューを見る
読み進めると、ふむふむ。ほーほー、なるほど、うーんという感じ。辞書引きながらでないと、知らない言葉が多かった。
投稿元:
レビューを見る
知的な刺激が満載!!
最近目新しいことがなくて。という方にはもってこい。
普段あまり考えることがない、しかし身近に存在する国家について、国家とは何かを考察する本。
国家とは誰のためのものなのか?必読
投稿元:
レビューを見る
国家論の本。ウェーバー、バリバール、ドゥルーズ、ベンヤミンなどを解きながら、国家にとって暴力装置の独占は不可欠であり、その国民国家としてのナショリズムもまた不可欠であるとする。主眼は、「グローバリゼーションによって国家はなくなる」「国民国家システムは消滅する」などという人々に対するアンチテーゼ。
投稿元:
レビューを見る
ネトウヨ勉強シリーズ。宇野常寛ら「ナショナリズムの現在」(朝日新聞出版、2014)に登場されていた萱野先生のナショナリズム論。萱野先生は、リベラルがゆえにナショナリストである。社会保障は国家という枠組みが前提だからだ。なぜ市民国家でなく、国民国家が成立したのかを学びたかった。
p26「国家だけが合法的に暴力を行使することができる…国家がその地域の中で他を圧倒しうるだけの暴力を持っている」なるほど。
p169「近代国家による暴力の独占は、ふたつの要因によって可能となった。貨幣経済の発達と、火器の発達である」。
p187「国家の脱人格化…国家の存在を支えるものが、人間のあいだの主従関係から、非人証的な領土へと転換される」
p198「(国民国家に統合され平等主義が実現される中で)住民たちに、国家への暴力への実践へと身を投じるよう強要することと引きかえに、政治的なものへの平等なアクセス権を保証したのである」民主化の中で政治参加の拡大で拡大されてきた。納税額、性別などの制限が撤廃されてきた。なぜ、住民でなく国民でその制限がとられたのかは分からない。一つの回答としては、国家という統合の物語の背景になったのが、文化的・民族的・人種的な近さを持つ「国民」だったからか。社会保障の充実、つまり再分配の強化の正当化は萱野先生ともに、国民間だから許される。そして、人々が自由に移住する中で、だれに最終的に守ってもらうか、ということから国籍/国民が意識されるようになったのだろうか。