紙の本
全ての「日本人」は読め!
2005/10/10 10:03
10人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:24wacky - この投稿者のレビュー一覧を見る
来沖する以前の東京時代、私は環境運動などを主に社会運動の活動に熱中していた。ヒトとモノが溢れかえるその場所で、さらに時代はインターネットによる情報のやり取りを必須化させる。その中には国家に管理・操作されていない真に必要な情報があり、パソコンに向かいながら正気を保ちつつ、物事をグローバルに考える修練を積む、という利点があったのは事実だろう。
だが、そこでも「沖縄」は抜け落ちていた。
私は直観した、グローバルな問題、アメリカ〜中国〜日本〜沖縄〜etc の坩堝、それが沖縄である。そしてまた、東京生活という「繁栄」の裏面の沖縄問題、それに向かわずして何の解決があろうかと。
〜「戦後六十年」があたかも憲法九条があったが故に戦争を免れ、 日本が平和を保てた六十年であった、とまとめられてしまうこと の問題があります。憲法九条をターゲットとして改憲の動きが強 まっていることに対して、憲法九条の意義や大切さを強調するた めに、この六十年を「平和」な時代であった、と護憲派が強調し たりする。
〜「戦後」日本の経済成長によって生活が向上し、それが多くの
日本人に「平和」を実感させたと思いますが、その足下に踏みつ
けられていたのは何だったのか。そのことを忘れて、あるいは意
識的に無視して「平和」な時代としての「戦後六十年」を語るこ
とは欺瞞に満ちています。「平和憲法」と「日米安保条約」を共
存させ、在日米軍の存在によって「国防」予算を抑え、経済成長
を優先させる。そのような戦後日本のあり方は、沖縄に在日米軍
基地(専用施設)の七五パーセントを集中させること、つまり日
米安保体制の負担と矛盾を沖縄に押しつけることによって可能と
なったのです。(13〜14ページ)
この沖縄の常識が相変わらず日本の常識とならないのは、「日本人」の無関心による。「日本人」が無関心なのは、国家による教育も含めた情報管理が第一要因だろう。真の情報を隠すことと別の情報を意図的に流すこと。これによって平和運動などに携わる「意識のある」人たちでさえ沖縄を足下に踏みつけていることに気づかない。知らないからといって済まされないこともあるのだ。
「青い海青い空」の観光消費イメージ、「ちゅらさん」「ナビーの恋」に代表される暖かくおおらか(テーゲー?)という紋切り型の人物造形によって捏造される「癒しの島」。この垂れ流しによってさらに真に「そこにあること」は隠蔽される。
ヤマトンチューが沖縄を消費していることに対して沖縄から批判の声が上がっている。勝手なイメージを作り上げブームに乗って移住してきて好きなところだけつまみ食い、基地問題など暗い現実には見向きもしない身勝手さにいい加減にしろ、といっている。
自分達が、沖縄大好き、沖縄ファンで、沖縄びいきで、積極的
に沖縄に親しもうとしていることを肯定的にだけ見るのではなく
して、それが一種の暴力性を持っているのだということを反省し
ていかなければ、軋轢は解消しないですよ。基本的に、お互い立
っているスタンスが違うんだ、ということをですね。その違いは
簡単に融和したり、乗り越えたりできないはずなんです。
(171ページ)
私がここ沖縄で日常生活に使う「標準語」は明らかに暴力装置として働いている。communication が discommunication を絶えず誘発しているという事実。そしてまた、仮に私が「ウチナーグチ講座」にでも通って、「ウチナーグチ」を完璧にマスターしたとして、それだけで私は認められるなどと期待してはいけない。「簡単に融和したり、乗り越えたりできない」のだから。その二律背反の中で、尚ここに立つことの理論と実践。それがこの書に対する答えとして「あえて」これから続けていくよすがである。
紙の本
「沖縄」に気づいてこそ,初めて「平和」が語れる
2005/09/23 03:01
7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:良泉 - この投稿者のレビュー一覧を見る
先週、「憲法を変えて戦争へ行こうという世の中にしないための18人の発言」に対する書評で、私は次のように書きました。
「これ(注:憲法第9条)があったおかげで日本は第二次世界大戦後60年間、他国の人を殺すことはありませんでした。日本が他国に軍隊でもって強権的な態度に出ることはありませんでした。」
しかし、認識に少し誤りがあったようです。
第二次世界大戦後、日本の軍隊(自衛隊)は、確かに直接は人を殺していません。しかし、アメリカの始めたイラクへの侵略戦争にはすでに自衛隊を“出兵”しています。さらには、朝鮮戦争・ベトナム戦争など第二次世界大戦後の戦争にはことごとく、日本の、沖縄の米軍基地からアメリカ軍が出撃し、多くの人を殺傷しています。
日本が戦争に限りなく近い国になってきていることに、日常的に気付いていないだけだったのです。
しかし、日本の中でも、常に戦争と隣り合わせで暮らさざるを得ない人がいます。戦争に気付かないふりさえさせてもらえないような、人がいます。本書で著者が訴える「沖縄」です。
日本がかつて犯した誤った戦争による、日本という国が背負わなければならない後遺症を、すべて背負わされてしまっているのが「沖縄」です。日本の戦後復興や経済成長という表の側面は、すべて「沖縄」への過度の負担という裏の側面があってこそなりたっていたのです。表の側面を明るく活発にしようとすればするほど、裏の側面には一層大きな負担がのしかかってきていたのです。
日米安保に依存し、それ以上の思考を停止させている能天気派にはもちろんのこと、現在の憲法に安住し現状維持を唱えてきた人々に対しても、きついイッパツをあびせかける強烈な書です。
紙の本
読みやすい文章だが、内容は濃い
2019/05/30 21:09
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:まなしお - この投稿者のレビュー一覧を見る
目取真俊の豊穣で密度の濃い小説と較べると、分かりやすく読みやすい文章になっている。目取真俊の違う面が見えた気がした。読みやすい文章だが、内容は濃い。目取真俊の思いが伝わってくる。
投稿元:
レビューを見る
今年を安直に「戦後60年」としてしまっていいのかという序文の疑問に関しては同感。庶民(=イニシアチブを取れない立場)の視点から戦争を考察するという点も理解できる。けれども、それ以外は目取真自身の本土人に対する嫌悪を書き連ねただけであるように思える。本土人が沖縄人を蔑ろにしたことを反省していないことに怒り、反省した上で接近することに怒る。それでは何も進まない。あまり報道されていない事柄に関して言及しているのは良いと思うが、未報道=真実で報道=情報操作と一元的に捉えるのはどうかと思った。
投稿元:
レビューを見る
「現代沖縄論入門」として、これはよい本だと思います。「沖縄問題」とは、(ポスト)コロニアリズム、ツーリズム、オリエンタリズム、……といった形で私たち(=「本土」の人間)の「問題」にほかならないのだ、ということを改めて再認識させられます。こうして彼の本を前にうなずく私に、「で、あなたは何ができるの?」という彼からの問いが突きつけられるのですが、何かをすべきだという思いがある一方で、問いの重さと自分の無力さも感じさせられ、体をすくませるしかない思いです。「ウチナー」好きの方もそうでない方も、一読を勧めます。(20070622)
投稿元:
レビューを見る
無関心/独りよがりに沖縄を見てしまう本土人の姿が、読みながら突き刺さってくる。
スムースに読めてしまうことに罪悪感を感じるまでよみなおせとしか言いようがない。
投稿元:
レビューを見る
目取真さんの言葉を借りて言うと、日本は今年で戦後65年になるが、戦後65年と言える国がアジアのどこにあるだろう。これは非常に特異なことではないだろうかということ。
そして、日本は本当に戦後65年なのだろうかということ。沖縄のことを考えると、果たしてそうなんだろうかと。アメリカが起こす数々の戦争に手を貸しているではないかと。
では、何故65年間、戦争がなかったといえるのか。それは憲法九条があったから?それとも、日米安保があったから?その二つが共存する矛盾は、沖縄へ75パーセントの基地を押しやることで均衡が保たれている。
「銃剣とブルドーザー」で米軍に奪われた土地はそのままの沖縄。占領は続いている。そしてそこから、今もアフガンへ爆撃機が飛んでいる実相。決して「戦後」とは言えない、ということ。
「沖縄に同情したり、関心を持ったり、連帯しにこなくていいから、基地を持ってけよ。」
投稿元:
レビューを見る
無知そのものは罪か?
もちろん罪じゃない。誰だって最初はなにも知らない。
でも人間何十年も生きてれば、無知が罪であることを実感したことは何度もある。
沖縄に対する無知は罪かもしれない、この本を読んでそう思った。
鳩山さんが海兵隊の抑止力についての発言で批判されていたけど、つまり日本国家としてメリットは認めてられてるんだ。(ほんとうに抑止力があるかは知らんよ)
だとすればその負担は日本人全員が共有しないといけないよね。
だから、徳之島であれどこであれ、門前払いじゃなくて、なぜ反対なのか?沖縄県民をも納得させる形できちんと説明する義務があるんじゃないかなぁ? なんて思ってしまう。
もちろん、スゴく難しいんだろうけど。
沖縄戦の経緯とか基地の経緯とかを知りたかったんだけど、この本では、そこら辺の記述はサラって感じかな。
基本は、沖縄に対する差別という問題が主題。
沖縄内部の南北/東西問題とか、大田知事が落選したときの経緯も興味深かった。
昭和天皇を真正面から叩いているのにはびっくりした。
もうちょっといろいろ考えないとダメだな、オレ。
投稿元:
レビューを見る
[ 内容 ]
沖縄戦から六十年。
戦後日本の「平和」は、戦争では「本土」の「捨て石」に、その後は米軍基地の「要石」にされた沖縄の犠牲があってのもの。
この沖縄差別の現実を変えない限り、沖縄の「戦後」は永遠に「ゼロ」のままだ。
著者は、家族らの戦争体験をたどり、米軍による占領の歴史を見つめ直す。
軍隊は住民を守らない。
節目の六十年の日本人に、おびただしい犠牲者の血が証し立てた「真実」を突きつける。
[ 目次 ]
第1部 沖縄戦と基地問題を考える(はじめに~「戦後六十年」を考える前提 私にとっての沖縄戦 沖縄戦を小説で書くこと 基地問題)
第2部 “癒しの島”幻想とナショナリズム―戦争・占領・基地・文化(アメリカの世界戦略と基地沖縄 能力主義教育の浸透と沖縄の教育運動 教科書をめぐる論点 イデオロギーとしての“癒し系”沖縄エンターテインメント 癒しの共同体・天皇制・宗教 沖縄戦の記憶と継承 沖縄文学と言葉)
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
投稿元:
レビューを見る
再読。
沖縄戦という暴力のあとに生まれた著者が、戦争を描くことの試みについても言及されている。
殺される側の視点、フレーミングの外の視点に自らを置くこと、その想像力の必要性を説く部分はよかった。
しかし後半に収録されているインタビューの部分には、「沖縄」と「ヤマト」の二項対立を強化する言説に陥っているのではないかという危惧を感じる。
投稿元:
レビューを見る
約6年ぶりの再読。
目取真俊の攻撃的な物言いは時に極端な味わいが感じられるのですが、このテの本の中では、存外冷静で読みやすいのかも知れません。
投稿元:
レビューを見る
沖縄戦と基地問題を考える◆はじめに~「戦後六十年」を考える前提◆私にとっての沖縄戦◆沖縄戦を小説で書くこと◆基地問題◆〈癒しの島〉幻想とナショナリズム
投稿元:
レビューを見る
沖縄は、日本と他のアジア諸国との間で、被差別と差別、戦争の被害と加害の二重性を負っています。その二重性の実態を検証し、その意味を考え、沖縄独自の戦争への認識と反省のあり方を示していくことが、重要だと思います。そして、そのような認識と反省を、目の前にある軍事基地の問題と繋げて平和教育に取り組んでいくことが、沖縄の教師の大切な役割だと思います。(p.54)
そのおばあさんの話は、戦争が人の心にどれだけ深い傷を残すか、長い時間の経過の中で忘れたり、薄れたりしたように見える記憶が、あるときふいに生々しくよみがえり、その人を脅かすこと。あるいは、その人の意識の底で生き方やあ行動に影響を与えていること。(p.68)
焼き殺される住民や日本兵の姿は目にしないまま、火炎放射器を噴射する米兵の後ろ姿や戦車だけを見て沖縄戦を認識するというのは、とても怖いことだと思います。それは知らず知らずのうちに、戦争を米軍の視点、殺す側の視点で見てしまう危険性を持っています。(p.89)
テレビでアフガニスタンへの米軍の爆撃を見て、自分の沖縄戦の体験を思いだし、洞窟の中で殺されていく人々のことを悲しむ感性や想像力。それは、攻撃する米軍の人種差別も含んだ発想の残虐性を露呈させ、米軍の視点からとらえられた映像を批判的に見直していく力にもなると思うのです。(p.95)
地元の反発を抑えて基地を受け入れさせるために、財政補助や振興策が政府から打ち出されていったのは先に述べた通りです。それによって、あたかも沖縄が金と引き替えに基地を受け入れたかのような認識が「本土」に広がっていきました。沖縄県民がみずから基地を受け入れたのだから、もう「沖縄に基地を押しつけている」という負い目を感じる必要もない。そうやって「本土」のお人達の基地問題への関心が薄らぐのに合わせて、「癒しの島」としての沖縄がもてはやされ、沖縄の音楽や芸能や料理などがブームになります。(p.113)
教科書問題というのは、教科書だけの問題ではなくて、それをどのように使うか、使えるかということが重要なんです。(p.145)
おおらかというのは、物事にこだわらないこと、家族の内部や社会の問題を問うて、それを複雑化させないということです。明るいというのは、暗い現実や嫉妬、恨みなどの負の感情には触れないということなんですね。
日本人に対する強い反発を抱く沖縄の若い人達もいる。「本土」から来た連中は沖縄の美味しいところだけをつまみ食いし、消費しているだけじゃないか。沖縄の文化を簒奪していると言ってですね。基地を沖縄に押しつけているという現実は見ようともしないその虫のよさ、日本と沖縄の間にある権力構造を自覚さえしていないその傲慢さに苛立っている。(p.170)
沖縄から基地問題を訴えると、聴衆はまじめな顔をして聴いてくれるかもしれない。しかし、それでいったい沖縄にとって何が変わるのか。聴いた人達はいったい何をするのか。何名かの人が、日本と沖縄の関係を変えようと具体的に努力するのか。そういう疑問が起こってならない。(p.177)
私にとって戦争を考えるというのは、両親や祖父母の体験を追体験して自分の���で再構成して考えることでもあれば、さらに映画やテレビの映像を通してであれ、文学や歴史研究所、さまざまな記録を通してであれ、いろんな資料を介して考える作業なんです。それしかできないんですよ。それを意識的にやるしかないんですね。(p.180)
世界の問題、日本の問題、沖縄の問題、自分が生きている社会の問題を考えれば、必然的に戦争の問題も考えなければいけないんだという、そうした姿勢を持つ必要があります。(p.181)
投稿元:
レビューを見る
最近まとめて読んだブックガイド的書籍の中から。15年前に出版されたものだけど、辺野古問題が取り沙汰されることの多い昨今、未だ変わらず戦後が続いていることは自明。各章扉に、戦争の悲惨を思わせる写真が配されているけど、本文を読むと、それですら尚、本質までは捉え切れていないという。撮り手がアメリカ人だから、あくまで加害者目線に過ぎないとの指摘は、当たり前のことなんだけど、実は知らぬ間に、そういう観点を植えつけられていることに唖然とする。自分も、温暖で美しい海に惹き寄せられ、再三訪れているんだけど、表面的な憧憬に止まるのでなく、県民の複雑な心理背景を理解する努力も怠ってはならぬと、心に沁みた次第。本著者の『水滴』という小説も気になっていて、読みたいリストに挙げているんだけど、なるべく急がねば。
投稿元:
レビューを見る
https://opac.lib.u-ryukyu.ac.jp/opc/recordID/catalog.bib/BA72535459