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歴史という言葉には、後世まで語り継がれるべき重要な社会的出来事という意味がある。歴史には、必ず、異なる見方と異なる事実認識がある。たとえば、戦争によって犠牲となった人たちがあまりにも多く、破壊があまりにも徹底して行われたため、残っている記録は少なく、記録があってもそれがあらゆる異論を否定しうる確証になることはほとんどない。だから、歴史は、いくつもの異なる立場の見方を合わせて学ぶ必要がある。
ソチオリンピックとウクライナの騒乱からあらためてロシアの現代史に興味が湧いて、関連するフィンランド・ドイツ・ロシアそしてポーランドの歴史教科書を続けて読んでみた。知らなかった出来事をたくさん知ることができたし、知っているつもりだった出来事の新しい見方を知ることができた。最後に読んだ900ページに及ぶ「ポーランドの高校歴史教科書【現代】」は、1939年9月1日のドイツ軍のポーランド侵攻から始まる。ヨーロッパにおいては、この日が、第二次世界大戦が始まった日とされている。
ポーランドは、第二次世界大戦で最も悲惨で過酷な経験をした国であることは疑いがない。侵攻を受ける前のポーランドの人口は約3,400万人であった。戦争が終わるまでに、あまりにも多くの死者・傷病者と、あまりにも多くの追放者・強制移住者・国外逃亡者が出た。その上、戦争後に戦前のポーランドの国土の一部が失われ、その代りに新たな「回復領土」を得たので、国土自体が大きく変更されてしまった。したがって、戦前の国民にどれだけの犠牲者があったのかを正確に把握することができない。ある集計では、戦前の国民のおよそ5人に1人(20%)に相当する約663万人が死亡し、およそ14人に1人(7%)に相当する約238万人が国外に追放されたとしている。死亡者のうち約578万人が民間人で、そのうち約320万人はユダヤ人であったとされている。ポーランドの戦争犠牲者数については、ポーランドの教科書にも全体像は記載されておらず、加害者側であるドイツとロシアの教科書には出来事は記述されているが犠牲者数はほとんど記載されていない。
終戦後、ポーランドは、新しく決められた領土からユダヤ人・ドイツ人・ウクライナ人などの異民族を暴力的に追い出し、カトリック教信者ポーランド人の単一宗教単一民族国家となった。とくにドイツ人は、ドイツ領であった「回復領土」から約230万人が追放された。ポーランドの教科書に、そのことが詳しく書かれているが、ドイツの教科書にはほとんど書かれていない。
ポーランドの戦後史は、ソ連の衛星国である東欧共産主義国のひとつとしての歴史であり、したがってソ連の政権に大きな影響を受けてきた。スターリンの独裁恐怖政治は1953年にスターリンが死ぬまで続いた。スターリンと同じくグルジア人で、スターリンの右腕として大粛清を実行したベリヤとの政権争いに勝つため、ウクライナ人のフルシチョフはスターリン批判を行って国民弾圧の犠牲者数の多さを暴露し、ベリヤを処刑した。スターリン批判は権力闘争のために行われたのであって、ソ連の統制の手をゆるめるものではなかった。スターリン批判と米ソ間の一時的「雪解��」によって東欧各国に統制管理の手を緩める動きが生じると、フルシチョフは恫喝と武力によってその動きを阻止した。1956年10月にポーランドのリーダーに復帰したゴムウカ第一書記は、大衆的人気があったので、デモや集会の終わりを宣言しフルシチョフの怒りをおさめた。しかし、ハンガリーでは、自然発生的な蜂起が発生し、ソ連軍の戦車がブタペストに入ったが武力鎮圧できずに一旦撤退を余儀なくされた。ハンガリーはワルシャワ条約機構からの脱退を宣言したため、本格的軍事侵攻が行われ、大規模な流血と弾圧が行われた(ハンガリー動乱)。ポーランドがソ連に反旗を翻すことがなかったのは、西側に与してドイツから奪った「回復領土」を失うことを懸念したからであるとされている。
冷戦が第三次世界大戦になりかけたのは、フルシチョフのソ連とケネディのアメリカの時代だった。1961年8月13日に西ベルリンへの通行を遮断する「ベルリンの壁」の建造が始まり、1962年9月に「キューバ危機」が勃発した。ジョン・F・ケネディは1963年11月22日に暗殺され、フルシチョフは1964年10月14日に全ての職を解任された。
フルシチョフを失脚させたブレジネフ(ロシア系ウクライナ人)らのトロイカ体制では、ソ連が人を驚かせる政策をとる時代が終わったように思われた。アメリカはジョンソン大統領の下でベトナムへの軍事介入をエスカレートしていった。ポーランドが常に心配していたのは旧ドイツ領の「回復領土」のことだった。
1967年の「六日間戦争(第三次中東戦争)」ではソ連と東欧諸国がアラブ側を支援し、ポーランド国内ではユダヤ人に対する抑圧が行われた。1968年の「プラハの春」への軍事介入を正当化する制限主権論理は「ブレジネフ・ドクトリン」と呼ばれ、ソ連と東欧諸国の軍事侵入にポーランド軍も参加した。
1970年に「西ドイツ=ポーランド国交正常化条約」が調印され、西ドイツのブラント首相が「ゲットー英雄記念碑」に跪いた。この条約で、かつてはドイツ領だった「回復領土」はポーランド領土であることを東西ドイツが承認したので、ポーランドの懸念は払しょくされ、ソ連から距離を置いて西側世界に接近しやすくなった。これはドイツ国内では激しい論争を引き起こしたが、2年かけてついに西ドイツはこの条約を批准した。今日から見ると、この条約を含む西ドイツの「東方政策」は、ヨーロッパを分断していた鉄のカーテンを打ち砕くための西側からの大きな一撃となった。
1978年ポーランドのクラクフ大司教カロル・ヴォイティワがローマ教皇に選出され「ヨハネ・パウロ2世」となった。これはポーランド社会にとってまさに「歴史的大事件」だった。ポーランド人のほとんど全てがカトリック信者であって、そのポーランドの教会から世界で最も有名で敬愛される教皇が輩出されたのである。それによってポーランド国民のプライドは著しく高まり、同時に共産主義イデオロギーへの忠誠心や求心力が著しく弱まることとなった。そこから「民主化」の運動が生まれてくることになる。
1980年9月独立自主管理労働組合「連帯(ソリダルノシチ)」が発足した。レフ・ヴァウェンサ(日本ではワレサと呼ばれる)はその創設メンバーの一人だった。1968年の「プラハの春」には軍事介入を行ったソ連が、1980年代のポーランドの「連帯」の反政府闘争に対しては軍事介入を行わなかった。1906年生まれのブレジネフは1980年には74歳で病気だったので、国家安全保障問題は幹部の合議による集団指導体制で決められた。その中で、1979年に本格的な軍事介入を開始したアフガニスタンでは、チェコのような「手早い」解決が出来ず、犠牲が増えるばかりで泥沼にはまっていった。ポーランドの問題はポーランド政府が戒厳令で断固対処するよう尻を叩くだけで、軍事介入要請には応えなかった。1981年12月戒厳令によりレフ・ヴァウェンサを含む数千人が連行され一旦は沈静化したが、後に釈放されると再び「連帯」の力は復活した。西側世界の関心と支援も高まり、1983年にヴァウェンサはノーベル平和賞を受賞した。
1982年にブレジネフが死去し、後継のアンドロポフも1984年に死去、その後継のチェルネンコも1985年に死去した。1985年3月に54歳のミハイル・ゴルバチョフ(北カフカス出身のロシア人)が最高指導者に就任した。手始めに人事を刷新した後、1988年5月にアフガニスタン撤退が開始され、1988年7月にポーランドを訪問した際に実質的に「ブレジネフ・ドクトリン」を継承しない発言を行った。これによって、東欧諸国の民主化が一気に勢いづいた。
1989年2月、ストライキとデモが行われる中で、ヤルゼルスキ政府とヴァウェンサ「連帯」の代表団による「円卓会議」が開始され、1989年6月に第一回議会選挙が実施され、合意に基づいて、臨時大統領にはヤルゼルスキが就任し、議会選挙で多数を占めた「連帯」が内閣を組閣した。翌1990年の第一回大統領選挙でヴァウェンサが勝利した。
東欧諸国でもポーランドと同じような「民主化」が劇的に進んだが、ルーマニアでは流血を伴い、ユーゴスラビアでは分離独立国家間の戦争に陥った。東欧諸国の民主化に介入しなかったゴルバチョフは、バルト三国(エストニア・ラトビア・リトアニア)の分離独立要求に対してはソ連軍を送り込んだ。しかし、1991年8月19日に副大統領ヤナーエフらの守旧派によるクーデターが発生し、エストニアとラトビアは翌20日に独立を宣言した(リトアニアは3月に独立を宣言)。更に、1991年12月8日、ロシアのボリス・エリツィン大統領(ウラル地方出身のロシア人)、ウクライナのレオニード・クラフチュク大統領、ベラルーシのスタニスラフ・シュシケビッチ最高会議議長のベロヴェーシ合意によってソ連からの離脱が合意され、ソビエト連邦は崩壊し、民族国家に分解された。
1990年に東ドイツ各州がドイツ連邦に加わる形でドイツに統合され、東欧諸国で最初にEC(欧州共同体)に組み入れられた。1993年にEU(欧州連合)が発足し、1995年にオーストリア・スエーデンとともにソ連に隣接し影響下にあったフィンランドが加盟(第4次拡大)、2004年にはポーランド・ハンガリー・チェコ・スロバキア・スロベニアの東欧5か国と旧ソ連から独立したバルト三国エストニア・ラトビア・リトアニアを含む10か国が加盟(第5次拡大前半)、2007年にブルガリア・ルーマニアの東欧2か国が加盟(第5次拡大後半)、2013年にはクロアチアが加盟し、現在28か国が加盟している。その結果、EUとロシアの間には、ベラルーシとウクライナしかなくなった。
戦後の政治を揺さぶって来たのは、イデオロギー対立・排他的民族主義・圧政と���抗・生活苦への不満などであった。ポーランドの「連帯」による民主化の熱狂の中で行われた第一回議会選挙や第一回大統領選挙の投票率は低く、有権者全体に対する勝者の得票率は必ずしも高いものではなかった。国民の思いは多様であった。国民の共通の関心は、失業や生活苦の改善にあった。ソ連崩壊と東欧民主化は、政治と経済の体制の著しい混乱を招き、多くの東欧諸国は10年以上にわたって(1990年から2000年頃まで)生活水準はむしろ低下を続けた。混乱と経済低迷が続いたロシアでは、2000年にプーチン大統領(レニングラード=現在のサンクトペテルブルグ=出身のロシア人)が登場した。
2004・2007年の第5次EU拡大時に加盟しなかった国々(ロシア・ウクライナ・ベラルーシ・グルジア)の生活水準回復の速度は遅く、とくにウクライナとグルジアはソ連時代の水準にも回復できていない。この両国の政変にロシアが軍事介入することとなっているのは偶然ではないだろう。
「ポーランドの高校歴史教科書【現代】」を読み終わろうとしていたときに、欧州議会副議長であるポーランドの副首相が、ドイツの空港職員に対してヒットラーやアウシュビッツを持ち出して怒鳴った事件の報道があった。国民のほぼ5人に1人をドイツ人に虐殺された現代史を学んでいるポーランド人として、ちょっと腹の立つドイツ人に向かってヒットラーやアウシュビッツを持ち出して罵りたくなるのは理解できる気がする。ところが、それをドイツの政府や報道機関が非難するのではなく、ポーランドの首相が、戦時中の対立関係を水に流して緊密な関係構築に取り組んでいるのであるから不適切だとして、発言者の処分を検討しているという報道がなされているのである。
このニュースには非常に重要なキーワードがいくつも入っている。この報道について考えさせ、生徒たちに討論させるのは、とても良い学習になるのではないかと思う(大学受験には何の役にもたたないが…)。おそらく、日本の高校生の多く(そしてほとんどの大人)は、ポーランド政府の大人の見識を称え、韓国や中国の政府の日本に対する態度を非難するのではないかと思う。しかし、どうしてポーランドは戦時中の対立関係を水に流して緊密な関係構築に取り組めるようになったのか、戦後の両国の歴史をよーく学ばなければけして理解することはできない。ポーランドとドイツの歴史教科書を読んでみることをぜひお勧めしたい。