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ふちなし帽 ベルンハルト短篇集 みんなのレビュー
- トーマス・ベルンハルト (著), 西川 賢一 (訳)
- 税込価格:3,080円(28pt)
- 出版社:柏書房
- 発行年月:2005.8
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紙の本
既成概念の「ふち」をなくすことに意欲的、お体裁よく完結しない物語の数々。20世紀ドイツ語文学最高峰、真価発揮の短篇集。
2005/09/12 13:21
7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:中村びわ - この投稿者のレビュー一覧を見る
「狂っちゃう」というのは、周りの人にとっては厄介なことだが、当の本人はわけが分からなくなってしまっているので楽なのかもしれない。本人にとって辛いのは、いっそ狂いたいという気持ちがあるのになかなか狂っちゃえない状態で、しかもいつかは狂うという確信も抱いており、表題作「ふちなし帽」は、そこのところを切実に描いている。
この切実というのが、くせもの。狭い考えにとらわれた人間が、そのことばかり偏執的に意識して誰かに訴えるさまは「滑稽」に映ってしまう。本当は失笑してしまうのは人倫にもとるという感じなのだろうが、ユーモラスだと受け止めてしまう。
作家は当然その辺の効果を想定しているだろう。だからこそ、トーマス・ベルンハルトという書き手の人の悪さを「力」として私は信頼する。ただ、ここで他者の狂気を滑稽なものとして表現するのではなく、自己にも備わった傾向として慎重にメスを入れるのがこの作者の本領であり、その点こそが、彼なりの流儀として「倫理」に揺り戻す長所と言えるのではないかとも思う。
湖畔の村ウンターアッハに蟄居した語り手の男性は、自らの頭が病んでいるとの自覚がある。そこで、狂いかけた者にふさわしい自覚で人払いをしたり、妄想を助長させたりする。湖畔の村ウンターアッハの薄暮・暗闇への恐怖へのとらわれから、散歩途中で見かけた「ふちなし帽」への嫌悪が25ページ分、執拗にうなられている。
常人が読めば、突っ込みどころ満載の面白い小説である。何で踏んづけてしまった帽子をそんなものに見立ててしまうのか、どうしてそのような帽子をちょいとかぶってみることにそこまでの逡巡を抱くのか、なぜそこまでムキになって落とし主を捜そうとするのか。
この「ふちなし帽」が登場する「クルテラー」という人の名が題名となった短篇も、精神衛生上の危機を扱ったものであり、どこか作家の姿が浮かんでは消える。
刑務所で印刷の仕事に就きながら、長い自由時間を物語を書くことで満たしていたクルテラーが、釈放の日が近づくにつれ、恐怖を強く感じていく。狭い空間に暮らすことが、自分の殻に閉じこもっていれば楽だという人間にとっては理想的ということもあろう。それが脅かされたとき、どうなってしまうのか。
実は、この具体的にどうなってしまうのかの記述が改稿により削られたらしい。読者に想像の余地を残したという意図なのだろうか。そこには、きっとこうなるという悲劇の予想は可能だけれども、取り除いたことにより、狂的なものを「笑いごと」や「作りごと」、あるいは「他愛ないこと」「血迷いごと」としていかようにも片付けられる価値判断の余地をも与えたのではないかと受け止められる。
このように既成概念的な「ふち」をなくして、ただの物語ならざる物語を作者は慎重に提案する。冒頭の「ヴィクトル・ハルナプル」は特異なキャラクターに出会った出来事を童話仕立てで書いたもの。うねり跳躍する毒舌で中毒を誘発する大作『消去』に圧倒された身には、わずか8ページで簡潔に「毒」を垂らせるのかという驚きと期待とともに、興奮の読書を約束された。そして、それはつづく10篇においても設定や表現、それにより到達する「域」において裏切られることはなかった。
未訳の自伝5部作、読みたいですね。翻訳、出版のご検討、ぜひ宜しくお願いいたします。
紙の本
ひとことで言えば,頭痛くなるほど「文学」なんである
2007/01/16 00:32
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:SnakeHole - この投稿者のレビュー一覧を見る
突然うろ覚えの話を始めて申し訳ないが,村上春樹のデビュー作「風の歌を聴け」に,少年時代の主人公が医者から「文明とは伝達である」と教えられるシーンがあった。人間は情報を伝達するために言語を作った,言葉の主たる使用目的はだから言わんとする内容を正確に伝えることである……ってな話を国語教師に聞かされた人もいると思う。作文では,いつ,どこで,だれが,なにを,なぜ,どうしたのかちゃんと分かるように書きなさい,とかね。ところが作文の上等なもの(……ではないと思うが世間一般にはそう思ってる人が多いようだ)である文学において,この5W1Hの要件がきちんと満たされることは稀である。それがなぜかを論じる暇は(知識もか)ないが,比喩ならできる。作文はペン習字であり文学は書道なのだ。書道の域に達すれば,もはや素人にはそれが字なのか絵なのかそのどちらでもないのかあるのか分からないこともあり得る,のである(そうでしょ?)。文明は伝達かも知れぬが,だとすればその伝達のコントロールを文化というのだ。
前置きが長くなったが,このベルンハルトというドイツ人作家の小説は,上のような意味において紛れもなく,いや頭痛くなるほど「文学」である。乱暴にまとめてしまうが,この短編集に納められた作品は「頭のおかしい人物の一人称で語られる話」と「頭のおかしい人物の行動や発言が第三者によってそのまま語られた話」に大別出来る(そんな分け方をするのはオレだけかも知れんが)。前者においては伝達されようとしている情報の質の悪さに混乱させられ,後者では伝達された情報の意味が理解出来ずに苛立ち,結局「意味」という池のほとりに立たされながらその水をひと掬いたりとも味わえない読者は,その味わえない水のゆらめきを眺めながらなにか分かったような気持ちになろうと努めるしかない。そしてその努力の滑稽さに気付いた瞬間に,ベルンハルトの他の本を注文せずにはいられなくなってると言うわけなのだ,きっと。
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